4.亜麻色の髪の兄と妹
「——アリス、アリス。あなたは私を恨むかしら。もっと男の子らしい名前が良かったかしら。だとしたら、ごめんね」
若い女の声が聞こえる。
透き通るように澄んでいて、温かい声だ。
何故か、無性に泣きたくなるくらい、遠く、遠く懐かしい響き。
——またこの夢か。
「——でもね、アリス。勝手だけど私は素敵な名前だと思っているの」
顔は、見えない。
その後ろの光が眩しすぎるからだ。
——見えたことはない。いつもと同じだ。
「それに、この素敵な名前と、この綺麗な髪が、あなたを悪いものから守ってくれるのよ。——そういう『おまじない』なの」
そっと差し伸べられた手が、髪を優しく撫でた。
その細くしなやかな指の温もりは知っている。知っていた筈だ。
それはずっと前に失われた温もり。
——その温もりさえも、目が覚めたら忘れている。
「アリス。星降る夜に産まれた私たちの愛しい子。私はあなたを、あなたたちを愛しているわ——心から愛してる」
穏やかな声が、少しだけ陰りを見せた。
「——ああ、神様。名もなき女神様。私が死んだ後も、どうかアリスとセラフィナに、人としてのささやかな幸せを……」
声が、光が、遠ざかっていく。
——行ってしまう。
彼は無駄だと分かっていて、手を伸ばした。
——どうせ届くことはない。これは夢なのだから。
それでも彼は正体も分からぬままこみ上げる切なさに背を押されるようにその光りに声を掛——。
「待っ——!」
「いつまで寝てるのお兄ちゃん!」
「ぐへえっ!?」
唐突に胸と腹に鈍い衝撃。
無意識に自分の口からおかしな声が漏れた。
奥には白い天井が見える——のだが、彼の視界のほとんどを亜麻色の髪の少女の顔が占領していた。
「朝だよ、お兄ちゃん。早く起きてよ」
「……フィナ」
アリスは面倒くさそうにその名を口にした。
彼とよく似た顔をした少女が、羽毛布団の上からアリスの腹の上に座っている。
妹のセラフィナだ。
アリスの一つ下の十五歳。
「勝手におれの部屋に入ってくんなって、いつも言ってるだろ……」
「一応ノックしたよ。でもお兄ちゃん、返事しないんだもん」
「だからって入っていい理由になんないだろ……」
「もしかしたら死んでるかもしれないじゃん?生存確認だよ」
妹は相変わらず彼の腹の上に乗ったまま、全く悪びれた様子なくしれっと答える。
「そんな簡単に死なないから……てか、生存確認対象の上に乗るか、普通」
「生きてるのは確認できたら、とりあえず起こすために乗っかったんだよ」
「いや、乗らなくても起こせるだろ……お前ももう十五の成人だろ、はしたないぞ。大人の女としての自覚を……」
「うっわ、お兄ちゃんそれ、男女差別だよ?この国にあるまじき旧時代思想」
「……」
——いや、男女差別っていうか。
もし逆の展開だったら、男側はもっと致命的な非難を受けるだろうけど、それって差別とは違うような。
「まあいいや……とりあえずさ」
いろいろ思うことはあったが、アリスはそのまま言葉にするのはやめた。
そもそも、妹に屁理屈で勝ったことなど、未だかつて一度もない。
「ん?なに」
「そろそろどいてくれない?重いんですけど」
「はぁ!?私のどこが重いのよ。こんなスレンダーな女の子まずいないのに……やっぱホントお兄ちゃんってデリカシーないよね!」
「いやそう言う問題じゃなくて人間が腹の上乗ってたら重いでしょ。まあ他の女性と比較したらフィナは軽いだろうけどさ」
「私が幼児体形って言いたいわけ!?」
「……言ってないだろ、そんなこと……とにかく、頼むからそろそろどいて。ちゃんと起きるから」
「もう、しょうがないなあ。ちゃんと目覚めた?」
やれやれ、と言った風に肩を竦めて、セラフィナはベッドから降りた。
——どっちがやれやれだよ。
とアリスは思ったものの、
「……さすがにもう二度寝する気にならないよ」
とだけにしておいた。
「じゃあ、早く着替えて降りてきてね。ご飯できてるし、下でグレンディーノたちが待ってるよ」
「おれまだ出頭時刻まで時間あるんだけど」
アリスが少し不満げに呟くと、
「何言ってるの。二人そろって屋敷にいる日は、一緒に朝ごはん食べるってルールでしょ!」
セラフィナは兄と同じその藍玉の瞳でアリスを睨んだ。
「わ、分かってる。ごめん」
聞こえない様に呟いたつもりが非難がましい目で睨まれて、アリスは慌てて謝った。
そうだ。アリスは家を空けることが多い。
だからこそ家長たるアリスが屋敷に戻った日は、家族みんなで朝食を取る。
それがこの家のほぼ唯一のルールと言っても良い。
ちなみに、『家族』といってもアリスの血を分けた家族は今はもうセラフィナのみ。
だからこの家では、使用人たちも一緒に食卓に着くのが習わしだ。
「それに今日は式典の会場警備の後、お兄ちゃんは晴れ舞台でしょ。グレンディーノたちが豪華な朝ごはん作って下で待ってるよ」
「うぅ……思い出したら憂鬱になってきた……」
アリスがベッドから半身を起こしたまま胃のあたりを擦る仕草をすると、
「相変わらずお兄ちゃんは戦闘以外はポンコツだなぁ」
セラフィナは呆れた顔でまた肩を竦めた。
それからアリスの部屋の扉に向かって歩き始めたところで、ふと足を止めて振り返り、ふふん、と笑った。
「でもなんかちょっと、起きた時より顔色良くなったね。やっぱり可愛い妹のモーニングコールは効果てきめんでしょ?」
「はあ?なに言ってんの……てか、あれはモーニングコールって言うよりモーニングバイオレンスだからな」
アリスは扉の前の妹をジト目で睨むが、セラフィナは「はいはい」と適当に流し、そして踵を返して扉のドアノブに手を掛けた。
「あ、でも一応、ちゃんと顔洗ってから降りて来なよー」
そして廊下の向こうの階段を下りていく。
「なんだったんだよ」
ひとり部屋に残ったアリスはそう呟き、ベッド脇のサイドテーブルの上の髪紐を摘まむ。
その髪紐は群青の下地に、キラキラと控えめに瞬く砂のように小さな粒が無数に散りばめられていた。
さながら、夜空に煌めく星屑のようだ。
うざったそうに亜麻色の髪をかき上げると、右手で毛束を掴み、左手で髪紐を結わく。
と、左手の甲が頬に触れ、冷たい感触が伝わった。
「?」
何気なく、部屋の隅にある大きな鏡に視線を向ける。
その時初めて、アリスは自分の頬が濡れていることに気づいた。
「涙……?」
すでにどんな夢だったかも思い出せない。
でも、そう言えば同じようなことがこの前もあったような気がしていた。
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