ナイフと消えた切り傷
「この世界は死後の世界。あなたは死んでいるからこれ以上死ねないのよ。まずそれを覚えなさい」
ま、私達もだけどね、と付け加える心。拳銃はどこかへしまってくれたようだ。
確かに交通事故に遭った記憶がある。すでに死んでいると言われたが、その言葉は凄く納得のいくものだった。
「この世界には病気はないし、怪我もない。あ、痛覚はあるわよ。でも実際に血が流れたりするわけじゃない。だから例えばこんな風に」
言いつつ心はどこからともなく、今度はナイフを取り出し、自身の左手に突き立てる。
鋭利な刃物はその柔肌を無慈悲に切り裂く、かと思われたとき、キンッと甲高い音を立てて、切っ先と心の左手の間に青白い光が生まれた。
光は刃を阻み、心の左手を怪我から守っていた。
「っつ……ま、こんな感じで怪我は出来ないようになっている。そういう世界なの」
「痩せ我慢してるが、相当痛いはずだぜ」
心の言葉に注釈をつける久住。
確かに痛覚はある、と言っていた。なら、刺さっていないように見えるが、実際にはナイフで刺された痛みがあるのだろう。
心はその端正な顔を歪めることなく平然として見えたが、額には一滴の汗が伝っていた。
「余計なことを言わなくていいの。刺すわよ」
最後の一言には久住に対する本物の殺気が込められていた。
つい先ほど自傷して見せた心ならやりかねないと、俺は背筋に冷たいものを感じた。
とにかく話題を進めなければ、そしてこの世界についてとにかく情報を集めなければ。そんな思い以上にただこの女の標的になることをなんとか避けなければならないということを本能で判断し、俺は言葉を紡ぐ。
「とにかく、怪我を出来ないということは分かった。俺が死んでることも納得してる」
「グレイト。じゃあ話を進めましょう」
心の返事に内心でため息を吐きながら、久住の方を見やると、久住も丁度こちらのことを見ていたようだ。ばっちり目があってしまった。
久住からアイコンタクトでメッセージが飛んでくる。
『助かった。ありがとう』
それに対して俺は目配せを返してやる。
『そういう趣味はない』
これで俺の思いの丈は伝わっただろう。後に、心の被害者の会が結成されようとも、俺は久住とどうにかなる予定はない。
男同士で数秒とはいえ見つめあってしまったことに吐き気を覚えた。
「男同士で見つめあって気持ち悪いわね」
全くその通りだ。
同感しか覚えない言葉を発しながらナイフをどこかにしまいこんだ心。さっきから出したり消したり手品みたいだ。
「とにかく話を進めるわよ。『神取りゲーム』についてね」
心はようやく一番気になるワードについて語ってくれるようだ。