8.魔物退治より疲れる
「——はい、お疲れさま」
皇女たちのもとから離れると、ルシアは給仕の若い男から水の入ったグラスを二つ受け取り、一つをアリスに渡した。
「ありがとうございます……」
ルシアからグラスを受け取り、アリスは少しだけ緊張の糸がほどけたようにため息をついた。
「……ルシア隊長の言う通りですね。やっぱり帝国時代は属国ですらなかった新興国が、軍事力も経済力も追い抜いちゃったのが面白くないんですかね」
小声で訊くアリスに、
「ばか。滅多なこと言わないの。どれだけ声を潜めたって、誰が効いてるか分からないわよ。……それに、私たちを良く思っていないのは、何も国外だけではないんだから」
ルシアはそう言うと、その小さな顔を振って視線の先を示す。
そこには、ワイングラスを片手にアリスも良く知るナディアの貴族と歓談するひとりの男の姿があった。
——いや、『歓談』とは言い難いか。
酒に酔ったナディアの貴族がやたらと楽しそうに話しているが、相手の貴族はあからさまに迷惑そうな表情をしている。
切れ長で鋭い目。
五十絡みだが、やや疲れた印象もあるものの整った上品な顔立ちで、体形もすらっとしている。
白髪交じりの緑がかった黒髪はオールバック。
王族の手前、身なりは控えめではあるが、身に纏っているタキシードはファッションに疎いアリスが遠目に見てもなお、超一級品だと見当がつくほど艶やかで上品な光沢を放っていた。
「ええと……どなたですか」
「あなたね……あの方はブラッドフォード伯爵——カリプソの領主よ」
ルシアが呆れたような表情で応える。
「あの人が……!『星の民』と『大地の民』が嫌いで有名な」
「だから、言い方」
ルシアはアリスを軽く小突く真似をする。
アリスは割と真剣に慌てて、口を手で塞いだ。
ナディアは大陸の最西南端に位置するが、さらにその西、大海に浮かぶ二つの島がある。
大きいほうが『セイレニア』。
そしてもう一つ、小さいほうの島が『カリプソ』だ。
どちらも、島民のほとんどが『海の民』である。
「あなたより少し年下の、すごく可愛らしいご息女がいらっしゃるって話よ。滅多にお屋敷から出ないから『深窓の令嬢』って言われてるんだって。聞いたことない?」
「いえ、まったく」
「興味なさそうね。男の子なのに」
「あまり……御父上が『星の民』嫌いな上に、ご本人もお屋敷に籠っていらっしゃるなら、今後もお会いすることもないでしょうしね」
「子どものクセに、アリスって変なとこ冷めてるわよね」
「子どもじゃありません、もう十六ですよ。とっくに成人してますから」
「ふふ、私にとってはまだ子どもよ。……それに、そうやってムキになっているところもね」
大人びた微笑みを浮かべる元直属上司を、アリスは不貞腐れた顔で上目遣いに睨んだ。
悪戯っぽく笑ってその細い肩を竦めて見せてから、ルシアは話題を変える。
「まあ、知らないのも無理もないわね。そもそもあなたは貴族のイベントは、大抵名代を立ててすっぽかしてばかりだものね」
そしてその紫水晶の瞳にからかうような色を帯びて、微かに笑う。
「う、すみません。社交の場はどうも苦手で……。私なんかよりグレンディーノのほうがはるかに向いていると言うか」
極まりが悪そうに、アリスは目を逸らす。
それを見たルシアはクスッと笑って、
「まあ、本当は私も同じよ。任務を口実にほとんど顔を出していないわ。だからあなたの優秀な執事さんにも、まだお会いしたことはないしね。……それに伯爵は、特にね」
「カリプソのブラッドフォード伯爵と言えば、島から出るのを極端に嫌って、大陸どころかセイレニア本土にさえ滅多にお顔を見せない、と言う話ですよね」
「そう。でも、さすがに隣国との記念式典に伯爵が欠席という訳にはいかないでしょうしね」
「ベルトラン隊長とオルフェ隊長も来ているくらいですしね」
「そうね。今日はギルバートさんが直々にあの二人を引きずってきたみたいよ」
それはつまり、副団長が直接迎えに行かなかったら、あのふたりは今日もサボるつもりだったのだろうか……。
アリスは呆れると言うより、その神経の太さに慄いていた。
そしてふと思い至り、
「もしかして、伯爵もセイレニアのレンブラント侯爵に、連れてこられたんですかね」
「そうかもしれないわね。いずれにせよ、内心は不本意だと思うわ。……だから、くれぐれも粗相のないようにね」
「わ、わかりました、じゃあできるだけおそばに行かないように……」
「レンブラント侯爵にご挨拶は必要だからね。その時にブラッドフォード伯爵もそばにいらっしゃったら、挨拶はしなきゃ」
「う、はい。……さっきみたいに睨まれますかね……」
アリスは不安げに頷いた。
その顔を見てルシアはまたクスッと笑うと、何か言おうと口を開いたが、
「おーい、ルシアー!」
そのルシアを呼ぶ声がする。
この声の主は、団長のクロードだ。
「こちらの御仁が【黄昏の魔女】と話がしたいそうだ。ちょっと来てくれ」
ルシアはちらっと紫水晶の瞳でアリスに目線を送ると、小さくため息をついて、「じゃ、私は行くね」と団長のもとへ歩いていく。
アリスは元上司の、一人で高位魔族を瞬殺できるとはとても思えないような、あまりに華奢なその背中を見送った。
(……疲れた)
大きなガラスの窓の外に目を向け、内心呟くアリスだったが、
「おお、いたいた!最年少隊長!そんな隅っこで何してるんだい。こっちこっち」
彼にも別の場所から別の声がかかる。
明らかに酔いが回っていると思われる顔見知りの中年貴族が、赤い顔に満面の笑みを浮かべてこちらを見ていた。
同じく顔を赤くしたローエンデールの貴族とともに、アリスを手招きしている。
「あ……これはこれは、どうも。大変ご無沙汰してますー……」
手にしたグラスの中身を飲み干すと、赤ワインの入ったグラスと交換し、アリスは愛想笑いを貼り付けながら彼らのもとへ向かった。




