80.魔女の足止め
「……あなたは追わないのね」
小鬼将討伐の際に受肉した【怨嗟の悪魔】は、執拗にアリスたちを追おうとしたように見えたが。
(まあ、当然と言えば当然……なのかしら?)
こいつらの狙いは、『授魂の儀』を終えた貴族種が死んだ後にその魂を喰らうことのはずだ。
……と言っても実際のところは、『魂贄の呪詛』とやらの全容も、妖魔たちの目的も、その背後にいるであろう本当の黒幕の思惑も、今はまだ何も分かっていない。
小鬼将討伐の直後から宮廷魔術師たちが調査を継続しているものの、現時点では詳細は不明のままだ。
ただ、古来より類似した呪術は少なくはない。
生きた人間の体を与えて【悪魔】を受肉させるのと同じように、人の魂を【悪魔】に喰わせることで【悪魔】の力を強めたりする邪法も、比較的良く聞く話だ。
この手の呪術には様々な種類があるが、より高位の【悪魔】を召喚するために、贄となる人間の魂に手を加えて何かしらの『資格』を与えてから対象に捧げるという話もある。
共通しているのは、『資格』を与える目的は、あくまで贄としての価値を高めることであり、例えその過程で何らかの変化があったとしても、それは副産物に過ぎないということ。
要するに、所詮は贄は贄でしかないということだ。
(『授魂の儀』で、妖魔の貴族種が何かしらの『資格』を得たのは間違いない。魂を捧げるに足る『資格』を)
反乱軍の残党〈漆黒の牙〉を裏で率いていたエクレウスも、結局のところ『魂贄の呪詛』なる呪術を正確に理解しているわけではなかった。
あの男は『授魂』で『資格』を得た小鬼将が【悪魔】を殺すことで、小鬼自身が【王】とやらに進化すると考えていた。
その認識に嘘がないことは、自白や読心の魔法を得意とする王宮の宮廷魔導士たちが念入りに確認済みだ。
エクレウスがそれを真実として信じていたことは疑う余地がない。
だが、実際には彼の言う、三百年以上前に存在したと言う【王】とやらも、妖魔の軍勢とやらも、宮廷中の如何なる歴史書にも記されていなかった。
独自の知識を大昔から——それこそ三百年以上前から先祖代々、脈々と蓄積してきたルシアの記憶の中にも、そのような記録は一切思い当たらない。
それほど大きな邪悪が実在したのであれば、自分なら知っているはずだ。
——いや、本当にそうだろうか。
エクレウスが何者かにそそのかされていたのは明白だが、肝心の黒幕については、彼自身からは『同志』という言葉以外は何も聞き出せなかった。
わずかに記憶を操作された形跡もあったが、最初からから重要な情報を与えられていなかった可能性が高い。
要するに、単なる捨て駒として利用されていたのだろう。
(……でも『魂贄の呪詛』は『授魂』によって『資格』を得た魂を捧げる対象が必要なはず。これもまず間違いない)
カペラの近くの遺跡、『授魂の祭壇』でルシアの魔眼が見た光景は一つではなかった。
新しいゴブリンたちの記憶にほとんどが上書きされていて古いものほど不鮮明だが、微かに小鬼以外の妖魔の姿も見えた。
もう一回、もしくはもう二回。
同じような儀式があの場所で行われていたはずだ。
穢れなき光の娘の子ら
穢れた血を分かつ子ら
その身血に染め
大いなる邪悪呼び覚まし
その魂すべて解き放たれしとき
ルシアはエクレウスが嬉々として語っていた『魂贄の呪詛』を思い出す。
(エクレウスは、『光の子ら』の娘、つまり『人間の娘』を殺して魔族を呼び出すと言っていた。実際にゴブリンたちも若い娘を連れ去り、悪魔召喚の依り代にしようとしていたのは間違いないはず……でも)
ゴブリンどもはアリス達の突入によって、依り代となるべき娘が奪い返されたことから、やむを得ず同族の身体に悪魔を受肉させたように見えた。
だが、このオークたちは、ゴブリンたちより前に『授魂の儀』を終えていた筈なのに何故、今まで人間の娘を攫うでもなく、ただこの暗い森の中で、息を殺して潜んでいたのか。
(それに『光の子らの娘』ではなく、『光の娘の子ら』……?それって……)
『光に祝福されし子ら』は単に『光の子ら』とも言われる。
人間やドワーフ、ブラウニーやレプラコーン、それからエルフといった知恵ある種族の中で闇に属さない者たちを総じて指す言葉だ。
しかし『光の娘』とは……?
(まさか『魂贄の呪詛』を作った呪術師たちは、『始まりの七人』のことを知っていた?……『光の娘の子ら』とは、七人の『光の母』たちの子孫——つまり『星の民』のことを指している?)
『星の民』の中でもごく一部の人間にしか知らされていない、彼らの起源に纏わる最重要機密。
機密の徹底した管理と限られた者への伝承を担う『守り手』たちと、来る時に備えて人里から離れ、敢えて過酷な『闇の大地』に身を潜めてきた女たちによって、遥か昔から厳重に守られてきた秘め事。
それを三百年前の呪術師たちは知っていたのだろうか。
だとすれば、何かしらの因縁があったのかもしれない。
穢れなき光の娘の子ら
穢れた血を分かつ子ら
その身血に染め
大いなる邪悪呼び覚まし
(だとしても『穢れた血を分かつ子ら』って?そもそも前の一節と相反することを言ってるみたい……それに『血に染め』……って、誰の血かしら?)
——『光の娘の子ら』の血とは限らないのではないか。
(……魂を捧げる相手は、本当にこいつ……?)
眼前の【悪魔】は、まだ沈黙を守っている。
長い髪の一本一本が蛇のようにゆらゆらと蠢く。
【嗚咽の悪魔】は、紛うことなき上位悪魔の一柱だ。
【怨嗟】【慟哭】と並んで、【三大悪魔】と称され、少なくとも悪魔種の中では、人類が召喚できる最高位の魔族と位置付けられている。
普通なら、強力な魔力を持つ一握りの呪術師が、何人もの人間の命を対価にやっと召喚できる、正真正銘の化け物だ。
その絶大な力は、最強の妖魔として知られるトロール五体分とも十体分とも言われる。
人間界で三大悪魔をさらに上位の魔族に昇華させようとするならば、このぐらい大掛かりな儀式は必要かもしれない。
かもしれないが。
——何か、引っ掛かるものがある。
「……分からないことばかりね」
目の前の悪魔は、まだ動かない。
——なぜ、動かない?
——何を待っている?
ルシアは、ふと広間の奥の階段に視線を移し、そちらに向かっておもむろに一歩踏み出す。
『うううううううううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅううううう——っ!!』
それまで微動だにしなかった【嗚咽の悪魔】が凄まじい呻き声を上げ、ルシアの前に立ちはだかる。
鋭利な数万の髪がうねうねと蛇のように蠢く。
その切っ先の全てがルシアを向いている。
(私を、行かせたくないのね……?)
ゴブリンの時も、ここオークの根城にしても、上位悪魔が討伐隊の前に立ちはだかった。
妖魔の貴族種と比してなお、はるかに危険度の高い三大悪魔だ。
貴族種より優先して自分が相手をすることは当然の成り行きだったが……
——こいつは何かを待ってるんじゃない。私を足止めしたいんだ。
まさか、人類が召喚できる最上位の悪魔が、ただの足止めのためだけに使われていたとは。
——でも、なぜ?なんのために?
分からない。分からないが、とりあえず——
「——両方私が斃せばいいだけのことね。悪いけど、時間がなくなったの。貴方には一瞬で消えてもらうわ」
『うううううううううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅううううう——っ!!』
【嗚咽の悪魔】の呻き声には、微かな怯えの響きが混ざっていた。




