From Lily with Love
真鍮の洗い矢を引き抜いて、まん丸の筒を覗き込む。窓の光が銀色に反射したそこは、一点すらの曇りもない。オイルスプレーをそこへ向け、いつもの手つきで射出すれば、"彼女"を守るための被膜ができる。"彼女"がより輝くための布石ができる。
丹念に余分なオイルを拭き取って馴らせば、ひとまずの作業は完了だった。
(ん~、いいね、いい乗りだ。キミはあれだね、外見よりも内面で勝負するタイプだね)
細かな滓と真っ黒い油がこびり付いた布を端に追いやって、彼女は分解しきっていた"彼女"の組み立てに取りかかった。少し緩んでいたらしいボルトをしっかりと閉め、機関部の点検を目だけで行う。……汚れはなし。一定に光を反射する金属面を満足気に眺めた彼女は、ガチャンという小気味良い音を立てて、分解されていたその黒色の"彼女"――銃身をあるべき姿に戻した。
「キミは中々に愛されているね。……わたしがもっと、愛してもらえるようにしてあげたから、安心するといい」
動作点検は、どうせ明日にならないと出来ない。そのための設備は、彼女の通う高校の訓練場にあるのだ。彼女がいま作業するそこは彼女が自宅に構えた簡易的な工房で、それほど出来ることがあるわけではない。あくまで彼女の主戦場は、学校の武器保管庫だった。
――彼女の主戦場。
そう表現するには、少しだけ語弊がある。本来彼女の主戦場は、彼女以外の人間と同じく”戦場”であるはずなのだが、この場合意味するのは、彼女が趣味半分で始めた武器の手入れ、改造等が出来る武器保管庫の一角(だんだんと彼女の領域は広がりつつある)なのだ。
彼女はその冷たく重い鉄のかたまりをもう一度うっとりと見つめて、ようやくケースにしまった。
◇
「キミ、キミ……そう、きみ。ちょっと、こっちに来ると良い」
視線の先が追えないゴーグルの、その上で短い前髪を揺らす人物が、こちらに向かって手を振っている。
「……え、おれ?」
自分に向かって人差し指を差して”きみ”の宛先を確認すれば、その人物は頷きながらも催促するように再度手を動かした。
「そうだって言ってるじゃないの! つべこべ言わない!」
その人物は、口元に笑みを浮かべながら、彼へ手招きを続けた。観念したと見える彼は、大人しくその人物の元へと歩いて行く。彼にとっても見覚えのない人物――容姿から疑うに、先輩だろうか。顔のほとんどは曇ったゴーグルに覆われてわからないが、声と顔以外――この人物は、いささか露出が多い――からは、女性らしさが感じられる。
「きみは、ええーと、なんだっけ。アレだね。新しく入ったっていう一年生だよね、ついておいで」
「あ、はい。おれは枇々木ですけど……えっと」
顔というよりは腰にぶらさげていたままだった訓練用の木刀に目を向けて、彼女が笑みを浮かべた。片手間にスパナを回しながら、彼女は返事を待たずに歩き出す。仕方なしに、そのあとを付いていった。彼女が器用に通り抜けたはずの雑踏に何度か足を取られて、追いかけるのは精一杯だ。
「きみのことはあの浮気男から聞いてるよ。好きに使っていいらしいから、馬車馬のように働いてもらうつもり」
彼女は廊下をずんずんと進んでいって、人気のなくなった端になったあたりで、くるりと立ち止った。慌てて急ブレーキをかけるが、不格好に立ち止る形になる。
「……と言っても、まずはお互いの紹介が必要だろう? 相手を良く知るのは、戦場においても何においても大切なことだからね」
後ろ手で、重たい鉄製のドアに手をかける彼女。廊下を照らしている蛍光灯とは違う明かりが、ドアの隙間から漏れだしているのが視界に入る。
「わたしの名前はリリィ・エヴァレット。工兵科三年。趣味は武器の改造及びメンテナンス。突然だけど、新人のきみには魔法を作るトリックになってもらうよ」
彼女はそう言ってから一拍置いて、楽しそうな笑顔を浮かべた。そうしてから、つとめて大仰に、恭しく。右手を胸に当てて、腰を折って、彼女はそのドアを開いていく。
流れ出る空気は、どこか嗅ぎ覚えのある、油の匂い。鉄の匂い。――火薬の匂い。少しだけ漏れ出していた明かりが、直接目に入って、まぶしい。
「ようこそここは反射炉。有り触れた鉄の塊を、万能の赤水晶に鋳造するための場所だ」
彼女――リリィは司を一瞥してから、眩く室内を照らす白熱灯のオレンジの、その光源へと近づいていった。
◇
「ふふ、すごいだろう。白陵学園の元武器庫だったところを改造してね。……いまは工兵連中で勝手に使わしてもらってるんだ」
すぐそこの廊下とはまるで違う様子の室内に、目を白黒させながらも司は進入する。なるほどそこは司自身も見覚えのある武器庫の名残があった。――棚だったり、壁だったり、使われていない蛍光灯の残骸だったりだ。
「まあ、この任務が終わっても、なにかあったら来るといいよ。歓迎してあげる。きみはどうやら、期待されているらしいし、ね。依頼じゃなくても、手伝いでもなんでも。経験はおおく積んでおいて損はないだろう?」
しゃべり続ける彼女を横目に、司はきょろきょろと辺りを見渡す。校内や戦場で見覚えのある、武器の数々が、そこには大量に存在した。分解途中でバラバラのパーツになりながらも、整然と並べられている小銃や、鋭く明かりを反射している剣。その隣に置いてある、黒ずんだ布。
「お、それが気になる? わたしの専門は重火器でね。刃物はあまり得意じゃないんだけど、だからと言って多少の心得もないわけではなし、その心得を増やすために、そうやっていろいろ弄っているというわけ。きみは見た所刃物を使うようだし……どう?」
「……ん!? ど、どう?! なにが?!」
いつの間にか司の顔の前に、覗き込むような形で笑顔を浮かべるリリィ。何かを期待するような、キラキラとして目つきが向けられている。
「どうって、そりゃあ、ためし切り。できれば人体でやってほしいんだけど……」
「じ、人体って?!? ひと??!!」
「もちろん! みたところきみはど素人だろうけど、わたしのモットーは初心者にも玄人にも優しいだから。素人にこそ扱ってみてほしいし、そしてその素人が玄人になったとしても末永く使ってもらえる……そんな武器を……ああっ! わたしは作りたい……っ!」
「…………へ?」
「ということでそれは貸してあげよう。詳細なレポート付きで今度返して。気に入ったら買い取ってくれても構わない。その場合も、詳細なレポートだけは欲しいな」
「あ、ありがと……、っていってもおれ、まだほとんど真剣使ってないし、いつになるかわかんないですけど……」
「かまわないよ! 大丈夫、きみはものを粗雑に扱うような人間じゃないでしょ? 期間限定(仮)だけど、大切にしてやって」
またにっこりと笑顔を浮かべて、彼女はいつの間にか鞘に収め終わっていたらしいその刀を司に渡した。ずっしりと、鉄の冷たい重みが腕に伝わってくる。ざらついた柄に、巻かれたばかりの引き緒。鍔には少しの――傷?
「ああ、気になる? 実はそれ、打ち直しなんだよね。もう使われなくなったものを、友人に依頼して打ち直してもらったの。研ぎは私も練習中だから、そこだけはやらせてもらって」
「あ、リサイクルなのか……前の持ち主って……」
「わからない。落ちてたものだし。でも、悪い人間じゃなかったんじゃない?」
ふっと、打って変わって少し柔らかい声色。続きを促すようにリリィへ目を向ければ彼女はその視線を刀に移した。
「ふふ、大切にされていたみたいだ。名品ってわけでもないし、大量生産されたもののひとつなんだろうけど、よく手入れがされていた。刃こぼれの多さが、まさに”玉に傷”だったんだけど、まあそれは勲章ってやつだからね」
「手入れされてたのに、落ちてたってことは、もしかして……持ち主は死んじゃった……とか?」
「さあ? まいずれにせよ、こんな大事にしてた子を残していなくなるなんて、ろくな奴じゃないさ。きみが大切にしてやってくれ」
どうにも話が通じていない気がしてならないが、前の持ち主がどうなったかなんて、きっと考えるだけ”無駄”なことなんだろう。別の誰かが握っていたらしいそれを握って、とりあえず佩いたままだった木刀の隣に差した。
「うん、なかなか様になってるじゃない。……っと、そうだ。本来の目的を失念するところだった。きみ、ちょっとこっちにおいで」
ものが雑多に積まれている室内だが、存外にも動線となる道は確保されているのだろう。リリィが慣れたように部屋の奥に入ってしまうので、司はまた追いかけるのに苦労しながらあとについていった。棚に、佩いたばかりの刀が軽く当たる。
「って、わ、な、なんですかこれっ」
「ふふ、何を隠そう、きみには肉体労働してもらうために来てもらったんだ。わたし一人だとちょ~っと大変で。もう一人、男手がほしかったの。……はい、これそっち持ってって」
そう言いながら、リリィは持ち上げた木箱を司に渡した。大きさは司が抱えてちょうどよいほど。重さは……思ったより重い!
「次の作戦で、きみたちがつかうものだよ。せいぜい大切に運んで。そっちに台車があるから」
「了解! あれだな」
よろけながらも、向こう側に見える台車へとその木箱を運んでいく。けっこうな重労働だ。
「……ん? 次の作戦? まだおれ、なにも聞いてないんですけど」
「そうなの? まあわたしから言わなくても、あの不倫男からそのうち聞くよ。とにかくいまは、それをちゃんと運んで。最悪爆発するから、取り扱いは注意すること!」
「不倫男……? 爆発……!?」
「なんたって爆発物だし。あとそれはあいつだよあいつ、君に特別訓練とやらをしてる、あの男」
「え、まさか九条先輩!? フリンって……!?」
「不倫だよ不倫! 浮気性の最低男さ! 大切なら大切だと言えばいいのに、いつもスカしててね。まったくの最低男さ!」
情報過多すぎて頭が混乱してる司に目もくれず、木箱を持ってついてきていたらしいリリィが声をあげる。
「……っと、それはそっちにお願いね。台車は二つ用意してあるから」
「あ、はい。……よいしょっと」
いささか丁寧に置いたつもりだったのだが、思ったよりも重そうな音が響いた。あと何回か往復しなければならなさそうだが、この分だとそう時間はかからないだろう。……前ならいざ知らず、いまは毎日のように訓練をしている。こんなところで実感するとは思わなかったが、少しづつではあるものの、力はついているらしい。
◇
「……ってことがあってさあ。エミリアなんか知らない?」
「はぁ? 知るわけねえだろ。お前なんか変な奴に好かれやすいんじゃねえの? オモチャにされるっつーか」
「え、そうなのか!? ――てわわっ!! ちょっ!!」
グラウンドからほど近く。騎馬兵部隊のための厩舎には、二つの影があった。片方は艶やかな黒髪を風に任せて、自らの馬の手入れをするエミリア・ハウルの姿。そして、オモチャにされるように馬からくしゃみを浴びせられた、司の姿だった。
「ははっ、そんなとこでぼけっとしてっからだ。……つーかなんでお前いんの?」
「あっそうだった、伝達ついでなんだ。今日の訓練なくなって、代わりに作戦が入るって」
「そんでついでにサボらないか監視に来たってか? ったく」
「なんでそうなるんだよ! 時間空いたし手伝いにきたんだって!」
エミリアは改めて司を見る。確かに、彼は厩用に積んである藁を抱えている。どうやら勝手に、取り替えの作業を進めようとしているようだった。
「なにお前……暇なの?」
「ひどい! まあ、そうなんだけどさ……」
途中で動きを止めたブラシを、エミリアは馬の長い鬣にあわせてゆっくりと降ろしていった。気持ち良さそうに、馬が背中を揺らす様子が見える。……その隙間から、藁を敷く司の姿も。
「……んで? 結局何なんだって?」
「あ、先週九条先輩が言ってた作戦あったじゃん。あれ今日にくり上がりになったって」
そう言われれば、そんな作戦を聞いていたような気もする。どこに行ったとして、やることは代わり映えしないわけであるし、彼女にしてみれば細かな差異はないようなものなのだが――
「……って、あれか。ゴクヒでなんかするってやつか」
「そうそれ。結局なにするか教えてもらってないんだ。……あ、車乗って行くって。何するか、エミリア知ってる?」
「知るわけねえだろ」
そうだよなぁと呑気につぶやく司を睨んで、彼女は気持ちよさそうに体を揺らす馬のブラッシングを続けることにした。
◇
――作戦番号LC-30319
作戦統合責任者:スティーブン・ブライアー
作戦立案責任者:九条奏多
該当地区:白管轄J-34区画
作戦遂行のため、別紙記載の物資を要求する。
「……別紙は見つからず、何を申請したのかもわからず、他の情報もなし。要すっと詳細は不明だ」
「ちょっとこれっ、こないだセンパイが司令じゅる……部が何してるかは俺が調べとくぜ! ってかっこつけたときから変わってないですかぁ~!」
「俺がよだれ垂らしたみたいに言うのやめてくんない?」
「ひより、ほら、ティッシュだ。使うといい」
「神室センパイ……!」
厩屋からは遠い一般科校舎、その二階、中央部に位置するここは、広報部の部室となっているスペースだった。
「作戦の日時は三日後。工兵部隊まで出張ってくるっつー情報が入ってきてる。それなりな規模になるのは間違いないだろうな」
濃いめの藤色の髪で、目が隠れたまま資料を見つめるのは和泉之隆。それに対して、紅の瞳を向けるのは、神室千鶴その人だ。
「具体的な人員については?」
「そこが一番のスクープなんですよ! なんと、今回……っ!」
目を煌めかせながら少しだけくすんだ金色のサイドテールを揺らす彼女は、唯一この三人の中では2年生である初島ひよりだった。
「ちょっ、痛いですよぉっ!」
「俺の台詞を取るからだ!」
ぴょんと上がるかに見えた背の低い彼女の頭は、しかし分厚いファイルに阻まれる。ファイルの持ち主――和泉がもう一度、今度は人為的にファイルをぽんと頭に乗せた。
「今回、司令部の二人が直接参加する。前は噂レベルだったんだが、やっと確証が取れた。作戦のきな臭さに、いよいよもって拍車がかかったっつーわけだ」
この作戦の規模で、司令部が揃って二人参加するのは異例の事態と言っても差し支えないイレギュラーだった。大抵の場合は責任者としての名前が記されているだけで、実際の所現地にまで二人が出張っていくことは、大規模作戦以外にない。
「……あ、あの! それで! これいつまで乗っけてるんです!?」
ひよりが頭上のファイルを奪って、机の上に乗せた。タイトルには去年度の年号と、”今年の司令部動向まとめ”という走り書きの文字が書いてある。
めくられたファイルには、去年度の司令部と、去年からすると来年度の司令部候補についての――スティーブン・ブライアーも含まれる――情報がずらりと羅列してあった。
「さて、見て欲しいのはこの作戦概要欄だ。ブライアーが、このJ-34地区――"裏切りの森"での作戦に参加している」
「"裏切りの森"、ね。ひより、悪いが資料室の4番の棚あたりにそのあたりの地区についての資料があるはずなんだ。取ってきてくれないか」
「了解ですっ!」
パタパタとひよりが資料室に駆けて行った。それを横目に、神室が口を開く。
「確認だがこれは、アクタから白稜広報への正式な依頼か?」
「……いや、どうも白軍部が関わってる。アクタも広報も大っぴらに関わってるとまずい。今回は俺個人が、お前個人へ持ち込んだ案件になるな。……降りるか?」
「そう人を試すな。出来る限りは協力してやるって言っただろう」
神室の言う通り、この件についての調査を開始したのは、いまから少し前のことだった。きっかけは、"J-34地区で赤軍が集会をしているという情報が入ったため、これを鎮圧すべし"という軍部からの要請があったという情報を掴んだことだ。
作戦概要自体は、普段通り何の変哲もないものではあるのだが、今回に限っては、目的地が"J-34地区"だと言うこと、そしてそれが軍部からの要請であることがきな臭さの根本になっていた。
ファイルを手にもったひよりが戻ってきて、それを三人で広げていく。ファイルの中には大きめの地図、作戦概要のコピーに、取材担当のメモ、白軍の哨戒ルートのコピーなど、雑多に入っているようだった。
「過去ここが戦場になったのは、過去3度。どれも赤が絡んでる。規模は小~中。間違えても大規模な衝突が起きたなどという記録は残っていない。ここまではお前も知ってるだろうが」
「……3度目に、白軍からの戦死があったね。軍関係者で"裏切りの森"という呼称が使われはじめたのも、確かこの時期だ。対外的には、単なる赤軍との接触となっていたようだが」
なるほど資料には全て"輸送中の接触、のち赤との交戦"、"赤の集会を発見、即時停止措置"といった、赤との偶発的な交戦であることが示されている。
「……こうして見ると、今年一年は一度も接触が起きていないな。去年の作戦の成功で赤軍は消えたが、今になってまた出てきたってことか? 赤は何をしようとしてるんだ?」
「そこでこれなんですよ! なんとこんなものが出てきたんですっ!」
ひよりが分厚いファイルとは別の――可愛らしいひよこがプリントされたファイルから、数枚の写真を出した。
「すごい見えづらいんですけど、この赤い髪の人……インペラトルのリーダーだそうです!」
写真はぶれていて、はっきりと映っていない。日付は丁度一ヶ月前。J-34地区と思われる林の中で撮影されたそれは、木陰から赤い髪の男性らしき後ろ姿を、ぼんやりとではあるが、確かに写している。
「……ふむ。確証は?」
「この写真を撮った人間が行方不明になった。写真を撮った直後にだ。データは自動転送されたもので、そいつの持ち主のカメラは見せしめみてーに木っ端微塵。ひより、お前も気をつけろよ」
「縁起でもないこと言わないでくださいよぉっ!!」
赤軍――インペラトルのリーダーとされる人物は、白軍の情報網を持ってしても未だ謎に包まれていた。判明しているのは、"燃えるように赤い髪"であるという、その一つ。もしこれが本当に赤軍のリーダーとすれば、白軍が掴んだという"赤の集会"に、大きな意味が出てくる……が。
「まあ、本当だったらもっと大々的な作戦になるとは思うから、こっちに関しては正直分からねーな。赤軍がここで何かやってるだとか、白にその協力者が居て、その情報の受け渡しをこの森でやってるだとか、色々噂は出て来るがどれもいまいち信憑性ねえし」
「……いずれにしても、白陣営に居る我々が赤軍の詳細情報をつかむのは難しいだろうな。白軍が何を掴んでいて、白稜に何をやらせようとしているかを探るのが、やはり手段としてはいいんじゃないか?」
軍部と司令部が発表している情報に、赤軍のリーダーが現れるというようなものはない。こうした集会の妨害は頻繁にあるものであるし、そうした作戦内容は”いつものように”流されてしかるべきこと――ではあるが。
「……何か、ありそうだ。だが相変わらずと言うべきか、いつも通り意図的な情報隠蔽だな。まったく、報道の自由はどこに行ったんだ?」
「んなもん初めからねえだろ。それはともかく、焦点はそこだ。白軍の動きの、その本当の目的を知る必要がある」
和泉はそう言いながら、短く振動する自身の携帯電話へと手をかけた。神室の言う通り、今回は、”いつも通り”ではない何かを感じる。……何か別のことが、絡んでいるような、直感にすぎない、何かを。
「て、え、……………………………マジか」
画面に目を向け、振動と同じ短さで漏らされた声。携帯を片手に、和泉が固まっている。
「センパイ? どうかしたんですかぁ~……?」
様子のおかしい和泉に、ひよりが近づき、ひょいと携帯の画面を覗き込む。――その先には、
「なになに、"工兵部隊がもう動いてる。作戦決行は恐らく、今日の夜”、…………って、ええええっ!? いまもう、ほぼ夜じゃないですかっ!!?!?」
彼らの掴んでいた情報とは裏腹な――作戦の決行日が、記されていた。
◇
「さ~各自作業進捗を報告してー! 終わったらすぐ撤収! 自宅待機! さくさくお願いするよ! 日が暮れてきた!」
少し遠くから流れてくるリリィの声を聞き流しながら、司は目の前の、ひどくつまらなさそうにしているエミリアの隣に立った。
「……作戦って、こういうことだったんだな。なんかもっと、危険なやつかと思ってた」
目の前には森――というよりかはもう少し小規模な林が広がっている。
以前は――戦争が起こるまでは――近隣住民にも親しまれていた区域だったらしいのだが、いまでは"裏切りの森"などと言われ、もっぱら戦闘が行われる危険地域になっているようだった。
「……、こんなん、大した運動にもならねえし、だったら訓練してた方がマシ」
「そうかな、おれは結構、楽しいかも。いや、楽しいっていうのは違くて、勉強になるっていうか……」
指定されたスポットに指定された爆薬を埋めて、土と枯れ葉で覆い隠す。本来は怪我を負わせるために使われるものだが、今回はその限りではないらしい。だからか、司にとっては、少しだけ気持ちが楽な作戦となっていた。
(……別に普段が辛いってわけじゃないけど!)
どこへともない言い訳をしてから、木々の間から除く空模様を眺める。……大分、日が落ちてきている。ここは明かりがないから、早くしないと真っ暗闇になってしまうだろう。
『いいですか。この作戦、目的は、あの森を野ざらしにすることです。まだ不確定要素が多く占められている不安定なものですが、可能性をあげる手立ては打ちます。ブライアー司令官直々の作戦ですので、失敗は許されません。心して作業するように』
上官であり、今回の作戦の責任者でもある九条奏多の、相変わらずの長台詞を思い出す。
それを退屈そうに聞き流すエミリアと、司にとっては見慣れない、工兵科の人間たち。そして、先日見かけたリリィ・エヴァレットという三年生。
簡単な任務の説明が終わり、移動を始めようとするくらいで、司とエミリアだけが奏多に呼び止められた。
『前にも言いましたが、君たちをここに呼んだ理由は戦場分析の視点を増やしてもらいがためです。戦場は決して、目の前の敵と、自分だけで成り立ってるわけではない。”勝つための戦場を作る”ということの、実践を行ってもらうつもりです』
あの森は赤が拠点としている可能性が高く、またゲリラ戦を得意とする赤軍に有利な地形となっていること。そしてそのような、"負ける可能性のある戦場”は、早々に潰してしかるべきということ――。彼は続けた。
『本人の人間性はどうあれ、”戦場を作る"という意味において、彼女はエキスパートです。聞いてもないのに仕事について語ってくれると思うので、今回ばかりはちゃんと聞くように』
「――どーれ、1日工兵部隊諸君! 調子はどうかな?」
急に声が飛んできて、司はそれに驚いて振り向いた――先には、先ほどまで向こうにいたはずの、リリィの姿。
「……なんすか」
「ちょっ、エミリア……!」
ぶっきらぼうに、会話を拒否するようにエミリアがリリィを睨みつける。リリィはエミリアを向いて、その目を細くした。
「ふふ、キミはうわさ通りの子だ。うわさ通り、鋭利で、とても綺麗。迷いがなくて、透き通って、晴れ渡った空みたいだ」
「………………触んな」
ずんずんと進んできたリリィは、そのままエミリアの頬に指を滑らした。払い退けないまでも突き刺すようなエミリアの視線を、心底嬉しそうにリリィは受け止めている。
「もっともっと、遊びを持つといい。今のキミには、無駄がなさすぎる」
パッと、何事もなかったかのように、リリィは手を離した。もう一度、覗き込むようにエミリアへと笑顔を向けた彼女が、今度は司へも視線を向けた。
「さて、作業自体は――終わってるね。まあ、言ってしまえばものをあちこちに埋めるだけだ。あっさり終わってくれなきゃ困る。終わったら撤収とは言ったが……きみたちにはもう少しだけ、ここに居てもらう。ここからが本番だ。ついておいで」
いつの間にかすっかり周りの人間は撤収を終えていて、トラックのある方角へ消えて居た。空は暗く、まだわずかに残っている藍と月の銀が、紺色をまだらに染めている。リリィはペンライトを片手に、歩き出してしまった。
トラックのある方へ歩き出そうとしたエミリアの手首を掴んで、司はリリィを追いかけた。
◇
鬱蒼とした木々の間を抜ける。
昔は遊歩道となっていただろうに、いまではすっかり獣道になっているようだった。足元では紅葉で落ちた茶色い枯葉と乾いた小枝が、柔らかい地面にも耐えられないまま壊れていく音が小さく響く。
「こっちはちょっとした丘になっててね。森全体を見渡すのにはもってこいの場所なんだよ」
何度も入ったことがあるのだろうか、それともこうした場所に慣れているだけなのか、視界が悪い中リリィは遮るように横たわっている倒木やら、崩れてぬかるんでいる地面やらを難なく超えて進んでいるようだった。……なんだかデジャブだ。
(デジャブって言っても、人混みより全然、こういうほうが進みやすいな。……昔から昇り慣れてるし)
日が大分暮れたからか、吹き付ける風が少しだけ冷たいように感じる。運動しているせいか今は心地良いが、夜にかけてはもっと肌寒くなるだろう。
「……あんな小細工しなくたって、さっさとこの辺にでも火でもつけりゃ全部燃えるだろ」
心なしか息を荒げながら呟かれるエミリアの言葉に、先導して進んでいたリリィが振り返る。
「ふふ、考えなしに火をつければ、辺りは一面焦土になるし、近隣にも甚大な被害が出るよ。我々は破壊のために居るが、それはコントロールされた破壊でなくては、意味がない」
「コントロールされてたって、結局は破壊なんだろ? 変わんねえじゃん。そのための戦争だろ」
「力の使い道を考える必要があるということだ。キミはまだ、切れ味が鋭いだけのなまくら刀。鉄くずとして使い捨てられるか、使い手をも操る妖刀になるかは、キミ次第というわけ。……と、ついたよ、見てごらん」
相手にしただけ無駄だったと言いたげにため息をついたエミリアを横目に、司はリリィの視線の先を追った。――そこは、なるほど、高台になっているだけあって、森が見渡せるようになっていた。
ぼんやりとではあるが見晴らしのいい景色に、乾いた北風が髪を揺らす。限られた人数だったとは言えさきほどまでは居たはずの白稜生は、もう一人残らず見えなかった。
「おれたちがさっき居たのは……あそこか」
「そう。中央部だね。知ってるとは思うけど、中央から東にかけてを焼く計画だから、きみたちにさっき仕掛けてもらった爆薬が、発火を担当しているってわけ。ここは地理上、西から東に風がかかる。中央部から綺麗に火がひろがって、東の端で終わるように細工をしているんだ。……爆薬の予定地図に、赤い線が引いてあったでしょ?」
思い返してみれば、確かに赤い線が引かれていた。
どうやら爆発物を先に仕掛けて、作戦開始と同時にあらかじめ、小規模で収まる程度に燃やしておくらしい。本命の大火が来る頃にはすでに焼け落ちたそこで、火の手が止まる。
「…………コントロール、か」
「そう。コントロール。調和のとれた、舞台上の演目。……いい役者になるためには、裏方のことも知らないとならないだろう? きみたちは、そのために呼ばれたわけだ」
景色を眺めたまま、リリィがそう口を開いた。
追えば、その視線は西に注がれている。よく見るとそこには宵闇に紛れた赤い色が、波のように揺れていた。
「……よし。風向きもいいし、配置も完璧だ。あとは作戦開始まで、待つだけ。実は内緒でここに居るから、始まったら少し、混乱に乗じてバレないように逃げるよ」
「え、ええ?!!?!!」
「もう乗りかかった船だ。覚悟して、この風景を目に焼きつけるように」
ポケットから出した無線機に何かを言って、彼女はそれきり押し黙ってしまった。
下から吹き上げる風は、笛のような澄んだ高い音を孕む。一度ざあと吹いたそれは、涼やかな音色とともに、ざわめきをも連れ去ったようだった。
夕暮れなどないままに、空が濃紺へと染められる。
わずかに浮かび上がる月光の銀を遠く、静謐に彩られた森はやがて——
それら全てを突き破るような、爆音に塗りつぶされた。
◇
「おい!?!!? 今の音聞いたか!!!!」
「えっ、えっ、爆発……!?」
それほど近くはないものの、空気を震わせた短い重低音は、広報室にまで届いていた。
『――当学園司令本部に代わって通達します。本日の夜練は一部特務部隊を除き、禁止です。現在校舎内に居る生徒の外出も禁止となりますので、該当生徒はしばらくの待機を行うように――』
すぐに、スピーカーからフィルターを通したアナウンスが流れ出てくる。一般生徒への外出禁止命令。発令されれば、従う他はない――が。
「……ちょっと、和泉、どこに行く気だ」
ドアに手をかけている和泉に、神室が低く声をかけた。
「………………トイレ」
「馬鹿か? お前いまから森に行くつもりだろう。放送が聞こえなかったのか? 我々一般生徒は外出禁止だ。正門も封鎖される」
「裏門だったらまだ通れる。悪いがもたもたしてる時間はない」
「命令違反は一般生徒にも適応されること、忘れたわけじゃないだろうな。いいか、我々が白陣営に在籍している限り、この命令には従う義務がある」
二人の剣幕に驚いたひよりが、びくりと肩を震わせる。
「でも俺は記者だ。何が起きているのか知る努力もしないで、ただここでじっとしてるわけにはいかない」
「お前は本当に馬鹿だな。私が記者じゃないとでも?」
「ちげーよ! そうじゃなくて――いや、すまん。言い合いはあとだ、とにかく行ってくる」
「あっ、待ってくださいセンパ――」
ドアを開いて、和泉がその身を廊下へ滑らせる。咄嗟に追いかけようひよりは、神室の手によって静止された。
「アレはともかく、お前を行かせるわけにはいかない。理由はわかるな?」
「………………あたしが、白稜広報に所属してるから」
「そうだ。そして私は広報部部長。もし万が一命令違反が発覚したら、ことは一人の問題で済む話じゃない。だがあいつ一人であれば、それはあいつ一人の問題だ」
パタパタと遠くなる足音を聞きながら、神室は息をついた。
「……どうせ今回は後手だ。実地に行って、無事だったとしても、情報が掴めているとも限らんが――まあ、骨くらいは拾ってやろう」
「そ、それ死んじゃってるじゃないですかぁ……」
少しの笑みを浮かべて、神室は机の上の資料へと目を向けた。
"裏切りの森"の地図と、紙切れ一枚の作戦概要。びっしりとメモ書きされた過去の資料に、幾分新しいノート。
「私たちは、資料の精査でもしていようか。……少し、気になることがあるんだ」
パイプ椅子に座って、ファイルをめくる。
いくつかの資料を取り出して、それを机の上に並べた。
ここでだって、出来ることはあるのだ。
◇
(クソ、出遅れた――!)
案の定、こういうときにだけ出張ってくる警備員の姿が学校付近に見えて、和泉は路地裏にその身を隠した。
断続的に爆発音が聞こえる。場所が近いからか、それは鳴り響くたびに空気を震わせていた。……森付近が明るい。恐らく、火が回りはじめたのだろう。
(工兵はこのためか。……交戦があったってことか? いや、偶然だったら工兵部隊なんていないはずだろ。目的は爆破? ……なんで今更ここを。赤軍の集会は? ダメだ全然わかんねえ!)
人気を忍んで、暗がりを選んで移動を続ける。何かに足を取られて躓くが、そんなことを気にしている時間はない。……嫌な空気だ。冷たい北風に混じった、わずかな熱風と、木が軋んで揺れる音。
人が居ないことを確認して、ゆっくりと森の方へと顔を向ける。
白稜からそれほど遠くないその森は、いまや真っ赤な炎に包まれていた。
◇
中央部で起きた爆発は、地図で印が付けられていた場所からの誘爆へと繋がっていった。最初の爆発音なんて大したものじゃなくて、すぐ後に起きた別の爆発——一箇所だけではなく、数カ所同時の——の方が、よっぽど規模が大きいものとなっていた。
「………………ふっ、ふふ、」
瞬く間に火の手が広がっていく。何だかわからない燃えかすが司の頬を掠めていく。月光に照らされていた森が、周囲を照らす光源になっていく。
「……………………っ、」
バチバチと枝が折れて、炎に包まれたままの黒い塊が炎の中に紛れて同化していった。真っ赤に燃え上がったそこは、中央部から右に広がって、黒煙を巻き上げている。
「これが破壊だ。これが破壊なんだ。何年も何十年も積み上げて、そうやって形作られたこの森の、ひとつの終焉。一瞬の、それゆえの、鮮烈なまたたき! 意味のすべてを犠牲にした無への弾道線が、いまわれわれの目の前に広がっている景色だ!」
肩を震わせて、眼下の炎へと視線を送るリリィに、司はうまく反応を返すことが出来ない。轟音を立てて燃え上がるその景色は、紛れもなく、死の形をしていたからだ。
「君のそれは、間違いじゃない。終焉という意味では、人間であれそれ以外のものであれ、同質のものさ。だから君がそれに対して恐怖を抱くのは、自然な働きで、全くもってそれは、美しい」
「……もういい加減、お前の御託は飽きた。おい帰っぞ枇々木、こねえなら先に帰る」
「エミリア、こんな中一人って危ないだろ!」
「そうだよ彼の言う通りだ。だいたいわたしを置いていかないでくれる? そろそろ帰んないとまずい頃合いなんだ」
踵を返して、来た道を戻ろうとするとエミリアの首根っこを、リリィが掴んで方向転換させる。手を振り払って睨みつけたエミリアの視線を、また満足げに受け止めて、リリィは森の中に進んでいった。心なしか、熱源が近づいている。……火の手が迫ってきているのだろう。
◇
「……ッ、ま、まじかよ……どうしよ……」
通りの向こうに見えた燃え上がる森は、近づけば近づくほど大きく――本能的に、近付きがたいものとなっていた。当然と言えば当然だろう。それは、ほんのわずかな欠片になりながらも燃焼を続け、侵入を拒むように俟っていたからだ。
森の中には誰が居るのか、赤なのか、白なのか――その役職は、その規模は? 確かめるべきことはいくらでもある。
幸か不幸か、和泉は森西部付近に出ていた。風は西から東に流れている。火の手は上がっているものの、これ以上広がることはなさそうだ。とはいえ危険区域に入ったのか、もう警備の人間も見えない。自由に動ける状態ではあるが、それはここが危険である証に他ならなかった。
「……や、ここまで来て、引き返すなんてありえねえだろ」
覚悟を決めて、森を見つめる。炎の明かりで、木々の幹が黒く揺らめく。一際大きい枝が落ちて、熱に晒された風が吹き付ける。首を伝う汗は、この熱の所為か……それとも。
居ても立ってもいられなくて、森の端を沿って走る。道路によって火の手が途切れているが、森側はとてもじゃないが入れないだろう。この中に、答えがある気がしてならないのに。
ただでさえ熱いと感じていた熱は、更にその温度を増して、肌の表面をひりつかせた。どれくらい経っただろうか。燃え盛る森の波打ち際が、風に合わせて揺れる。ひと際大きく揺れたその合間に、何かが――人影が見えた。
「もう! きみが変な進路取るから、わたしたちちょっとヤバかったじゃないの! ちゃんとわたしが退路とってないわけないだろう!」
「うるせーよ! おめーが寄り道しようとするからだろ!」
炎と炎の、その合間。
炎の手が迫っていない小径から、見覚えのある制服の――白稜の生徒とおぼしき人間たちが飛び出してくる。
人数は三人。
逃げてきたばかりのリリィと、司とエミリアが、駆け寄ってくる和泉へと視線を向けた。
「え、ちょっときみ、だれ? 手ぶらってことは、一般生?」
「おめーと同学年の白稜生だよ! 手ぶらじゃねえし! 一般科だけどな! ……つーかおい、これをやったのはお前らか!?」
「ははあ、さては見物人だね。……でも残念だ。わたしは守秘義務は守る方なんだ。詳しいことは言えない。……けど、質問には答えて。向こうの森は、燃えていた?」
矢継ぎ早に言葉を放って、リリィが指差すのは和泉の背後。何が言いたいかわからないままに、和泉は小さく頷いた。森の端は火に包まれ、燃えていない所は存在しなかったからだ。
「……ふふ、そうか、そうか。いや、ありがとう。それが聞けて、わたしは嬉しい。どう? さぞや美しかっただろう? わたしも本当は行きたかったんだけど、この子らに止められちゃって――」
「おい今なんつった!? 嬉しい? 美しい? ――これがか?」
「美しいよ。他のどんなものより、これは真に美しい光景だ。……そうか、燃えているんだな。奴は燃やしたんだな! ふ、ふふ、ここまで来てくれた観客諸君に、ひとつ種明かしをしてあげよう。……爆破予定地は覚えている?」
和泉の剣幕を受け流しながらくるりとふり返って、リリィは司に向かって質問を投げた。森は依然燃え続けている。
「中央部を起点として、東に向けて。西は地理的に燃やしにくかったし、近隣住民の嘆願があったから予定地じゃなくなった……だっけ」
「そう。でもこのお兄さんは言った。向こうは燃えていたとね。……実は内々に、わたしはあることをしてた。西に、爆発物をしかけておいたのさ。通常じゃ発火しないように。人工的に火が点けられない限り、西部での爆発が起きないように!」
リリィはうっとりと目を細め、空へと登っていく黒煙を見つめる。
「……これが何を意味するかわかる? 誰かが、意図的に火をつけたってことさ! 一人の人間の意思が、思いが、いまこうして、この森を焼いている!」
手を広げて、頬を上気させて、彼女は歓喜の声を上げていた。彼女の後ろに居た二人も、彼女に気圧されたのか声を上げない。彼女は穏やかな笑みを浮かべて、やっと和泉へと向き直った。
「……これはいったい、誰の思いだろうね? これ以上は、残念ながら教えられない。こんなに楽しいことを、邪魔されたら敵わないから。……さて、名残惜しいがそろそろ帰るよ。きみは……まあ、わたしの管轄外だから、勝手にするといい。もう森に入っても死ぬだけだから、帰ることをお勧めするけど」
そう言うと、リリィは司とエミリアを連れて、路地へと消えていった。一人残された和泉は呆気にとられながら、燃え上がり続ける森を見上げる。
炎はゆらゆらと揺らめいて、それは全てを覆い尽くしていた。木であったそれらの塊。葉であったそれらの欠片。何かがあったはずの、その森。その全てを。
リリィたちが出てきた小径すらも今は炎の中にあって、どこがそれだったかの判別はつかない。彼女の言う通り、いま森に入っても死ぬだけだろうし、そもそも入る手段はとうに失われている。
だが、それでもまだ彼の目には、火の海が映し続けられていた。
それが何故なのか、彼自身にもわからないまま。
◇
J-34地区が全焼した理由は、『学生を中心とした第三勢力による奇襲』として発表されたようだった。
軍関係者への、もう少しだけ詳細な理由は『奇襲の拠点となっている地区を潰す観点から、焼却の判断がとられた』というもの。納得しようがしまいが、これ以上の追求は許されない。発表されたことが全てで、それ以外のことは検閲の対象だからだ。
「……ま、そう気を落とすな。しきり直せばいいじゃないか。かっこつけて出てった割に収穫ほぼなしで、すごすごと帰ってくる羽目になったとしても、だ」
「そうですよ〜……。いつもの自信はどこに行っちゃったんですか、センパ〜イ……」
あれだけ燃え盛っていた火事は、次の日には消火されていた。一般生徒への待機命令が解かれた頃合いを見計らって白稜へと帰宅していた和泉は、広報室に居た二人に収穫がなかったことだけを伝えた。
翌日になって公式発表が出たが、和泉の反応は薄く、広報室で勝手に使用している窓際の空席に座ってノートを広げたきり、何も書けないでいるようだった。
「……あーダメだ、わかんねー。なにがわかんねーのかもわからん」
「そーいうときは、気分転換です! 神室センパイ、こないだ食堂に新デザートメニューが出たって言ってましたよね」
「それは名案だね。ぼけっと白紙のノートと窓の外を交互に見比べるよりか、よっぽど有意義だろうよ。なあ和泉?」
「……わあったよ。行くけどおごらねーからな」
ここでごねても仕方がないだろう。思えば小腹が減ってくる時間でもあったし、新デザートメニューやらでないメニューも、食堂には存在する。白紙のままのノートを閉じて立ち上がると、窓からはグラウンドが見えた。
(……九条奏多。それとあれは、昨日エヴァレットの後ろに居た二人か……?)
「センパーイ! なにしてるんですかぁ〜?」
後ろから、急かすようなひよりの声。
どうせここからは遠くて、グラウンドをよく見ることは出来ない。恐らくは訓練かなにかだろう。隠してもなさそうであるし、こちらは多少調べればすぐに情報が出てきそうだ。あとで、二人にも聞いてみよう。食堂で、気分転換でもしながら。