月が言わせたこと −月下草シリーズ01−
「自分は何から産まれた者か、しゅうちゃん、あなたは何だと思う?」
「何ですか突然…」
薄暗い店の片隅、ガラス天井から降り注ぐ月光の下でタンブラーを傾けていた人の突然の言葉に、「しゅうちゃん」こと空木秋晴は目を瞬かせて振り返った。
カフェバー「Mooner’s Bar」は、マスターの完全な趣味の店で、昼はカフェ、夜はバーとして営業されている。そこは都会にあることが信じられないほど静謐な場所で、半地下構造の店の造りも相俟って、都会の水底に沈んだような空間を造り出している。
そんな店であるせいか、客足はそう多くない。少なくとも自分が来るときはいつもそうだな、と秋晴は思った。彼がこの店に来るのは日が暮れてからのことが多かった。初めてこの店に来たのも夜のことであった。そのときの感想が「洞窟のような場所だなあ」ということであった。
そして彼をこの店に引っ張ってきたのが、今洞窟の中で夢見るような瞳で月光を浴びている人、三山斎、通称「サイさん」なのであった。ちなみに秋晴のことを「しゅうちゃん」と呼ぶのは彼女だけである。
秋晴の視線を受けて、斎は月に照らされた色素の薄い瞳を僅かに細めた。彼女はその手のタンブラーの中で細く湯気を上げる琥珀色の液体で口を湿すとひとりごちるように続ける。
「人間はね、自然のものなの。だから当然人間の肉体も魂も自然のものから造られているの。そして世界は火・土・水・風、大体こういうもので造られている」
なんだか随分昔歴史の授業で聞いたことがあるような気がする、と思いつつそれが何の話だったか彼には思い出すことができなかった。
話を戻そう、と彼は思った。話が見えない――時に彼女はこんな話し方をするので既に慣れたものではあったが――しかしまったく先の見えない話をされるのは毎度のことながら彼には面白くはなかった。
「世界の構成要素――ですか?それは何となくわかります。で、『自分は何からうまれたのか』って何のことですか?」
「しゅうちゃんの言いたいことは『四大元素』のことかな?まあそんなとこかしら。でもまあそれにこだわらなくてもいいことよ。これは。ただ自分は何処から来たのか、ってことだから」
自分で言っておきながら「こだわるな」とは何とも勝手な言い草だと思ったが、取り敢えず先を促すことにする。
「でもどうやって自分の生まれってものがわかるんですか?」
「じゃあ、あなたが懐かしさを覚えるもの、感じるものって何?」
彼の問いに彼女は問いで返してきた。
「例えば自分の生まれ故郷――お父さんとお母さんから自分が生まれ、それから育った場所、過ごした場所、家とか公園とか広場のベンチとか、春になったら毎年綺麗に咲く花だとか――そういうものとか場所とかに行ったり触ったりしたら『懐かしい』って思うじゃない?実際触れなくっても考えたり思い出したりするだけで何とも言えない、あったかいほんわかした切なさを感じる。
それと同じで、触れたり感じたり考えたりしたときに安心感とか切なさとか何とも言えない懐かしさを感じるものってきっとある。それが自分の『産まれ』。自分を形造っているものよ」
時折琥珀の液体で喉を湿しながら、柔らかいメゾの音声が、他に客のない狭い店内にたゆたうようにとうとうと流れる。耳に心地の良いその言葉は抵抗もなく耳に入り、静かに脳内を駆け巡る。
「じゃあ、サイさんは何なんですか?」
彼の言葉に彼女は瞳を細めて答えた。
「あたしは水。水の無いところじゃあたしは生きてけない。水の生きているところでないといつか狂ってしまう。あたしは水によって生かされている生き物、『水の民』なの」
そう言いながら彼女は軽く首をもたげて月を仰いだ。短い髪がさらっと肩をかすめて月光に揺れた。
「――しばらくね、近くに水のない乾いた風の吹くところに住んでたことがあったの」
おもむろに言葉が続けられる。
「とてもよく風の吹くところで、とても乾いたところだった。――そしたらねえ、すっごいつらかった。体も喉も乾いちゃって、髪もばさばさ。鼻もぼろぼろになっちゃって――ええと、そういうことじゃなくって――んー、何て言うんだろ。ひとことで言うなら『気持ち悪かった』かな」
オーディオから微かに流れるピアノの旋律以外音らしき音のない静かな店内で、彼女の言葉は静かに続いていた。
「物足りないとか違和感だとか異物感異質感――そういうのが続くとね、なんかもう気持ち悪かったのね、すでに。自分はここにいちゃいけない、とか実存感がなくって。でもなんで自分がそんなんなってんのかわかんなくって、毎日がイライラとかムカムカとかそういういう感じだった。でもそのときはわかんなかった。何で自分がそうなってんのか。何が理由なのか。そもそもどうして具合が悪いのか、とかね。――でもね」
そこで初めて彼女の視線がはっきりと彼を捉えようと動いた。夢見るような淡い色の瞳が真直ぐに彼に向けられる。
「でもね、たまたま散歩してて、見つけた公園があったの。その中には大きな池があってね、そこにはいっぱいに蓮が咲いてた」
言いながらふわりと笑みを浮かべると、天を仰ぐ。
「――嬉しかったなあ。何とも言えず。
もちろん満開の蓮の花がすっごく美しかったっていうのもあったけど。薄紅の蓮を支える濃い緑の葉が波打つのがいっそ幻想的でさえあったっていうのもあったけど。でも何よりそこに水に生きているものがあって、水のざわめきやせせらぎがあって、そこに生命が漲っている、っていうのが――多分、あたしの芯を刺激したのね。
懐かしくって、あったかくって、ほんわかして、安心できて、心が安らげて―切なかった。
ああ、あたしはようやく帰ってこれたんだって――
ああ、あたしはここで生きてこれたんだって――
あたしはこういうところがあるから生きていける、生きてこれたんだって――」
「それで、『水の民』ですか?」
「そう。あたしは水から産まれて、水から切り離されると生きてはいけない、『水の民』なの」
彼の言葉に彼女はゆっくりと頷いた。そしてふんわりとした笑顔を向けてきた。
「で、話戻るよ。あなたは何から生まれた人間?しゅうちゃん?」
時々彼女――三山斎はこんな謎掛けのような言葉を発する。それは限られた人を相手に、限られたシチュエーションのみでしかしないことだということを、秋晴は知っていた。
それは時刻が夜であることといい感じに酒が入っていること。そんな時、彼女が気を許した何人かのみがその場にいるとき、時々彼女はこうやって語り始める。夜という時間帯の持つ力か、あるいは酒に酔うという精神的な変化がもたらす開放感か。そんなところだろうと秋晴は思っている。何しろ昼間の彼女だけを知っている者からしたらまるで思いもつかない、《三山斎》という女性がそこには現れるのだから。
しかし彼はそんな彼女を迷惑とは思わなかった。正直困惑することもあったが、そんなときの彼女は決して嫌いではなかったし、その語られる言葉も、彼には決して無視することができなかった。どちらかというと楽しんでいる、というところであろうか。
おそらく『答』を求められると困ってしまうだろう。しかし彼女は誰からも明確な答を求めているわけではないように思えた。彼女にとってそれらは既に答の出ている事柄なのだろう――例え自分には理解できないことであろうとも。そう、秋晴は思っていた。
「…言うだけ言って寝ちゃってるし…」
秋晴が苦笑しながらぼやく。その視線の先で斎はソファの肩に頭を預けて静かに目を閉じていた。
「お疲れなんでしょう。珍しいですね」
奥から薄いブランケットを抱えてきたマスターが、それをそっと斎の肩にかけた。
「まったく、自分から呼び出しておいてこれなんだもんな〜サイさんは…」
秋晴は苦笑交じりに呟くとグラスを傾けた。氷が溶けて僅かにライムの香りを残して薄まったジンが、生温く喉を下った。
「サイさんはマイナスですね」
カウンターに戻ったマスターが新たにグラスを取り出しながら穏やかに笑った。
「…《マイナス》?何?それ」
秋晴が聞き慣れない言葉に瞬きをした。
「古代の巫女ですよ。酒の神に仕える女のことをそう呼んだんだそうです。お酒を飲んで酩酊することで神と通じ、託宣を得る。まあちょっと違いますけどなんだか今のサイさんを見てたらそんなことを考えてしまいましてね」
言いながら慣れた手つきでグラスに入れた液体を混ぜると、秋晴のグラスと取り替えた。
「巫女ねえ…確かに謎掛けというか禅問答というか。神さまのお告げなんていうのってこんな感じなんですかねえ」
どうやら今夜はマイナスのおかげでこの店には神さまが降りているらしいな、と秋晴は思った。それとも神様の恵みの水のせいか、天にかかる望月の言わせることなのか。
「巫女の託宣は大抵意味不明の単語の羅列ですからね。神の意志を受けてそれをそのまま言葉として発しているわけですから。実際のところ本人は何を語ったのか覚えていないことが多いそうですね。それを意味のある文章にするのはそれを聴いた人間。つまり結局のところ意味の無い言葉に意味を与えるのは巫女の語る託宣の言葉を受けた人間、なんですね。結局」
「でもきっとそこに意味を見出せるってことはそこには真実を突くキーワードが存在しているってことなんじゃないですか?」
「でもきっとそれをキーワードだと思うのも受け取る人間の気持ちひとつなんでしょう。
――ねえ、ところでシュウさん」
ふと調子の変わったマスターの声に、秋晴は視線を上げてマスターを見た。彼は面白そうに目を細めて笑っていた。
「ねえ、でも実際どうなんでしょうね?あなたはどう思います?何に属する生き物なんでしょうね」
「――私たちは、一体何から産まれた生き物なんでしょうね――…」




