ブルームーン
「大概にしやがれこの最低ロリコン変態野郎!!!こっちから願い下げだっつーの!」
人生で初めて公衆の面前で絶叫した。
振るい上げたい拳を必死で抑える。寄り添う彼と小柄な彼女を睨めつけた後、レッドソールの美しいルブタンで大理石の床を打ち鳴らし、踵を返した。
遠巻きに見る野次馬カップルを肩を怒らせて蹴散らし、彼と行く予定だったバーへ向かう。
きれい系が好きだという彼の為に選んだ背中の大きく開いたブラックのミニワンピも真っ赤なガーネットのネックレスも、ストーンが行儀よく並ぶヌーディなネイルも一瞬で用無しだ。
悲しいを通り越して笑えてくる。
誰も相乗りしないエレベータが静かにホテルの最上階を告げる。
普段なら絶対に近づかない高級感放つバーも最高の夜景も、今の私には何も響かない。
案内されたカウンターに腰掛け、バーテンダーにジントニックを頼む。
初老のバーテンダーの洗練された手つきをぼうっと眺めていると、ようやく気持ちも落ち着いてきた。
予定さえ狂わなければ、今頃はヤツと2人ここでお酒を飲み交わし階下のホテルに泊まっていたのだ。
そう、人生の予定さえ狂わせたそれさえ無ければ。
付き合って4年の記念日の今日。
彼、麻生達矢の久しぶりの休日に合わせる為に有給をもぎ取っての久しぶりのデートらしいデートをしたのだ。
直属の上司からは私事で有給なんてとちくちく嫌味を言われ続けたが、鉄壁の笑顔でそれらを全て黙殺した。
こちとら入社以来私事で取ったの初めてだよ、そっちの新人のかわい子ちゃんは既に今年の有給使い切ってデートに勤しんでるのに何も言わねぇのかよ。なーんて全然、一言も漏らしていない。
就業時間が終わった瞬間退社し、待ち合わせたフレンチで食事をした。
お腹と気持ちを満たされ、夜風に吹かれながら夜景を眺め、見震え声の達矢にプロポーズされたのだ。
勿論結婚前提で本気で付き合ってきたつもりだったし、答えはイエス。
明日両親の所に挨拶に行くと伝えられ展開の早さに驚いたものの、まさに幸せの絶頂だった私は二つ返事で彼の首に抱きついたのだ。
照れた彼に引き剥がれるも、仲良くホテルのバーへと連れ立つその道すがら。
今考えると彼女の策略に見事嵌ったのかと疑う程、絶妙なタイミング。
一人の少女と鉢合わせた。
彼女と達矢が同時に足を止めた。
見つめたまま動かない彼女は総レースのふんわりワンピースを身に纏っていた。ふわふわのレースの先から伸びる手足は今にも折れそうな程華奢だ。ピンクブラウンのふんわりパーマの毛先が、浮き出た鎖骨と揺れるイヤリングを魅せる。ヌーディ過ぎないチェリーピンクの唇も睫毛のくるんとしたぱっちりお目目も、正に私と正反対。
知り合い?と達矢に尋ねようと隣を見遣ると、私の存在など忘れてしまったかのようにふらふらと彼女に近づいていった。
「まりか…まりかだよな…?」
名前を呼ばれた彼女は花が咲いたように笑顔を見せ、目をうるうるさせている。
「たっくん…」
たっくんって何。
訳の分からない私を置いて既に二人だけの世界がひろがっていた。
あっという間に2人が抱き合う。
愛おしげにお互いの名前を呼び、額を合わせていちゃいちゃしだす。
ちょっと待て。
おい。
結婚しようと言ったその舌の根の乾かぬうちに何やらかしてんだ。
達矢、と名前を呼んでもまるで気付かない。
ここの所の仕事のストレスも相まって、ぷつん、と頭のどこかで何かが切れる音がした。
「達矢!ねぇ、どういうことなの?!」
強い口調で問いただすと、二人は漸くここが外だと思い出したのかぱっと離れる。照れたように動揺する姿さえ私の怒りを煽った。
「梓…すまない、さっきの話は全て無かったことにして欲しい」
そう言って腰から直角に頭を下げた達矢。
「どういうことか説明して」
「まりか…彼女は幼馴染みなんだが色々あって引き離されていて。けど今日こうして会えて…本当に大事な子なんだ」
そういって達矢は彼女の細い肩をそっと抱く。
「勿論梓に言った事は嘘じゃない。それだけは信じてくれ」
言っている事は滅茶苦茶で説明にもなっていない。しかし、彼の目を見てそれが生半可でない本気だということを悟る。
4年の付き合いは伊達ではない。だからこそ、到底受け入れがたい。
ふと、段々周りがこの修羅場を遠巻きに眺め始めていることに気付く。
達矢は頭を下げたまま。まりかと呼ばれた彼女は状況が読めず、怯えた様にびくびくこちらを見ている。
裏切ったのは彼なのに、責められている気がするのは何故だろう。
そう思った刹那、何もかもどうでも良くなってしまった。
「分かった」
いいわ。聞き分けの良い子になってあげる。
その言葉を聞いた達矢は明らかにホッとした表情で力を抜いた。
ここで穏便に終われると思えるその神経が、彼の欠点を如実に示しているのにと思う。馬鹿な人。
「無かった事にしてあげる」
勿論。
但し。
そして艶やかに笑んだまま、冒頭の罵声を浴びせたのである。
「あー本当スッキリしたわぁ…豆鉄砲食らった鳩かっつーの」
手元のストレートのウイスキーグラスをぐいっと飲み干しながら呟く。
「なかなか刺激的すぎるよね。相手の男立ち直れないんじゃない?」
「ざまあみやがれってヤツよ…ん?」
ナチュラルに返事をしたけれど、この隣に座る男は誰だ。
「あんた誰」
端的に問うと、男は片眉を上げ手元のゴッド・ファーザーを揺らす。
ノンフレーム眼鏡の似合う切れ長の眼に塩顔と言われるであろうスッキリした顔立ち。どこかで見たことのあるような無いような妙に記憶を叩く何か。
酔いの回った頭で分かるはずもない。
早々に諦めてまあいいや、と手を振ると男は喉奥で笑いながら喋り始めた。
想像以上に美声で自然と耳を澄ませてしまう。
「さっきの修羅場の野次馬。啖呵切った梓ちゃんが格好良いから惚れちゃった」
おどける彼に嫌味かと睨む。酔っている自分に大した威力もないが。
「彼氏も彼氏だしね。次何飲む?」
「あー、あたし何杯目だろ…」
いけない、覚えてない。
心地よい酩酊感から少なくともウイスキー3杯は飲んだと推測する。まだいけるか。
「一人で一部始終を語りながらバーボンを数杯ってとこかな」
一人ブツブツ苛つきながら呟く女だなんて気持ち悪い事この上ないではないか。
ああもう。あれもこれもあいつが悪いと達矢のせいにして飲んだくれてしまえ。
「まだ余裕だろう?カシスソーダなんてどうだい」
「いや、ブルームーンをお願い」
バーテンダーにそう告げると、微かに苦笑し軽く頷いた。
「つれないね、そこもまた魅力だけど」
「気持ち悪い男ね」
率直な感想に彼は大袈裟に肩を落としてみせる。
「でもあんたよりも達矢の方がもっと気持ち悪いわ。本当別れて良かったと思わない」
「その通り」
「でしょ。彼女の私に一言も幼馴染の話なんてしてくれなかったわよ!女々しく想い続けてたとか!女子かよ!あんな可愛い子に勝てるわけないじゃない…寧ろ私がお友達になりたいわ全く」
手元に静かに置かれたブルームーンを舐めながら管を巻く。
透き通るバイオレットがテーブルに光を投げかけている。
「でも結婚前に分かって良かったね」
「本当よ全く」
ぐっとグラスを傾ければバイオレット色の液体が喉をするりと通って行く。男はいい飲みっぷりだと称賛した。
うむ、と鷹揚に応えておく。
「それにしても4年って長いわー。これからどうしてくれんのよ、適齢期逃すとかシャレにならないじゃない…」
「梓ちゃんは引く手数多だろ」
「はっまさか」
最近は仕事一筋で女子力などすっかり鳴りを潜めている。
今日こそ突貫工事で盛ったが、それでも細部に粗が目立つ。
新人ちゃんのような若々しさも無く、件のまりかちゃんのような庇護欲をそそる愛らしさもない。残っているのはボロボロの身一つ。
何だか胸が虚無感で押しつぶされそうな気がした。
「このままお局様を経ておばあちゃんになっちゃうのかなぁ…」
少し残ったブルームーンの淡い青さを見つめてどんどん深みに嵌って行く。
とその時、横からグラスが節くれ立った手に攫われ、残っていたカクテルを一気に飲まれた。呆気に取られている間に男は口元を適当に拭うと、とろけるような笑みを向けて私の心を掬い上げてくれた。
「少なくとも俺が掻っ攫うから安心しなよ」
思わず吹き出してしまう。
「気障すぎるでしょ…でもありがと。最終手段にとっておく」
いたずらっぽくウインクしてみせた。すると彼は大きな手で私の頬を包み、親指でそっと溢れ出た雫を拭ってくれる。
「そうそう、だからあんな奴の為に流すなんて勿体無いだろ?」
「…そうね」
自覚した瞬間、胸から達矢との思い出が止め処なく溢れた。
初めて二人で会った日、気持ちを伝え合った日、誕生日、初めて旅行に行った日、喧嘩して仲直りした日。なんでもない一日でさえキラキラと輝いていた。
4年の歳月は一夜で吹っ切るにはあまりにも長かった。
好きだったのだ。
ずっとずっと、このまま彼と二人寄り添って生きていくものだと、疑いなく思っていたのだ。
彼は何も言わずに時々涙を掬いながら頭をそっと撫でてくれる。その優しさが滲みて、痛い。そう思うことにした。
「お兄さんが優しすぎるからいけないの」
「俺が?優しいなんて光栄だね」
「たかが野次馬なのにここまで付き合ってくれるなんてね。酔狂だと思わない?」
涙声で、しかし明るさをまとった声で問いかければ彼は苦笑交じりにストレートの黒髪を名残惜しげに指で梳く。
そうして離れて行った体温が無性に恋しくなった。
「あともう一杯飲んだら帰る。うん、そうしよう」
「俺もそうしようかな。すみません。甘酸っぱいカクテルで、あとはお任せします」
「んー私はアキダクトをお願い」
バーテンダーに思い思いの注文をすると、紳士なバーテンダーは心得たように頷いてテキパキと作り始めた。
仄かにローズの上品な香りにふかふかのベッドが肌に馴染む幸福感。
シーツを身体に巻き付けるようにして手繰り寄せる。
が、明らかに自分のものではない感覚に違和感を覚えてはっと目を開けた。
そこは見慣れぬホテルの一室だった。
調度品からして恐らく昨日のバー階下であることは容易に知れる。
ベッドから見える窓は雲一つない真っ青な空を切り取っており、体から血の気が引いた。
あれだ。
やってしまった。
初めてお酒に呑まれた。ガンガンする頭を抑えながら、ゆっくりと腕を突いてふかふかのベッドから起き上がる。
一人で寝るには大き過ぎるダブルベッド。昨日の服のままベッドインしたらしく、メイクこそ落としてあるものの身体のベタつきが不快感を訴えている。
慣れない二日酔いと格闘しつつ、必死に頭を回転させた。
昨夜は確か、バーで号泣しながらアキダクトを煽ったところまでは覚えている。
そう、あの男がそんな私を見ていい飲みっぷりだと笑ったのだ。
そう男。
…男?!
バッと部屋中に視線を走らせるも誰かがいた形跡は無い。
ベッドサイドに目を向けるとナイトテーブルにスマートフォンと1枚の紙が置いてある事に気付いた。
両方を手に取り、スマートフォンを起動させれば、達矢からの着信とメールを知らせた。
間髪入れずにアドレスごと消去する。
右上に表示されているデジタル時計は9:38。
「9時半?!やだ仕事!…って」
そういえば有給をもぎ取ったんだった。
思わず安堵してベッドへ倒れ込む。
ごろんと横に転がり、もう一つの二つ折のメモを開く。
"おはよう。ここのチェックアウトは1時までだからゆっくりしていくといい。
俺が誰か分かったら直接部屋までおいで"
右肩上がりの癖のある字が最近の企画書や報告書で書き込まれていた手書きのそれと重なる。
と頭をよぎった瞬間。
「そうか!専務だ!」
ようやく合点がいき、子膝を叩いて声を上げた。
「専務!やばい!」
一部上場の大企業である我が社の専務といえば、30そこそこで恐ろしく有能な営業上がりという彼、梁井専務。一社員の私はなかなかお目にかかれない人だ。
同期の女子が社内の筆頭優良物件だと目をギラつかせていたが、あの人の事だったのか。
最近のプロジェクトで名前のない役員からの指摘が頻繁に入っていたが、まさか梁井専務だったとは。
通りで上司が渋い顔をしていた訳だ。
そんな梁井専務に散々絡み酒した挙句、号泣して思いの丈をぶちまけるだなんていくら何でも酷過ぎる。
あまつさえタメ口で邪険に扱っただなんて。
紙においでと書いてあるが、明らかにこれは殺られるパターンだ。
「あーもう、なんでよりによって専務…」
取り敢えず、明日の朝一で専務の所へ行こう。土下座でも何でもしてやろうじゃないか。
ここまでやってしまったのならもうヤケだ。
まずはギリギリまでこの最高の部屋を堪能して、それからこれから先を考えよう。
こうして開き直った私は勢い良く黒のミニワンピを脱ぎ捨て、隅のゴミ箱に投げ捨てた。
ジャグジーに身を投じてはしゃいでる間に着々と外堀が埋められているだなんて、そんなこと露にも思わず。
彼女が支払いの為にホテルのフロントへ顔を出すと既に精算されていたり、携帯に見慣れぬ名前のメールアドレスと電話番号が登録されていたりと手回しの早さに感服する彼女でした。
ご一読ありがとうございました!