千年あなたを想う 中編
シエナが一方的に男との邂逅を果たしてから、シエナの生活は特に変わりも無く続いて行った。
シエナの前世の、下級貴族との関わりもあった工房勤めの経験と知識は、城の侍女達への対応の際に大いに役立っていた。
しかしシエナは、領主の城の中では日々を回す小さな歯車でしかなく、領主一族に認識される事などない。シエナも男の事を思い出す事も少なくなり、忙しい毎日の中で気が付けば2年の月日が流れていた。
このまま辺境での日々が続いて行くのだろうと思っていたのだが、国境を挟んで隣り合う隣国の王が代替わりしてから少しずつ、隣国との関係は悪くなっていった。
様子を窺うように小競り合いしか起こらなかった隣国との関係だったが、マール辺境泊の領地内の村が突如隣国の軍に襲われた。一時村を占拠されたが、マール軍は隣国の軍を押し戻して村を取り戻した。しかし村民には死者が出てしまった。
いくら小競り合いが起こってもせいぜいケガ人が出る位だったこれまでとは、一線を越えてしまった。
隣国から宣戦布告を受けたシエナの国は、とうとう戦争へ突入した。マール辺境伯領は戦争の最前線の地となってしまった。
女であり一平民のシエナが出来る事など当然何もない。
マール辺境伯家は当主も息子達も勇猛果敢に戦場に立ち、領地に侵入してくる隣国の軍隊と何度も矛を交えた。
しかし、隣国は大国だった。
国の力も、軍の強さも隣国が上だった。
隣国は長い間、小競り合い程度でシエナの国への干渉を留めていたというのに、隣国の新しい王は、とうとうシエナの国を飲み込んでしまおうと決めてしまったのだ。
マール辺境伯家は勇敢だった。
だが、個の武では戦況の不利をひっくり返す事など出来なかった。
最初に辺境伯家の長男が戦地で倒れた。そして後を追うように、続けざまにマール辺境伯までも戦場で帰らぬ者となってしまった。
それからは、マール辺境伯軍が崩れるのは早かった。
いくら次男が個の勇を振るおうが局地的な物であり、辺境で隣国の軍を押さえきる事が出来ず、マール辺境伯領は隣国の軍隊に蹂躙され、シエナの国、ロベリア王国は瞬く間に都を落とされてしまった。最初に辺境伯領の村に攻め込まれてから僅か2カ月の出来事だった。
シエナの国は隣国の占領地となった。
マール辺境伯の城は隣国の軍隊に占領され、そのまま隣国の軍隊の拠点となった。城で働く者達は、そのまま隣国の軍隊に使われる事となった。
使用人達は家族の安否も分からぬまま、占領軍の不興を買わないように神経を尖らせながら、綱渡りのような先の見えない日々を送っていた。
占領軍の軍人達の命令は絶対だった。
一応は統率の取れている軍隊ではあったが、敗戦国の民の扱いはそれなりに理不尽を受ける事もあった。見目の良い同僚の数人は、軍人達の部屋に連れ込まれる事もあった。シエナ達は軍人達の目に留まらぬようにと、尚更息を殺し、気配を消して過ごしていた。
そのような緊張を強いられる生活となって2週間が過ぎていた。
ある日、同僚とリネン庫の整理をしていたシエナは、残りの作業を引き受けて1人リネン庫に残る事にした。先に休憩に入ろうとリネン庫の外に出た同僚が悲鳴を上げたのは、リネン庫の外に出てすぐの事だった。
同僚の叫びにシエナが慌ててリネン庫の外に飛び出すと、同僚が年若い軍人に手首を掴まれていた。シエナはギクリと体を固くした。
軍人は2人居り、シエナと同僚を見比べている。軍人からはほのかに酒精が漂っていた。
「・・・、2人連れていくか?」
同僚の手首を掴んでいる軍人がニヤリと笑った。ザっとシエナの血の気が下がる。
逃げる事も出来ずにシエナと同僚が軍人達の前で立ち竦んでいると、更にもう一人の軍人がやって来て男達に言った。
「地下牢の清掃を誰かに頼みたいんだが、使用人は余っていないか」
ほろ酔いの軍人2人が同僚とシエナを見比べた。
そしてシエナが新たに現れた軍人の前に押し出された。
シエナと同僚は問答無用でそれぞれに引き立てられていった。
シエナは城の地下牢へと連れられて行く。ハウスメイドだったシエナはもちろん初めて足を踏み入れる場所だ。辺境伯領だった頃は主に罪人が入れられていた場所だ。
この非常事態の最中、地下牢に入れられているのは誰なのかと、早鐘のようになる胸を押さえながら、シエナが軍人に引きずられて行けば、果たしてそこにはシエナが想像していた人物が繋がれていたのだった。
マール辺境伯次男のレイモンド・マールは、両手を鎖に吊るされ冷たい石床に座り込んでいた。左足にも鎖が繋がれ、その先には鉄球が取り付けられている。
「掃除をしろ。2時間したら迎えに来る」
軍人はレイモンドがいる地下牢に水のバケツの他に雑巾や箒などを入れ、更にシエナを牢内に押し込んで鍵をガチャリと閉めた。
そして軍人は何も言わずに出て行った。
地下牢にはシエナとレイモンドだけが残された。
レイモンドは酷い有様だった。
身に付けているのは肌着のみで、その肌着も地に汚れ、破れて辛うじて体に巻き付いている。晒された肌には傷がない場所が無い程だった。切り傷、青あざの他に火傷のような跡もある。均整の取れた鍛え抜かれた肉体は、別人のように窶れやせ細り、生きているのが不思議な程だった。
もうすでに王都は陥落しており、敗戦は覆しようもない。そのような状況でレイモンドが受ける拷問は、戦地に残る兵士達の憂さ晴らし以外に何の意味を持つのか。シエナは憤りを覚えて、グッと奥歯を噛み締めた。
レイモンドは一度だけシエナを見たが、無言のまま目を閉じた。
シエナの方も、このような状況でレイモンドに掛ける言葉は浮かばない。
せめて居心地よく過ごせてもらえたらと、シエナは黙々と牢内の掃除を始めた。牢内の床は、食べ物が零された跡や、何やら分からない汚れで酷く汚れている。牢内には一応排泄物を入れるための壺も置かれているが、レイモンドがここに繋がれてから清められてはいないようだし、レイモンドも自由に排泄が許される状況でもなかったのだろう。
シエナは床の汚物を集め、牢の隅にある下水に続く穴へと捨てる。ゴミを掃き集めて処理すると、バケツと雑巾をもってレイモンドの身体を出来るだけ清めようと努力した。
雑巾はもちろん清潔なものではなく、レイモンドの傷に触れさせるわけにはいけない。それでも汚物に塗れているより、雑巾で拭き清めた方がマシだろうというレイモンドの悲惨な状況だった。
汚物を除去し、汚れを取り去るべく、シエナは手持ちの道具でレイモンドの下肢を清めていく。
「・・・済まない」
一度だけ小さく、レイモンドがシエナに謝った。
「いいえ」
シエナはなるべく感情を声に乗せないように努めた。シエナが怒ろうが嘆こうが、シエナにはレイモンドを助け出す力は無いのだ。
すぐにバケツの水は真っ黒に濁り、これ以上の掃除は無理だった。
シエナが牢内を見渡せば、鉄格子のすぐそばに、木のカップに入れられた水と固い黒パンが床に置かれていた。黒パンは皿にすら乗せられていなかった。しかしシエナはそれを持ってレイモンドの側に寄った。
幸い水は飲めるものだった。シエナは水のカップをレイモンドの口元に運び、少しずつ飲ませた。それから黒パンの表面を削り、内側をむしって一つまみをレイモンドの口元に近づけた。レイモンドが口を薄く開けてくれたので、シエナはパンをレイモンドの口にそっと押し込んだ。パンをちぎってはレイモンドの口に入れ、様子を見ながらコップの水も飲ませる。この作業をしばらく続け、コップの水は空になり、パンは固い外側のみ残して全てレイモンドの口の中にいれる事が出来た。干からびたパンの残骸はスカートのポケットに突っ込み、水のカップは鉄格子の近くに戻し、シエナはレイモンドから離れた。
しばらくすると、シエナを牢に連れて来た軍人がやって来た。
軍人は牢内を見回し、鉄格子の傍に置かれた空の木のカップを眺めた。シエナもその間、一言も発することなく黙っていた。しかし軍人は、掃除以外の事をしたシエナを咎めるでもなくシエナを連れて牢屋を後にした。
それから何故かシエナは牢屋の清掃係となった。週に2回程、最初に牢屋にシエナを連れて行った軍人がシエナの元にやって来て、シエナを牢屋まで連れて行く。
軍人から掃除道具のみを手渡されるシエナは、時間が余ればこっそりと持ち込んだ清潔な布でレイモンドの身体を清め、お仕着せのベルトの内側に差し込んだ干し肉を一欠けら、去る間際にレイモンドの口に含ませた。
シエナとレイモンドの間には言葉は無いが、レイモンドはシエナの世話を静かに受け入れていた。
シエナが定期的に地下牢に通う間にレイモンドへの拷問は止められたようで、レイモンドの左手の鎖も外され、粗末ではあるが生成りの衣服も与えられ、一人で食事も取れるように多少の待遇の改善はあった。
しかし辺境伯家の人間であるレイモンドには酷な環境に変わりは無いだろう。相変わらず地下牢に繋がれ、食事は一日に一度の黒パンと水のみ。しかも、シエナがレイモンドを訪ねるとパンと水は常に手付かずで床に置かれている。
粗末な衣服が与えられているが下着も無く、素肌の上にそれ一枚きりである。当然風呂など入れる訳もなく、シエナが小さな手巾で僅かばかりに皮膚を拭うだけだ。
だがレイモンドは、シエナの前で一切の感情の揺れも見せず大人しく牢に繋がれたままでいる。
牢に繋がれているという事は、隣国にとってレイモンドは罪人という扱いなのだろう。シエナの国が敗戦国となり、もうかれこれ一月も過ぎるのだが、元マール辺境領は依然隣国に占領されたままで動きはない。
レイモンドにどのような処分が下されるのか、シエナは気が気では無かった。この地下牢の日々が早く終わって欲しいが、この地下牢から出された時、レイモンドの身柄は一体どうなるのか。
城の使用人のお仕着せを着たシエナに今の姿を見られるのも恥辱だろうが、シエナが世話を焼くのをレイモンドは黙って受け入れてくれる。
この先のレイモンドの処遇の見通しも立たず、どうかレイモンドの将来に一筋の光でも差し込んでくれないかとシエナは祈る事しかできない。
シエナとレイモンドの間には言葉は無いままだ。
シエナを愛してくれた男とレイモンドは違う。
今世で出会ったレイモンドは、シエナを愛することは無く、優しい言葉をかける事も慈しんでくれることも無い。
だがレイモンドの傍に居れば、どうしようもなく過去にシエナを愛してくれた男の魂なのだと感じるのだ。
シエナがレイモンドの世話をしに地下牢に通うようになって2か月後、レイモンドの処遇が決まった。
その日シエナは、いつもレイモンドの世話を言い渡す軍人に連れられて一緒に地下牢に赴いた。そこで軍人は淡々とレイモンドに今後の予定を告げた。
レイモンドは隣国へ連行され、戦争犯罪人として処刑される事が決まった。
シエナの心臓は氷を飲み込んだようにシンと冷えた。
レイモンドは俯き、無言で軍人の言葉を聞いていた。
しかし軍人の次の言葉にレイモンドは弾かれたように顔を上げた。
「女、罪人の世話役としてお前も連れていく」
思いがけない話にシエナも息を呑む。
「世話役など必要ない。罪人など鎖につないで連行すればいいだけだろう」
「お前を鎖に繋ぐまでに何人の兵が命を落としたと思う。お前なら武器が無くとも近づく兵を殺せるだろう。それに、お前はこの女からなら食べ物を口にする。我々の仕事は生きたままお前を王都へ連行する事だ。お前が王都に着く前に死ねばこの女を殺す。女の命が惜しければ、生きたまま我らが王都に行き、犯罪人として処刑されろ」
レイモンドはギリと歯ぎしりしながら軍人を睨みつけている。
シエナはレイモンドの人質とされてしまった。
軍人はシエナを牢内に残したまま、牢に鍵を掛けた。
そしてこの時からシエナもレイモンドと共に囚われの身となった。
シエナが世話に通うようになってからも、レイモンドの身体はげっそりとやせ細ったままだった。シエナが牢に赴けば、手つかずの食事が常に脇に追いやられていた。
レイモンドはシエナから与えられる食事のみ取ると、軍人が言っていた。
ある事に思い至ったシエナは震えながらレイモンドの前に跪いた。
「・・・レイモンド様」
2人きり、牢に残されたシエナとレイモンドは静かに向き合った。
「レイモンド様は、し、死にたかったのでしょうか」
シエナの問いに、レイモンドは小さく口元に笑みを浮かべた。
レイモンドは捕らえられてから、そもそも生き長らえる気は無かったのだ。
「ああ・・・!」
シエナは顔を覆った。
レイモンドの為にと出来得る限りで環境を整え、少しでも体力が回復すればと少しずつ食料を持ち込んではレイモンドに与えた。そして延命したレイモンドは罪人として隣国に連行され、騎士の誇りも奪われ処刑される事になってしまった。
「お許しください。レイモンド様、私は何と言う事を!」
「・・・いいのだ」
泣き崩れるシエナの前で、レイモンドは穏やかですらあった。
「お前からの世話を、私は自ら受け入れたのだ。だが、その所為でお前を巻き込んでしまった。すまない」
「いいえ、謝らないで下さい。私の命など良いのです。レイモンド様の思うようにされて下さい。今ならまだ間に合うでしょう。お望みとあらば、お手伝いいたします」
誇り高い騎士として死ぬ事を望むのならば。
シエナは個人の掃除道具を牢内へ持ち込む事を許されるようになっていた。掃除道具の中には
金属ヘラや、細部のゴミを取り除くための針金などがある。
「こ、この道具で、心の臓を一突きすれば・・・」
シエナは小さな金属ヘラを震える手でレイモンドに見せた。
シエナを見たレイモンドは、思わずと言ったようにフッと笑いを零した。
「・・・本当に、良いのだ。私は死ぬ機会を自ら逃した。これは自分で招いた結果で、決してお前のせいではない。こうなっては、私がここで死ぬ事になんの意義もない。せめてお前の命を守るため、私は最後まで生き抜こう」
「申し訳ありません!申し訳、ありません・・・っ!」
泣き続けるシエナを前に、レイモンドはもう泣くなと、一言だけ言うと目を閉じた。
シエナは泣いて泣いて、ひとしきり泣いてからゆっくりと顔を上げた。
シエナが泣いた所で事態は元には戻らない。
シエナが目を真っ赤に腫らしてやっと泣き止めば、立膝を付いてシエナを見ていたらしいレイモンドと目が合った。レイモンドはシエナを見て目を細め、静かに語った。
「家族も居なくなり、私は一人で死ぬのだと思っていた。だが、最後にお前が傍に居てくれるなら、私の生も悪くなかったと思えるな。だが、この有様だ。私はお前にハンカチも貸してやれぬ。だからもう、泣くな」
泣くなと言われれば、シエナの目からは壊れた水路の様に涙が溢れて止まらなくなる。
このような事になってなお、レイモンドはシエナを案じてくれるのだ。
自分の死を受け入れたレイモンドは、凪いだ湖面の様にどこまでも穏やかだった。




