評価不能のヒロイン
【前書き】
クレイジーエンジニアさま(https://mypage.syosetu.com/2519094/)の感想返信から、この物語は生まれました。
【女は胸でも尻でもなく脚である】というのが世界の真理である。
その世界の真理を前提にしたうえで、「脚無しヒロイン」を書く。
がコンセプトです。
女は胸でも尻でもなく脚である。
これは冗談ではない。
少なくとも、この王都では、そういうことになっていた。
王立美脚審査会の正面玄関には、建国王妃の白い大理石像が立っている。胸は慎ましく、腰つきも控えめで、表情などほとんど無である。ただし脚だけは違った。すらりと伸び、膝から足首までの線に神の遠慮がなく、爪先は床に触れる寸前で永遠に止まっていた。
その像の台座には、初代審査長の言葉が刻まれている。
――国は法で立ち、女は脚で立つ。
この国では、だいたいのことが脚で決まった。
貴族令嬢の成人式では、家柄より先に足首の角度が見られた。舞踏会では顔を覆う仮面より、ドレスの裾から覗くふくらはぎの緊張が噂になった。詩人は恋文の冒頭で「あなたの瞳は」と書けば三流、「あなたの足音は」と書けば一流とされた。
靴職人は医者より尊敬され、靴音評論家は政治家より嫌われた。
だから年に一度の「春の脚典」は、王都でもっとも格式高い祭典だった。
審査場の中央には磨き上げられた黒檀の床が敷かれ、その上を候補者たちが歩く。歩幅、膝の抜け、踵の沈み、爪先の置き方、沈黙の間合い。すべてが点数になる。審査員の前には銀縁の採点表が並び、項目は十二に分かれていた。
線。張り。運び。沈み。戻り。迷い。音。余韻。品。危うさ。支配力。あと、なぜか「国家的必然性」。
最後の項目は誰も説明できなかったが、伝統なので残っていた。
今年も会場は満員だった。
貴族席では扇が揺れ、庶民席では賭け札が飛び交い、審査員席では老人たちが険しい顔で羽根ペンを握っていた。誰もが脚を見に来ていた。脚を見て、脚を論じ、脚によって世界がまだ正常に回っていることを確認するために来ていた。
そこへ、彼女が運ばれてきた。
いや、運ばれてきた、という言い方は正しくない。
彼女は、台車に乗っていた。
細い車輪のついた低い椅子。黒い木枠に銀の装飾があり、背もたれには深い赤の布が張られている。その中央に、彼女は座っていた。薄い灰色のドレス。肩にかかる髪。膝から下は、なかった。
膝、という言葉すら正確ではないのかもしれない。
ドレスの裾は短く整えられ、そこから先には、脚が存在しないという事実だけがあった。
会場が静まり返った。
咳払いひとつない。
靴音のために作られた床の上で、靴音がしなかった。
審査長の老人が、羽根ペンを取り落とした。銀縁の採点表の上にインクが一滴落ち、「線」の欄を黒く潰した。
「これは」
老人は言った。
「審査対象外ではないのか」
誰も答えなかった。
台車を押していた係員が、困ったように彼女のほうを見た。彼女は係員を見返さなかった。審査員も、観客も、王族席も見なかった。ただ、まっすぐ前を見ていた。
その視線は、歩いていなかった。
だが、進んでいた。
係員が小さく息を吸い、台車を黒檀の床の中央へ押し出した。車輪が床を撫でる音は、靴音とはまったく違った。硬くもなく、軽くもなく、評価項目のどこにも入らない音だった。
ころ、とも、すう、とも言えない。
ただ、床が自分の用途を忘れたような音だった。
「規定には」
副審査員が震える声で言った。
「候補者は自らの脚で歩行すること、とあります」
審査長は頷きかけ、途中で止まった。
彼女が右手を上げたからだ。
白い手袋をした手だった。指先は細く、手首の角度には、なぜか会場全体の首を傾けさせる力があった。彼女は何かを求めるように手を上げたのではない。ただ、音もなく手を置き直しただけだった。
それだけで、扇の揺れが止まった。
観客席の賭け札が宙で迷った。
王族席の少年が、口を開けたまま閉じ忘れた。
審査長は採点表を見下ろした。
線。
彼には線が見えていた。
脚の線ではない。存在の線だった。肩から肘へ、肘から手首へ、手首から指へ。背筋から顎へ、顎から視線へ。失われたはずの下半身へ向かって、見えない線が降り、そこで途切れるのではなく、床のほうが勝手に続きを想像してしまう。
張り。
あった。
歩いていないのに、張りがあった。
運び。
係員が押しているだけのはずだった。しかし会場の全員が、彼女が場を運んでいることを理解していた。係員の手は添え物で、車輪は言い訳で、黒檀の床はすでに彼女のために敷かれていた。
沈み。
ない。
膝も、踵も、体重の落ちる音もない。
だが、審査長はそこに大きな沈黙を見た。足裏が床へ沈む代わりに、会場そのものが彼女の前で沈んでいる。ふだんは候補者が床へ重さを渡す。今は床が、彼女へ意味を渡している。
戻り。
評価不能。
迷い。
審査員側に大量に発生。
音。
靴音なし。
余韻。
ありすぎる。
副審査員が額の汗を拭いた。
「しかし、脚が」
そこまで言って、彼は黙った。
この国で「しかし、脚が」と言えば、たいていの議論は終わる。脚が太い。脚が細い。脚が長い。脚が短い。脚が硬い。脚が柔らかい。脚が強い。脚が弱い。脚がある。脚が――。
その最後の言葉にたどり着く前に、彼の舌は止まった。
なぜなら、ないものを理由に却下しようとした瞬間、彼女が会場の中心にいるという事実だけが強くなったからだ。
彼女は一言も話していない。
笑ってもいない。
誇ってもいない。
ただ、そこに座っていた。
それだけで、脚を評価するために集まった人間たちが、脚以外のものを見ざるを得なくなっていた。
これは不正だ、と誰かが言った。
小さな声だった。
不正。
審査長は、その言葉を採点表の余白に書きかけた。
だが、何が不正なのか分からなかった。
脚がないことか。
歩かないことか。
靴音を鳴らさないことか。
それとも、脚がないにもかかわらず、脚のための祭典の中心を奪っていることか。
彼女の車輪が、ほんの少しだけ動いた。
係員は押していなかった。
誰かが息を呑んだ。
彼女は右手を椅子の縁に置き、上体をわずかに傾けた。動作としては小さい。舞踏会なら見逃されるほどだ。だが、この会場では違った。すべての視線が、彼女の動きに引き寄せられた。
脚がない。
だから視線は逃げ場を失った。
通常なら、人は脚を見る。足首を追い、膝を追い、裾の揺れを追う。そこに評価の習慣がある。だが彼女には、その習慣の受け皿がなかった。結果として、視線は彼女自身に戻るしかなかった。
顔へ。
手へ。
背筋へ。
沈黙へ。
そして、存在へ。
審査長はようやく理解した。
脚は飾りではない。
この国では、本当に飾りではなかった。脚は制度であり、信仰であり、貨幣であり、恋文であり、国家的必然性だった。
だからこそ、脚がない彼女は、ただの欠落ではなかった。
脚という制度の中央に開いた穴だった。
しかもその穴は、崩壊ではなく、形を持っていた。
ヒロイン、という形を。
審査長は採点表を見た。
線。張り。運び。沈み。戻り。迷い。音。余韻。品。危うさ。支配力。国家的必然性。
どれも書けない。
どれも書ける。
彼は羽根ペンを握り直し、「支配力」の欄に丸をつけた。丸では足りない気がして、二重丸にした。二重丸でも足りない気がして、黒く塗り潰した。
副審査員がそれを見て、震えた。
「審査長」
「分かっている」
「規定が」
「分かっている」
「では」
「分かっていると言っている」
審査長は立ち上がった。
その瞬間、会場全体が椅子の軋む音を飲み込んだ。
「本審査会は」
老人の声はかすれていた。
「脚を評価するために存在する」
誰も頷かなかった。
頷けば、次に何かが壊れる気がしたからだ。
「そして、女は胸でも尻でもなく脚である」
台座の言葉のように、彼は言った。
「これは世界の真理である」
彼女は瞬きもしなかった。
「だが」
老人は採点表を掲げた。
そこには点数がなかった。
ただ、空白の欄と、黒く塗り潰された支配力だけがあった。
「本候補は、その真理の前提を満たさないまま、本会場を支配した」
ざわめきが起こりかけた。
彼女が左手を少し動かした。
ざわめきは止まった。
「よって」
審査長は言った。
「評価不能」
会場は凍った。
だが、それは敗北の言葉ではなかった。
この国で評価不能とは、存在しないという意味ではない。評価軸のほうが足りないという意味である。
審査長は採点表を机に置いた。
「来年までに、新しい欄を作る」
副審査員が青ざめた。
「何の欄を」
審査長は答えなかった。
答えられなかったのではない。
答えたら、それがまた制度になってしまうからだ。
彼女はそこで初めて、ほんの少しだけ笑った。
勝ち誇った笑みではなかった。
許した笑みでもなかった。
世界の真理が、椅子の上に座るひとりの女を前にして、少しだけ姿勢を正した。
それを見届けたように、係員が台車の取っ手に手をかけた。
車輪が黒檀の床を鳴らした。
靴音ではない。
それでも、会場の誰もがその音を聞いた。
彼女が去った後、床には足跡が残らなかった。
代わりに、審査表の空白だけが残った。
翌年、王立美脚審査会の採点項目は十三になった。
新しい欄の名は、まだ決まっていない。
よくわからない力強さがあるので、そのまま投稿します。




