彼女の喧嘩の終わり
「あんた、なんでこんなことやるんだ?」俺は彼女に訊いた。
彼女は答えず、ぎゃははと笑った。高らかに空まで届く笑いだった。遠く遠く空のどこまでも声は伸びていって、やがてどこかで消えていった。
ひとしきり笑って、「お前はやらないのか?」と訊いてきた。もちろん俺は首を横に振った。もう喧嘩からは引退。錆びた余生をさびしく送る身だ。
「あたしもこれでこの遊びはおしまいだ。行くとこまで行ったからね」さびしい感じはなかった。むしろ誇らしげにしていた。たぶん、全てやりきった、とでも言いたかったに違いない。
その言葉の通り、その日で彼女の喧嘩人生は終わった。
「デートしないか、一匹狼」こう彼女が言ってきたのは、さていつだったかな。二年の――寒い季節だったかと思う。もちろん季節なんざどうでもいい。三年の夏以降でないことは確かだ。というのは、三年の春の終わりくらいから、俺の生活が少し変わったから、覚えてるんだな。その頃から、俺は彼女の近くにいるようになった。デートしたのは、それ以前の話だ。
「なかなかいい考えだな、彷徨。できればロンリーウルフは止めてくれるとなおいいんだがな」
「彷徨ってのはなんだ?あたしか?」
「元気に遊びまわっているからな」
「お前のことをなんと呼べっていうんだ?」
「芥だ。ゴミのような存在だからな」
ぎゃははと彼女は笑った。おしとやかなんて言葉とは対極にある笑いだ。当たり前だけどな。彼女はうちの高校を従えちまってるんだぜ。おしとやかだったら、笑っちまう。
「ゴミか。お前がゴミなら、あたしはなんだろうな。ゴミクズ以下。あはは。そりゃいいや。あはは。あはは」
馬鹿言うなよ、あんたがゴミ以下なわけないだろ、と思ったけど、俺はあえて口に出さなかった。彼女はふざけているわけじゃなかった。わからないけどな。本気だったんだろうと、俺は思う。今でも彼女は自分のことをゴミ以下の存在だと思っているかもしれない。きっと、だからこそ彼女はあんなに楽しんでるのだ、人生をな。
「デートなんて、お前、したことあるかい。ありそうだな。お前、意外とかっこいい。それに一匹狼気取りってのは、好きな奴は好きそうだしな」
「あんたのデートは、喧嘩かな」
「あったり前だろ。生まれてから今まで、男にときめいたことなんか一度もなかったさ。おいおい、変なこと考えるなって。あたしより強い人物なんて、掃いて捨てるほどいたさ。それでも好きにはならなかったな。今後だってないかもしれねえな」ぎゃははと笑う。
「好きにしてくれ。俺を巻き込むな」一応言っとくが、俺は彼女に惚れていた。今も惚れているんだろうな。けど、彼女に関わりたくなかったというのも本当だ。俺は静かに過ごしたかった。彼女のぎらつくような生命力は、俺にはまぶしすぎるんだ。フラフラして、ばたん。だから近寄りたくなかった。たとえ今後彼女を越える女はどこにもいないのだとしても。もう誰かを好きになることはないのだとしても。彼女に近づくことは、無理なんだな。
「ちょっと、デートだよ。どこ行くんだよ」俺は彼女から逃げるように去ろうとすると、彼女は追いついてきて腕を絡めてきやがった。なにしやがんだ、と本気で思った。すまん、少しうそをついた。けど、腕を振り払ったのはほんとだ。
「頭、イカレちまったんじゃないのか?」
「バーカ。あたしの頭は、ずっとイカレっぱなしだよ。おい、くっついて歩こうぜ」
「寄るな。俺は帰る」ああ、でもダメだな。二回目に彼女が腕を絡めてきたときは、どうもしなかったものな。この女、ほんとに頭イカレたんだろうな、なんて思いながらも、彼女の腕の感覚は本物だからな。意外と華奢でやわらかかったな。なに言ってんだ俺は。
それからどうしたかって?どうもしねえよ。ただ歩いた。二時間くらいかな。ずっと。馬鹿だと思うだろう?けど、どうしていいかわかんなかったし、彼女だってどうしたいってことはなかったんだろう。しばらくすると暗くなって、それでも歩いて、俺がくたびれた頃に、「そろそろ帰れ」って言ったら帰った。だから俺も帰った。それだけだ。
二時間のあいだ、少しばかり話した。他にすることないもんな。俺のことも話したし、彼女のことも少しだけ聞いた。家族はみんないい奴で、あたしだけがイカレてる。初めて人を殴ったのは小坊のとき。以来喧嘩と生活がイコールで結ばれている。校内で俺以外の奴はみんな彼女の配下になっている。みんな弱い。格闘技をやったことはあるけど、ルールは嫌いだ。今のところ、喧嘩がいちばん。けど、そろそろ飽きてきた。勉強でもしようかな、と思っている。
そんな話だ。本当にそんな話だったのか、よく覚えていない。
勉強って言葉が出てきたから、ついでに彼女の進路を教えておく。彼女はストレートで大学に受かった。俺でも入れるような三流大学でなく、まあそれなりに名のしれている大学だ。受かったことは直接聞いたけど、「一日も行かずに退学してやるんだ」と言っていた。たぶん一日も行かずに退学したんだろう。入学金が無駄だな。かわいそうに、おやごさんは。
それから、もう一つ覚えている。「なにをしてもつまらないよ」と彼女は言っていた。さびしそうな顔だった。でもどうかな。ほんとに確かな記憶かな。記憶なんてもんは、不確かなもんだ。だからほんとは言ってないかもしれない。
それが確かな記憶だったとしても、彼女が不幸なのかどうか俺には判断つかないし、どうでもいい話だ。俺も彼女もどうせ死ぬ。きっと彼女はつまらない人生を楽しく生きるだけなのだ。高杉晋作みたいなこと言っちまったな。はは。
なんかあんまり覚えていないな、あの頃のことは。そりゃそうか。俺はさびしく淡々とした高校生活を送っていたんだものな。友達もいない。彼女もいない。これでどうやって楽しくやれというんだ。喧嘩を続けていればよかったのかもしれないけど、ま、いまさら言ったって仕方ないやな。
高校の雰囲気がおかしくなってきたのは、俺の三年生のとき、たぶん春と夏の間くらいの時期だ。雰囲気がおかしいって、変な表現だな。どういえばいいんだ?もともと殺伐としてたのが、もっと殺伐としてきていた。教室は荒れて、授業受けるやつなんて、数人にも満たないくらいだった。俺一人で授業受けたこともあるな。先生も気の毒に。それでも頑張って授業してたよ。
雰囲気がおかしくなったからって、俺がどうこうすることはないよな。俺はもう枯れた人間だったから。なにがどうおかしいのか突き止めようとすることもなく、ただ淡々と、日常を送っていた。なにをするでもなく、喜ぶでも悲しむでもなく、日々が過ぎていった。そんなもんだろ?人生なんて。
そうやって傍観してもいられなくなったのは、また喧嘩吹っかけられるようになったからだった。登校中、下校中、休み時間。不良どもは俺の行く手を阻んで殴りかかってきた。なにを言うでもなく、いきなり殴りかかってくるんだぜ。最初のころは適当にあしらっていたけれど、仕舞いにはめんどうくさくなって殴り倒すようになっていた。それでもとどめはささない。俺の灯は消えました、もう点きません、ということだ。
殴られるのは面倒だから、俺は彼女に会うことにした。何度も言うように、この高校を仕切っているのは彼女だったからだ。もちろん不良どもが俺を狙っているのは、彼女の指図なんかじゃないだろう。彼女が俺を狙う理由がない。彼女に会うことにしたのは、配下に俺を狙わないよう、指示してもらうためだ。
けど、彼女に会うのは大変だ。俺は彼女の連絡先を知らないし、彼女が何組なのかも知らない。普段どこでなにしてるのかも知らない。それまでに会ったのは、俺が殴られたときと、彼女と歩きまくった二回だけだった。結局、今まで彼女に何回会ったんだろうな、俺は。
とりあえず殴り倒したやつに彼女の場所を訊くことにした。登校中のことだ。
「知らない」それが答えだった。そいつは群れの中でも下っ端のやつだったんだな。
「じゃ、知ってそうな奴に会わせろ」というと、そいつは携帯でどっかに電話して、しばらく待ってると男が現れた。一人で来たから、強いんだろうな、と俺は憂鬱になった。よく考えたら、殴り倒す必要なんてないんだけどな。
「あんたらの頭に会わせてくれないか?」
「今、あの人は忙しいんだ」
「じゃ、別にいい。俺を狙うのをやめるよう、言ってくれ」と俺が真面目に話していると、やっこさん、いきなり殴りかかってきやがった。右ストレートがあごに命中。全盛期なら不意打ちでもよけられたんだけどな。
「ああ、いてえ」とおどけようと俺はしたんだけど、奴はとにかく手を休めない。仕方ないので俺も相手することにした。奴が来るのに合わせて、俺も手を出す。カウンターって奴だ。一発で終わらせたかったからあごを狙うと、そのとおり一撃で終わったな。奴はひざから倒れて立てなくなった。
「いったいなんで俺を狙うんだ?」
「それがあの人の指示だ」とそいつは言った。聞いた瞬間、俺はまず耳を疑った。それから世界を疑った。世界が四次元にでもひん曲がっちまったのかと思った。俺は少しフラフラした。奴のストレートよりフラフラした。それからフラフラと歩き出した。
「彼女がそんなことするはずないじゃないか」いつの間にか俺は自分の部屋のベッドの上にいて、ひとり言を言った。頭の中は真っ白で、見える世界は真っ暗だった。どうやって帰ったのか覚えていない。仰向けになって、いつか意識が遠のいていった。つまり寝た。
起きたら少しはスッキリしていた。「彼女がそんなことするはずないじゃないか」もう一度つぶやいてみた。むなしかった。
家にいても仕方がないので、俺は学校に行くことにした。まだ時刻は昼過ぎだった。学校に行って、授業を受けた。つまらない授業だった。先生、たまには面白い授業をしてくれればいいのに。
やっぱり俺は彼女に会いたかったから、そこらへんにいた不良を殴ることにした。そいつもやっぱり下っ端だった。だから、また上層部を呼び出させて、そいつも殴った。簡単だ。
「彼女に会わせろ」俺はそれしか言わなかった。拒んだら殴った。拒み続けたから殴り続けた。忙しい、ってそいつはうわごとのように言ってたな。たぶん「彼女は忙しい」と言っていたんだろう。そんなこと俺にはどうでもいいことだった。俺は殴り続けた。
殴るのにも飽きてきたころ、「わかった」といって、そいつはどこかに電話をしていた。彼女がやってくるかと思っていると、やってきたのは男だった。俺はがっかりして、また殴らなければならないのかと思った。俺は殴りかかった。
「いや、もうやめよう。あの人に会わせる」そいつがそう言ったらしかったので、俺は殴るのを止めた。あの人ってのはもちろん彼女のことだ。
連れて行かれたのはなんかの部室だった。うちの高校では、部活を真面目にやる奴なんてなく、部室は放置されっぱなしだった。その中の一つを彼女の組織が占拠し、自由に使っているらしい。「あたしの活動拠点だ」とは彼女の言だ。
その中の一番奥に彼女は陣取っていた。たぶん取り巻きが何人もいたのだろうけど、俺の目には入らなかった。彼女を見た瞬間、俺は走り出して、彼女に殴りかかった。理性的な行動だったのか、今でもよくわからない。俺は彼女に憤っていたのかもしれないし、あるいは彼女に会う時の儀式として、殴りかかるのが当然だと思っていたのかもしれない。どちらにせよ俺は殴り倒された。俺の拳は彼女に届かず、彼女の拳が的確に俺のあごに当たった。俺は仰向けに寝転がって、意識はまだはっきりしていた。
「ずいぶんな挨拶だな」彼女は言った。
「こっちのセリフだ。なんで、俺をそっとしててくれなかったんだ。俺はもう、何もしたくなかったのに。それをあんたはわかってくれていると思っていたのに」たぶん涙声だったろうな。
「きっとお前はあたしのところに来ると思ったからさ。そして思い通りになった」彼女は俺のところまで来て、顔を覗き込んだ。喜悦を浮かべていた。ぞっとしたな。ああ、俺は死んだ、俺はそう思った。それくらい、彼女の笑みは綺麗だった。かわいいとは言わないな。綺麗だった。
「俺をどうしたいんだ」
「あたしの近くにいろ。そしてあたしのすることを見ていろ。それだけでいい。喧嘩はしなくてもいい。これからあたしがしようとしている、馬鹿げた振る舞いを」
「嫌だ」
「断ったら」彼女は振り向いて、顔が見えなくなった。
「殺すよ」
怖かったな。感情がまったく感じられない声だった。けど、その声に俺はどうしようもなく惹きつけられた。たぶんそれくらい魅惑的な声だったんだろう。それに、悪い要求じゃなかった。俺は喧嘩しなくてもいい。そして、彼女の側にいられる。
「なんで、俺なんだ?」いつだったか、俺は彼女に聞いた。「なんで、俺に見ていろと?」
「さあな。お前はあたしの配下じゃない。それ以上の理由はないな。配下はあたしの駒だ。あたしを見ていてもらうのに、適していない」俺はたぶんがっかりしたんだろう。今でもがっかりしている。彼女は俺を、俺が俺である、という理由で選んだわけじゃなかった。ある条件にかなう人間で、たまたま目にとまった、それが俺。彼女にとって、特別な存在じゃない。
もしも彼女に特別な存在がいるのなら。今はいなくても、これからそんな存在が現れるのなら。それは、俺にとって、妬ましいことではあるけれど、きっと、望ましいことだ。なぜなら、そのとき初めて俺は彼女の呪縛から逃れられるからだ。たぶん。つまり、上手くいえないけど、彼女が一人でいる限り、きっと俺は誰かを好きになることはないんだろうと思うんだ。彼女と結ばれたいわけじゃない。そんな欲望は、抱いたことさえないと言い切れる。それでも、俺は彼女という存在に縛られているんだな。
彼女にとって特別な人間。現れろ、という気持ちがないでもない。ああ、けど、俺は、思い切れないな。彼女は、たった一人で世界を闊歩してこその彼女なのだ。二人連れは似合わない。
彼女になにが起ころうとしていたのか。もしくは、彼女はなにを起こそうとしていたのか。彼女は自分で、「馬鹿げた振る舞い」と呼んだ。それは何か。
結局俺は彼女からなにも聞かなかった。だから彼女が積極的にそれに参加したのかどうかはわからない。推測を述べれば、いやいやだったんだろうと思う。なぜなら、きっと彼女はもう喧嘩に飽きてしまっていたからだ。けじめをつける、みたいな気持ちだったんじゃないだろうか、それをやったのは。
どこから話が始まったのか、どうやったらそんなことが可能だったのか、そもそも本当にそんなことが行われたのかどうか、俺は知らない。たぶん話は、俺が聞いたのよりも、本当はもっと小さな話だったのだろうと思う。彼女が行おうとしていたのは、全国の不良を締めるってことだった。天下統一だ。彼女がNo.1だ。日本のすべての不良は、彼女の膝元に屈するのだ。そんなことを、彼女はやろうとしていた。な、馬鹿げた話だろ?
彼女は毎日喧嘩をしたり、偉そうな奴と話したり、忙しくしていた。偉そうな奴ったって、不良のことだ。たぶん付近の不良の頭だろう。そんな奴らでも、彼女には頭が上がらないようだった。
そういえば、こんなこともあった。彼女と二人で日本家屋の大きな家に行ったことだ。
放課後、「行く場所がある、ついて来い」と彼女が言ったので、俺は彼女について行った。夜にならなきゃだめだというので、しばらく二人でぶらぶら歩いた。疲れたら喫茶店に入った。俺はコーヒーを頼んだけど、彼女はオレンジジュースを頼んだ。そんなことを覚えている。なにも話さなかったな。普段から談笑する間柄じゃなかったし、そのときはいつになく彼女はぴりぴりしていた。
で、時間も潰してさあ行ってみると、めまいのするようなでかい家で、おぞ気をふるうような広さの座敷に案内された。その奥に、人の良さそうなちんまりした爺さんが座っていて、その前に座布団が敷かれていた。彼女はその座布団の方に進んでいった。案内してくれたがたいのいい兄ちゃんが、「あんたは」と俺を止めようとしたけど、俺は無視して彼女について進んだ。兄ちゃんは俺の肩をつかんで引き戻そうとしたけれど、ちんまり爺さんが「構わん」と言うと引っ込んでいった。彼女は座布団に座って、俺はその隣の少し下がった場所に座った。
「兄さん」爺さんが俺を呼んだ。やけに低い声だった。「なかなか、度胸がある。用心棒かい?」俺は気の聞いたことでも言おうとしたけど、威圧されていたので言葉が出てこず、うなずいただけに終わった。
「嬢さん、決めたか?」爺さんは彼女に向かってそう言った。「はい」と彼女は答えた。爺さんに負けず劣らず、威圧的な声だった。
「卒業したら、うちに来る気はないか?」
「終わったら、こういったことからは手を引くつもりです」
爺さんはうなずいた。それでこの会見は終わった。
帰れるのかと思ったら、別の座敷に案内されて、飯を食わされた。こわもての兄さんがたくさんいて、なんだか知らないけどやけに豪華な飯だった。食事っつーか、宴会だな。さっきの爺さんも奥の方にいた。俺はなんとかかんとか少し口をつけただけであとはうつむいていたけど、彼女は平然と平らげていた。
宴会中、彼女の肩に手を伸ばしてきた兄さんがいた。俺はその手首をつかんで、そいつを睨みつけてやった。内心、ものすごく怯えていたし、手首をつかんだ俺の手はありえないほど震えていた。それでも俺はつかみ続けたし、睨み続けた。ああ、今日が俺の命日になるのかな、って本気で考えた。それでも俺は引く気はなかった。
「なんだあっ」その兄さんが俺を威嚇した。俺はなにも言わなかった。というか、恐怖で口が動かなかった。兄さんは俺の手を振り払おうとした。俺は懸命に握って払われないようにした。二、三回振り払おうとしたあと、兄さんは立ち上がって俺の前に来、俺をいきなり殴りやがった。悪い奴だな。
「おい、よせ」別のこわもての兄さんがそいつを止めようとしたけど、それ以外の兄さんたちは静かに俺たちを見守っていた。俺は殴られたけど手を離さなかったし、まだ睨み続けていた。兄さんはもう一発俺を殴った。正直に言うけど、そんなに痛くなかった。俺はこれの何倍も痛いパンチを受けたことがある。
「馬鹿!」さっきよせと言った兄さんがそいつを取り押さえて、俺と離した。俺はようやく手を離したわけだけど、まだ睨み続けていた。彼女にちょっかい出そうとした兄さんも睨み返してきた。しばらくそうしていたけど、やがて兄さん、ニカッって表情を崩し、はっはっは、と高らかに笑った。「とんだ純情野郎だぜ」
騒動の間中、彼女はまったく平然としていた。こっちを一目見ることすらなかった。ただ静かに食事を続けていた。
「はっはっは」という豪快な笑いと、手を叩く音が聞こえてきたので、そちらを向くと、さっきの爺さんが手を叩きながら笑っていた。「よし。よし。嬢さんもよし。兄さんもよし。たいした度胸だ」
彼女が食事を終えたので、俺と彼女は帰ることにした。彼女は爺さんのところに挨拶に行ったので、俺もついていった。
「本日はお招きいただき、ありがとうございました」
「しっかりやんな。それから、うちに入ること、もう一回検討してみてくれんか?」
「もう決めたことです」
爺さんは俺のほうを見て、「兄さんはどうだい?」唸るような低い声で言うもんだから、やっぱり俺は声が出せなくなったので、黙って首を横に振っといた。爺さんはうなずいた。
家まで送ると言われたけど丁寧に辞退して、俺と彼女は並んで歩き出した。暗い道路で、人気がまったくなかった。電灯もなかったし月もでてなかった。だから彼女の顔さえよくわからない暗さだった。
しばらく黙って歩き続けたけど、彼女はふと立ち止まると俺に抱きついてきた。俺はまだ声が出せそうになかったので黙っていた。彼女も黙っていた。だから彼女がなにを思っていたのか知らない。
しばらくそのままでいた。それから離れて歩き出した。結局なんの会合だったのかとか、あの爺さんは何者なのかとか、何も聞かなかった。今も知らない。今後も知ることがなければ幸いだと思う。そのまま一言も話すこともなく、彼女と別れて家に帰った。
込み入ったことをここでうだうだ言っても仕方ないし、正直言って込み入ったことまでは俺は知らない。だから、彼女たちがしていたことの詳細を書くことはできない。
さっきも言ったように、三年の晩春俺が彼女の近くにいるようになってから、彼女は忙しくしていた。多くの不良を殴っては従えていた。夏休みになっても毎日のように出かけては殴っていた。どれだけ喧嘩が好きな連中でも、これくらいやれば誰でも飽きただろう。それくらい彼女は忙しく喧嘩していた。他県にまで出かけていって喧嘩することもあった。それで、彼女は無敗。サシなら、まともに殴られることすらなかっただろう。集団を相手にするときは、こっちも集団だった。俺はいつでも端から見ていた。
そうした忙しさが、ぷっつりとなくなったのが二学期に入ってからだった。俺は彼女に呼ばれなくなり、家と学校を往復する日々に戻った。さすがに少しは興味があったので、地位が上っぽい奴を掴まえてなぜ暇になったのか聞いてみると、「だいたいの勢力争いは終わった。今度、全国の主だった不良を集めて、大規模な抗争がある予定だ。それで勝った奴が全国No.1だ。だからそれまであの人は暇だ。もちろん俺たちは準備に忙しいけど」という話だった。よくわからなかったが、今度どっかで乱闘があって、それで全部おしまいになることはわかった。すごい話だ。
暇なとき、彼女はなにをしていたのか。これはちゃんと本人に聞いた。「色々だ」それが答えだ。とりあえずスポーツをやっていたらしい。健全だな。部活を真面目にやる奴はいなかったけど、ちゃんと道具は揃っていたから、適当に練習していた。暇そうな奴を掴まえては相手をさせていたそうだ。俺はなにもしなかった。その練習の光景を眺めることもあったし、さっさと帰って寝てしまうこともあった。やる気なかったからな、何事にも。練習する彼女の姿は綺麗だった。誰よりも楽しそうにしていた。いや、それはいついかなるときでも、か。
次の日に抗争が行われる、と俺が聞いていた日、彼女が俺のところにやってきた。「デートしようぜぇ」なにかの気まぐれだろう。俺もなにかの気まぐれで、特に抵抗することなく従った。とはいえ、前のようにただ並んで歩くだけだった。
歩いて歩いて、とにかくくたびれるくらい歩いて、河原にたどり着いた。俺が初めて彼女に会った河原だ。彼女が俺を連れてきたのかもしれないし、俺が無意識のうちにそこに足を向けていたのかもしれない。彼女は俺をのしたあと座っていた場所に駆けていって、また座った。前と同じように、体育座りだ。俺もついていって、前に俺が倒れていた場所に腰を下ろした。
「暇だねえ」彼女が言った。そんなことはないだろうと俺は思ったけど、口には出さなかった。
「暇だな」俺は言った。俺の現状を表す言葉だ。それからしばらく黙っていた。
「死ぬのって――」川を見つめながら彼女が言った。「気持ちいいかな」
「……。たぶん、あんたの思うとおりだろうさ」
「そっか。それはいいな。面白い」彼女は笑わなかった。
「卒業したら、どうするんだ?」俺は訊いた。
「どうもしないさ。今までと同じだ。お前はどうするんだ」
「どうもしないさ、今までと同じだ」
彼女はぎゃははと笑った。「つまんねえな」
「当たり前だ」
「だよな」彼女は仰向けに寝転んだ。じっと空を見ている。俺はそんな彼女の顔を見ていた。「空って、無限だと思ったことはないかい」
俺は答えなかった。無限だと思ったことも、有限だと思ったこともない。
「お前、いつ死ぬつもりだ?」
「さあ、考えたこともない。今生きていると思ったこともない。死んでいても生きていても、たいして変わりないと思う」
「そーか」と言ったきり、彼女はなにも言わなかったので、俺は訊いた。「あんたはいつ死ぬつもりだ?」
「あたしが死ぬときに」そりゃそうだ。
「あんたが死んだ次の日に、俺は死ぬよ。あんたの死を見届けてから」そうだ、俺は確かにそう言ったな。なぜ言ったか。理屈もなにもない。たぶん、かっこつけたかったんだろう。もちろん、今ではそんなこと少しも思っていない。俺は勝手に死ぬつもりだし、彼女の死を見届けるつもりもない。
「馬鹿だな」と彼女は言うと、起き上がって行ってしまった。別に怒ったのではなく、ただ帰りたくなっただけだろう、と俺は思った。
俺は仰向けに寝転がって空を見た。広いな、と思った。無限かどうかは知らない。
抗争が行われるという場所は、広いところだった。電車に揺られて二時間足らず。各駅とはいえ、遠いな。尤も、(本当かどうかは知らないが)全国から来る奴はもっと遠くから来るんだから、大変なことだ。なんでそんなだだっ広いところがあるのか、詳しくは俺は知らない。なんらかの事情があるんだろう。寂れた場所の一つや二つ、あったっておかしくない。
昼過ぎの予定だったから、そんな必要はなかったのだけど、俺は始発の電車に乗った。一応睡眠はとったけど、たぶん三時間くらいしか寝ていなかった。それでもまったく眠くなかった。体調もバッチリだった。俺が戦うわけじゃないけどな。電車の中には誰もいなかった。当たり前か。暗くて見えなかった景色が進むごとに次第に明るくなってきて、それは馬鹿みたいにのどかな風景だった。ビルもない。家もない。畑と林ばかりある。森もあったかも知れない。もっと進むと畑もなくなった。ただの野っ原だ。嫌いじゃないね、俺は。
電車を降りて、野原の真ん中に向かう。そこが決闘の場所だ。風が吹いて気持ちいい。うそだ、寒い。朝だ。烏が飛んでいく。雑草がところ構わず伸び放題になっている。どうでもいいけど、寂れた駅だったな。一人も利用しない日だって、あるに違いない。
その野原の真ん中にいて、俺は戸惑った。なにをしようという目的があったわけではないのだ。ああ、俺は馬鹿だなあ、と思った。とりあえず歩くことにした。広い野原をただただ歩いた。嫌になるまで歩いた。すぐ嫌になった。
いつ頃だったか、まだ少し暗さが残っているくらいの時刻に、また駅から出てくる奴が見えた。遠くから近づいてくる様子を、俺は立ち止まって見ていた。そのうちその姿が完全に認識できるくらいまで近づいた。「よっ」と彼女は片手を挙げた。
「早えーな」俺は言った。もちろん、人のことは言えない。ぎゃははと彼女は笑って、「馬鹿だな、あたしもお前も」と言った。
「あんた、なんでこんなことやるんだ?」俺は彼女に訊いた。
「こんなこと?」
「喧嘩、するんだろ?」訊いたはいいが、俺はその答えをなんとなく予想できていた。理由なんてない。それが答えだ。もっといえば、それが生きる目的だったからだ。つまり、俺が彼女に負けるまで喧嘩していた理由と同じだ。
彼女は答えずぎゃははと笑った。高らかに空まで届く笑いだった。俺はその笑う姿を見て、王者の風格だな、と思った。チンギス・ハンが見渡す限りに満ちている群集に向かって、高みから手を差し伸べているような、そんな光景と彼女が重なった。馬鹿げていると思うだろ?なんという妄想癖かって。俺もそう思う。けど、当時の俺は真面目の真面目大真面目でそう考えていたんだ。馬鹿にしてやってくれ。
ひとしきり笑って、彼女は「お前はやらないのか?」と訊いてきた。もちろん俺は首を横に振った。もう喧嘩からは引退。錆びた余生をさびしく送る身だ。
「あたしもこれでこの遊びはおしまいだ。行くとこまで行ったからね」
「行くところまで、か」そうだろう。全国の不良の頂点に立つというのだから、もうその先はない。あるいは、ヤーさんの仲間にでもなるほかない。
「もうつまらん。飽きた」
「じゃ、止めちまえよ。今日だって、なんにもならないぜ」
「そうだな」彼女は仰向けに寝転がった。きっと彼女の好きな空でも眺めているんだろう。
「無限か?」俺は訊いた。
「知らんさ」嬉しそうな顔して、ずっと空の方を眺めてやがる。俺は何か言おうと思ったけど、止めた。どんな言葉もたぶん意味がなかったからだ。
しばらくして「腹が減った」と彼女が言ったから、俺は持ってきていたパンを全部くれてやった。「全部はいらんよ」と彼女は言ったけど、全部やった。腹が減って仕方なかったけど、全部あげたかった。それに、俺は戦わないのだ。腹が減ったって見物くらいはできる。
「もうそろそろお別れかな」パンにむさぼりつく彼女を見ながら俺は呟いた。
「なにと?」
「あんたとだ」
「お別れかあ?」
「そうなんだよ」きっと、あんたの隣にずっといることはできない。それでも、今はあんたの隣にいられてるだろう?
だからそれは、お別れなんだ。
時間が経つにつれて人が集まってきた。駅の方から来る奴もいたし、全然別の方角から来るやつもいた。そういう奴らは、いったいどうやって来たんだろうな。集団でやってきては、近くにたむろしていく。野原にいくつかの集団が散在している形になった。うちの高校の奴らもやってきて、彼女の近くに寄ってきた。そのときに俺はあくびを一つして、彼女から離れた。野原には不穏な空気が流れていたけど、結局開始時刻までは何事も起こらなかった。彼女は俺が去ると立ち上がって、配下の奴らと楽しそうに話していた。
俺は遠くの少し高くなっている場所に行って、抗争の様子を眺めることにした。
俺の時計でピッタリ午後三時。ちゃんと出かける前に時報を聞いて合わせてきた。針が12の数字に重なった瞬間、乱闘は始まった。大勢の人間が入り乱れて殴り合いをする。あまり面白い光景じゃない。いつを終結の時間にすべきなのか知らないけど、午後五時にはとにかく全部終わっていた。その時間に俺のところに彼女がやってきたからだ。
殴り合いの光景を描写するつもりはない。ただ、彼女は強かったな。一撃もいれられたようには見えなかったし、実際あとで近くで見たときも、殴られた跡はなかった。手近な奴を殴っては、かかってきた奴に蹴りをいれる。全てがあらかじめ台本で決められていたかのように滑らかに動き、彼女は迫ってくる敵を倒していった。彼女が輝いているんじゃないかと思った。彼女以外のものは全て、彼女のために存在していた。綺麗だったな、その風景は。やがて立っている人間が彼女と数人だけになり、乱闘は終わった。ついでに言えば、彼女の喧嘩人生も終わった。
「楽しかったか?」俺のところにやってきた彼女に俺は訊いた。
「それなりにね」ぎゃははと彼女は笑った。




