河原での殴り合い
「やあ、あたしの子分を締めてくれたらしいじゃないか」それが彼女が俺に言った最初の言葉だった。
「やるか?」俺は一言だけ言った。
それから殴りあった。一対一の決闘さ。男と女の、真剣勝負。そうだな、そのときは、本気で命さえ賭けてたかも知れない。
結果?察してくれよ。
その日で俺は喧嘩を止めた。
俺と彼女との出会いを語るためには、まず俺のことを話さなくてはならない。
最初に人を殴ったのはいつだったかな。よく覚えていない。ほんとに原点を求めるんなら、幼稚園の時だろう。そのくらいのときなら、誰だって喧嘩する。園で乱暴だった奴が、成長するにつれて臆病な奴になる。そんなことだってある。つまり、そのくらい、幼児ってのは凶暴だってことだ。
そんな昔のことを話しても意味がないな。そうだな、中坊のころには、もう人を殴る習慣があったような気がする。理由?特にない。どこにだってむかつく奴はいるだろ?普通の奴は、そんな奴がいても、避けるとか逃げるとかするんだろうな。けど、俺は殴った。ボコボコにした。病院送りにしたことは、なかったと思う。こう見えても、サツ沙汰になったことはないんだぜ。停学謹慎、そういうことはけっこうあったけどな。
相手を見つけるのに苦労はしなかったよ。一人殴ったら、噂が立つだろ。そしたら、向こうが勝手に寄ってくるんだ。「でかい面してんな」「やんのかこら」って、そういうことだ。で、そいつも殴る。噂が立つ。寄ってくる。殴る。繰り返しだな。
それでも、俺はおとなしかったもんだよ。喧嘩してたのは校内だけのことだもんな。遠征っつーか、地域制圧?そういうの。いまどき流行んないから、やってたのかどうかもしらねえけど、俺はやらなかった。さっきも言ったように、俺は向こうから来るのを待つタイプだったからさ。自分から動こうとはしなかったから、校外には出て行かなかった。
ああ、けど、校内では一年も経たないうちにトップになってたな。それからは、退屈な毎日さ。殴る奴もいなくなって。近寄ってくる奴すらいなくなって。四月は、けっこう楽しいんだ。新入生がいるだろ?そこには、生意気な奴もいるんだな。そいつを殴る。不思議と、負けなかったな。でも、ひと月もしないうちに、また退屈さ。
毎日なにしてたんだろうな、俺は。群れなかったし。今思えば、さびしかったな、あの頃は。
で、俺は高校生になった。喧嘩ばっかりで、高校行けるのかって?俺も不思議だ。けど、少子化ってえのか。それのおかげで、俺なんかでも高校行けるようになったのさ。大学にすら行けている。変な世の中だ。
とにかく、高校だ。俺が行くような高校なんだから、どんな高校かは想像できるよな。クラスの10分の9が不良っていう学校さ。不良じゃないやつはなにかって?知らん。勉強ができないだけの奴もいたし、めちゃめちゃに勉強ができる奴もいた。どっちにしろ、俺には理解できない人種さ。
入学式の時から空気がギスギスしてたな。そりゃそうか。新入生も不良なら、上級生も不良だもんな。校長の話だかなんだかを聞きながら、俺はけっこうワクワクしてた。ようやく生き返ったというか、楽しくなったんだな。そうだろ?中学の俺は、欲求不満も甚だしかったんだぜ。ここには俺を知らない奴らがいっぱいいる。喧嘩できる。そう思ってたんだな。
最初は入学式の日だったかな。俺が帰ろうとしていると、上級生っぽいのが二人連で、「よう、金貸せよ」なんて言ってきやがった。この二人は、ガムくっちゃくっちゃしながらボンタンのポケットに手つっこんで前かがみで、「はあっ?」、みたいな、よくある不良を想像してもらって構わない。というか、俺も含めてだいたいそんな奴ばかりだった。女子は知らない。そもそも数が少なかったし、女子に手ぇ上げる趣味はなかったからな。
俺は唾を吐き捨てて、まっすぐ奴らに向かって行った。奴らはあっけに取られたみたいで、簡単に片方を押し倒して馬乗りになることができた。あとはとりあえず、そいつの顔を殴った。右左右左と何回も。かたわらでもう片方の奴が必死で俺を引き剥がしにきたけど、そんなことはおかまいなしさ。とにかく俺が一心不乱に殴ってたら、下の奴は気絶して、もう片方は怖くなって逃げたので、あとはほっといて帰った。それで終いだ。こいつらは小物だったな。
そもそも下級生に二人連れで挑むのがどうかしてる。そんな奴らはみんな小物だ。俺の経験からすると、いつも一人でいる奴のほうが強い。群れる奴は、仲間を頼りにしちまって、だめになっちまうんだろうな。
勝負の時もそうだ。いつも群れてる奴でも一人で戦う時は強い。戦うとき仲間がいると、個人で見ると弱くなる。尤も、それは悪いことじゃない。相手する方にしてみれば、一人よりも多数の方が嫌だ。全体としては強いからな。
初日で上級生ボコッた奴は俺の他にもいただろう。ボコられた奴もいただろう。だからかは知らんが、一人をノックアウトしたお咎めは、特になかった。だから次の日も喧嘩だ。因縁つけてくる。殴る。勝つ。しばらくは、そんなことの繰り返しだ。
そうやって、俺の高校の不良どもは、淘汰されていった。半年もすれば、強い奴が残っていき、他の奴らは強い奴の下についていくことになった。俺は群れなかったけど、その頃校内にはいくつかの勢力ができていたらしいな。
後から聞いた話だと、俺の知らないところで大規模な(勘違いするなよ、あくまでも高校レベルの話だ)抗争なんかも起こってたらしい。そうやってまた淘汰されて、俺も毎日喧嘩して、ときどき停学くらって、そうこうしている内に一年が過ぎた。
さっきも言ったように、四月は少し忙しくなる。殴り合って勝ったり負けたりしたあとで、勢力ができて平穏が保たれているところに、なにも知らない生意気な下級生が現れる。俺はもちろん俺のほうから喧嘩を吹っかけることはなかったけど、二・三日するとどこで俺の噂を聞いたのか、俺に挑んでくるバカがいる。二・三日の間に上級生の洗礼を受けてきた奴だから、そこそこ強い。四月は俺、好きだったな。
その年も俺は四月中を下級生と、まだ俺に突っかかってくる同級生・上級生をボコることで明かして、また退屈な五月以降が始まるんだと思っていた。けど、違った。その年は五月以降もバカがたくさん現れた。殴って蹴って、全部勝った。
何度か勝っているうちに、俺はあることに気づいた。五月以降、俺に挑んでくる奴は、全員一人でやってきた。さっきも言ったように、一人でやってくる奴は自信のある奴だ。強い。俺もそういう奴の方が好きだ。俺の好みなんかどうでもいいか。
それでちゃんと考えてみると、どうやらそれは去年の三学期くらいからのことらしい、と気づいた。俺にサシで挑んできて、負けていく。四月は下級生もいたからだろう、二・三人、多いときは五人くらいをまとめてボコったこともある。けど、一年の時の一月以降三月いっぱい、二年に上がってからの五月以降、は全部一対一だ。
それに気づいてから、次にボコった奴に俺は訊いてみた。
「お前、なんで一人で来たんだ?」
「なに言ってんだ?気でも狂ったのか?」気違い扱いされた。なんてことだ。
家に帰ってからもう一度考えてみた。
俺の知らないうちに、どこかで勢力抗争が行われたことは知っている。つまり、校内の格付けはだいたい終わっているはずだ(新入生は除く)。なのに、俺に突っかかってくる奴が多いのはなぜだ?
俺の仮説はこうだ。校内にあったいくつかの勢力は、抗争をする。勝った勢力は負けた勢力を取り込む。争いは、もう終わってるんじゃないだろうか。つまり、どこかの勢力が、他の全ての勢力を、もう従え終わっているんじゃないだろうか。
天下統一を果たした勢力は次になにを望むか。俺のようなはぐれ者を勢力に臣従させることだ。
つまり、今まで一人で俺に挑みかかってきた奴は、刺客なんだな、その勢力が放った。
ここまで考えて俺は頭の使いすぎで疲れたので、寝た。快適に眠れた。
次の日登校した俺は、そこらに歩いていた不良っぽいのを掴まえて、「この学校を今仕切っているのは誰だ?」と訊いた。
「なにを言ってやがる」そいつが言うには、俺が知らないはずはない、ということだった。「あんた、二年だろ。なんで知らないんだよ」もっともな言い分だった。
「それでも知らん。教えろ」
「そのうち、あんたんとこにその人が行くよ」あとで訊いた話だが、そいつも勢力の一人だったらしい。というか、その時点で勢力に与してないのは、学校中で俺一人だったらしい。学校とは狭いところだな。
で、放課後。
俺は河原に呼び出されて待っていた。河原だぜ。どうも、喧嘩するにふさわしすぎるだろ。けど、いいじゃねえか。事実なんてそんなもんだ。
で、やってきたのが彼女だった。ああ、やっと彼女の話ができる。俺の話が長すぎたな。
「やあ、あたしの子分締めてくれたらしいじゃないか」彼女は言った。
「やるか?」俺は一言だけ言った。
女だから手加減した、なんて言わない。殴りあう前、そういう気持ちがあったことは確かだ。けど、彼女の右ストレートをもらった瞬間、目の前の相手を女だと思うことは止めた。そのストレートは俺の左あごを的確に捉え、俺は天国まで吹っ飛ばされたんじゃないかと思った。一瞬だけ目の前が真っ赤に染まって、強烈な吐き気に襲われた。
俺は間合いをとって一息入れた。彼女が俺を追撃しなかったのは、余裕だったからだろう。彼女はニヤニヤ笑っていた。
舌に鉄の味を感じたので、俺はペッと唾を吐き出した。それから彼女を睨み据えた。別に意味はない。かっこつけたかったんだ。
彼女はへらへらして、構えすらとっていなかった。余裕しゃくしゃくいつでも来なさい。俺は腹も立たなかった。むしろ嬉しかったくらいだ。俺の全部をぶつけよう。そう思った。もしかしたら、終わったら死のう、くらい思っていたかもしれない。もちろん俺は今も生きていて、こうして文章を書いている。
それからあとのことはあまり覚えていない。無我夢中で殴って蹴って、殴られて蹴られた。殴った拳は痛かったし、殴られた頭も胸も腹も腕も足も全部痛かった。どれくらいやったんだろうな。
そのうち失神。はは。完全無欠に、俺の敗北だ。
照れた太陽がおはようを告げて
生きることはとても楽しい
震えているのはわたし?
明日をただ待っているだけ
虹の美しさも知らずに
気がついたら歌声が聞こえていた。目の前に青い空があった。ああ、青い空だな、なんて、大真面目に考えていた。とても綺麗な歌だと思った。青い空に、よく似合っている。たぶん、頭を殴られて少しイカレちまってたんだろう。ここは天国なのかな、なんて考えてた。
「ああ、どうやら気がついたんだね」歌が止んで、声がしたので横を向くと、彼女が座っていた。つまり、彼女の歌声だったんだな。体育座りだった。しょうもないこと覚えてるもんだな。
「負けたのは初めてだ」俺は言った。本当のことだ。生まれてからこのときまで、俺は喧嘩に負けたことはなかった。負けたと感じたこともなかった。言っとくけど、それで優越感を感じたことはない。他人のことなんてどうでもいい。だから、そのときまで勝ちとか負けとかは俺にはなんの意味もなかった。今もない。あの時の敗北だけだ、意味があるのは。
「そうかもね。今までで、いちばん強かったのは、お前かも知れない。ま、女だからって手加減しなかったのが、お前だけなのかも知れないけど」
「馬鹿なんだな。世の中の奴らは」
「あたしもお前も含めてね」彼女はぎゃははと高らかに笑った。
それから黙ってしまったので俺は寝た。眠る前に、これで喧嘩も終わりだな、と思った。なぜだろうな。喧嘩は俺の人生だった。殴って殴られている時にだけ生きている実感があった。負けたことはなかったけど、たとえ負けることがあっても喧嘩から離れることはできないだろうと思っていた。なのに、喧嘩は終わりだと思った。不思議と安らぎがあった。ほんとは誰かに負けたかったってことか、と思った。思いながら意識が遠くなっていった。意識の奥底で、また歌声を聞いた気がした。
起き上がったとき、もう辺りは暗くなっていた。暗くて薄っすらとしか周りのものが見えない。空を見上げると藍色の空に月が黄色く輝いてやがった。月ってもんは綺麗なんだな、と思った。綺麗だなんて、今まで俺は思ったこともなかった。喧嘩に負けたから、たぶん俺は生まれ変わっちまったんだな。少しは冷静に世界を眺めることができるようになったんだろう。
そんなことを思ってから視線を下に移すと、まだ彼女が体育座りで座ったままだった。もうとっくに帰ったものだと思っていたから、俺は驚いた。なに考えてるんだろう、この女は。俺を気づかって?冗談じゃない。勝者に気づかわれて、なにがありがたいものか。
なんでまだいるんだよ、とでも言ってやろうと思ったとき、彼女が寝息を立てていることに気づいた。なんだ、この女も寝てるだけか。体育座りで寝るなんて、器用な奴だ。
俺はさすがにほっといて帰るなんてまねはできないから、肩をゆすって起こした。つまり俺が他人を気づかったことになるから、やっぱり負けて俺は変わっちまったんだな。
腕にうずめられていた彼女の顔がゆっくりと上がった。
長い髪の隙間から、彼女の瞳は上目遣いに俺のことを見てきた。
俺は今でもこの光景を完璧に思い出すことができる。馬鹿みたいに、何度も何度も思い出してきた光景だ。何度思い出したって、この光景は色あせることがない。
それくらい、このときの彼女の顔はかわいかった。
「お前、誰?」寝ぼけまなこで彼女はそんなことを言っていた。俺はそんなたわごとにつきあう趣味はないから、さっさと立ち上がって帰ろうとした。
彼女は立ち上がると、俺の後頭部を右ストレートで殴りやがった。ひどい話だ。俺の体はなにもかも尽きてしまっていたので、踏ん張ることもできずばたんと倒れてしまった。なにしやがるんだ、と思ったけど、殴り返す気力もない。どころか、起き上がる気力すらなかった。そのままうつぶせたままでいると、彼女は俺の襟首をつかんで強引に引き起こしやがった。敗者ってのはみじめなもんだな、と思ったよ。
「明日から、お前もあたしの配下になれ」彼女は言った。ああ、そういう闘いだったのか、と俺は今さらながら思った。
「殴り足りないんなら、別の人間とやってくれ。俺はもういい」腹の底に残っていた体力を搾り出して、俺は言った。叫ぶ力があればこう叫んだだろう。俺はもう疲れているんだ、帰らせてくれ。
「一匹狼は矜持を失わず、か」彼女は手を離して俺を解放した。体力の残っていない俺はあごをしたたかに打ちつけることになった。痛ぇ、と言う体力すらない。
ああそうだ、たぶん馬鹿にした奴も居るだろうけど、一匹狼とは俺が言い出したことじゃない。校内でなににも属さない俺に、誰かが勝手につけたあだ名らしい。狼なんて、俺はそんなにかっこいいもんじゃない。俺の名なんざ、塵か芥で充分だ。
「いいだろうさ。あたしは一匹狼をあえて群れさそうとは思わない。敗北を噛みしめながら、さびしい余生を送るがいいさ」
彼女は歩いて行ってしまった。そのときの俺は、ああこれで全部終わったな、という感情でいっぱいだった。満足感と空虚感。
根性で寝返って空を見た。月と星が綺麗だった。




