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 「遅れてしまい申し訳ありませぬ」


 ひいらぎは伏して皇后と皇太子に謝罪した。しかし濃紫(こむらさき)はまるで興味がないというように「もうよい下がれ」と言っただけだった。八束やつかはただ自身の腕に留まる八咫烏の濡れたような羽を撫でるだけで、何も言わなかった。


 柊が身につけていたのは、いつも身につけている樹皮であったり、木綿の衣ではなかった。きっと撫子なでしこが贈った絹を衣に仕立てたのだろう。しかし、撫子が贈ったものとは色が違うように見えた。


 七夕の宴が始まる。酒が供され、楽人の琴や琵琶の音色が響く中、中央の舞台には扇と薄絹をひらりひらりとはためかせ舞う踊り子たちが宴に花を添えた。

 

 「浜木綿はまゆうよ。そなた、舞が得意であったな? ぜひ披露してもらいたいものだ」


 宴も中盤に入った頃。酒が回ったのか皇后がそんなことを言い始めた。急に話を振られた浜木綿は動揺するそぶりも見せず、「お許しいただけますなら、今この場で披露いたしましょう」と答えたのだった。


 背筋を伸ばした浜木綿は凛とした美しさがあった。宴の警護に当たっていた娘子軍の腰から刀を引き抜くと、浜木綿は舞台に上がった。月光に煌めく刃が浜木綿自身を思わせた。

 刀を抜いた浜木綿に女房や他家の姫たちは小さく悲鳴をあげたが、早蕨さわらびをはじめとする水無月宮の女房たちは誰一人動じなかった。


 刀は浜木綿の手足と一体になったかのようにしなやかに動いた。背面に月を背負い、刃を月光で光らせながら舞う浜木綿の姿は戦場の女神のようだった。

 体の中心に鉄の棒でも突き刺さっているのかと思うほど軸はずれず、回転しては刀を振り翳す。荒々しいはずなのに神々しさすら感じさせるその動きは若々しさに満ちて眩しかった。


 会場の全てが浜木綿の動きに注目した。完全にこの宴は浜木綿に掌握されたかのように思われた。撫子はちらりと八束を伺い見る。紗の御簾で表情が見えないが、彼も浜木綿に見惚れているのかと思うと、胸の引っ掻き傷がじくじくと膿んで痛むかのようだった。


 浜木綿がぴたりと動きを止めたことで、そこが剣舞の終わりなのだと気づくと張り詰めていた空気が緩んだ。濃紫は孔雀の扇子を仰ぎながら満足そうに笑った。


 巳家の浜木綿だけに花を持たせるようなことは当然、他家から不満が噴出する。そのため、濃紫は他の十一の家の姫たちにも何か一芸を披露する機会を与えると言った。


 これに困ったのは撫子だけではなかった。そんな準備はしておらず、女房たちが慌てたように宮から何か取り寄せたりと忙しなく動き始めた。


 「ど…どうしましょう、春風はるかぜ。私、皇太子殿下の前で披露できるようなものは何もないわ!」


撫子は御簾で隠れてたのをいいことに春風に泣きついた。春風は優しく撫子の頭を撫でる。


 「姫様は琴が得意ではありませんか。今、卯月宮から姫様の琴を持って来させております」


 春風は安心させるように、撫子の頭を撫で続けた。


 子家のささめは琵琶を披露し、丑家の茶梅さざんかは自身の美声をもって歌を披露した。寅家の胡蝶は蝶のようにひらひらと華やかな舞を披露したが、浜木綿の剣舞には敵わず、その前に宮廷の踊り子たちが舞っていたのもあって印象が薄かった。


 そして撫子の番が回ってきてしまった。急遽、卯月宮から運ばれてきた撫子愛用の琴の前に撫子は座す。調弦を手早く済ませて、弦の張り具合なんかを神経質に確認した。


 びぃぃん、と最初の弦の弾かれる音が響く。自分に幾多もの視線が集まっていることに撫子は気づいた。

 最初は静かに緩やかに曲が始まる。ゆったりと素朴な曲は何処か懐かしさを感じさせた。しかし急に曲が転調した。先程の緩やかで茶摘み歌のような長閑さを感じさせる気配は一切消え失せた。


 早いながらも緩やかさを失わず、小鹿が駆けていくような軽やかさが見事に表現されていた。七夕の夜の風が大戯楼を吹き抜ける。その風に琴の音色が乗って会場全体を包み込んだ。

 撫子の琴の音が宴を支配していた。母親の胎内に回帰するような、揺籠に揺られるようなそんな心地がする。素早く動かされる撫子の指は外から見ればもう目は追いつけなかった。


 しかし音が寸分も狂うことなく、しかし焦りを感じさせることもなく、軽やかで流水のような旋律に周りから驚いたように騒めく音がする。しかし、周りの有象無象など撫子の視界からは消え失せて、ただ八束だけが目に映った。


 紗の御簾に阻まれ、八束の顔は窺い知れない。しかし、その視線が自身に注がれていると思えば、撫子は天にも昇る気持ちだった。


 撫子のしなやかな白い指が弦を弾くと、そこから湧き水が溢れ出すような、蕾がぱっと花を咲かせるような気さえした。

 

 緩やかに、そして波が引いていくように撫子の演奏は終わった。誰もが撫子に釘付けになり、拍手も忘れて撫子を眺めている。自慢げな春風の顔がくっきりと映った。


 その時だった。カァ、と一声神鳥が鳴いたのだ。それにより人々は感覚を取り戻し、そして神鳥が鳴いたことにより騒めきが大きくなった。


 「神鳥様が、鳴いた!?」


 「卯家の姫君の演奏を聞いて鳴かれたのか」


 「これは吉兆であろうか」


 人々が口々にそう言い合う。撫子は何故、神鳥が鳴いたのか分からなかったし、その議論の渦中に自分が放り込まれたことに血の気が引いて行った。


 「静まられよ」


 その時、八束が口を開いた。若々しい青年の声だった。浜木綿と同じく大声ではないのによく通る。彼は八咫烏の嘴を指で撫でた。


 「素晴らしい演奏に、神鳥も満足されたようだ」


 撫子は頰を桃色に染めて、「光栄です」というのが精一杯だった。視界の端で内親王たちが無邪気に手を振って「よかったですね、お姉様!」と喜んでいるのが伝わってくる。


 撫子は自分の席に戻ると足の力が抜けたように座り込んだまま立てなくなってしまった。


 「き…緊張したわ、春風」


 撫子が泣きつくように春風を呼ぶと、春風はすぐさま撫子の手を握った。


 「素晴らしい演奏でしたわ、姫様」


 春風は撫子を労うように白湯を飲ませた。宴のために供された酒は舐める程度に口をつけただけで、春風からは飲みすぎてはいけないときつく言われている。


 辰家の花弦が披露したものは皇国(すめらぎのくに)を讃える詩歌であり、これには歌人として名を馳せていた皇后も満足した様子だった。

 午家の睡蓮は舞を披露するのは浜木綿に勝てず、胡蝶と同じになると思ったのかこちらも詩歌を披露したが、花弦ほどの才はなかったらしく皇后はあまり興味を示さなかった。

 彼女が声を押し殺しながら泣いて席に帰るのを見て、撫子は可哀想だと思った。急に皇后の思いつきで振り回された姫たちは事前の準備ができなかったのは皆同じだが、それにうまく対応できた姫とできなかった姫とで分かれた。


 未家の清花は扇を巧みに使った婀娜っぽい舞を披露した。艶のある流し目が八束を射抜いたとき、撫子は心臓が握りつぶされそうになった。自分ですら見惚れてしまっていたことに気づいたからだ。

 

 申家の百日紅さるすべりは傘を使った舞を披露したが、途中で足を滑らして転げてしまい泣きながら席に戻っていた。

 酉家のすすきは怖気付いたのか体調不良を理由に芸を披露するのを辞退し、戌家の桔梗ききょうは浜木綿を立てるためか同じく辞退した。


 そして最後である柊の番が回ってきた。撫子ははらはらしながら柊を見守った。


 柊は堂々と舞台に進み出た。手には弓と一本の矢。


 「私は弓を披露したいと思います。しかし、動かぬ的に矢を当てるだけではつまらない」


 柊がそういうと静冬しずふゆは抱えていた鶏を放った。羽が散り、鶏は忙しなく動き続ける。弓引いた柊は狙いを定め、矢を放った。それは見事に鶏に突き刺さる。

 女房や姫たちは悲鳴を上げたが、その声は煩わしそうに皇后がため息を吐いたことにより収まった。


 「娘子軍も顔負けの腕前。見事であった」


 皇后がそう締めくくり、矢が突き刺さった鶏は婢女たちが片付けた。舞台を血で汚すことがなかったのが幸いだった。柊は何を考えているのだろう。今回は皇后が満足してくれたからよかったが、一歩間違えば穢れを撒き散らす姫として冷遇される危険性すらあった。


 七夕の宴は終わりに近づいていた。最後の目玉はやはり姫たちがそれぞれの刺繍を星空に向かって捧げ欄干に掛ける儀式だろう。


 皆、蝶や花などの鮮やかな糸を使った刺繍が目に眩しい。その中でも一際目立った刺繍だったのは浜木綿のものであった。

 浜木綿が縫った衣は夜空のような紺から徐々に青になり浅葱色へと至る染め方をされており、銀や金の糸をたっぷりと使った刺繍はそのまま七夕の星空を再現していた。


 天の川が左から右にかけて斜めに見えるように配置され、金や水晶、真珠や研磨された夜光貝で星が再現されている。

 

 誰もが浜木綿が空に捧げた上衣に目を奪われていた。織姫様に妬まれてしまいそう、と女房の誰かが呟いた。確かにそうだった。妬んでしまいそうなほど絢爛豪華な衣であった。


 「姫様は、お一人で一年かけてこの七夕の日に準備して参りました。誰のでも借りず()()()で衣を縫い上げたのでございます」


 早蕨が勝ち誇ったように言ったことで、他の宮の女房たちは驚いたように声をあげた。


 「七夕は自身の技巧の上達を願うもの。その捧げ物を何故他の者に任せられようか」


 浜木綿は何でもないというように言ってのけた。それを聞いた濃紫は「立派な心掛けだ」と浜木綿を褒めた。撫子は女房たちに任せっきりであったことを恥じた。


 撫子も欄干に衣を掛けた。月の光を受け、金糸はきらきらと輝く。他の極彩色の衣たちが風に靡いて、夜空を彩っていく。ふと、柊の衣を見ると生地自体は絹ではあったがやはり変わった紋様の刺繍であった。


 「柊の君、それは前に仰っていた魔除けの刺繍ですわね」


 撫子は声を顰めて柊に話しかけた。露台には各家の姫が勢揃いしていた。


 「ええ。撫子の君が贈ってくれた絹があって助かりました」


 亥領は麗扇京(みやこ)に行った姫に仕送りをする余裕もないほど貧乏らしい。


 「まぁ、今日のお召し物も私の贈ったものを使っているの? 嬉しいわ! でも、光の当たり具合かしら…色が違うような…」


 撫子が素朴な疑問を口にした途端、柊の顔が曇った。


 「貰った絹で衣を縫ったのだけれど目を離した隙に何故か泥まみれになっていて、洗っても跡が落ちなかったから染め直したの」


 まぁ、それはお可哀想に…と撫子は呟いた。


 「蓬で染め直しましたけど、なかなか綺麗に染まって満足です。撫子の君がくれた時の色味のまま使いたかったのだけどね」


 柊は自身に落ちた影を振り払うように無理矢理笑顔を作ったように見えた。


 「柊の君にあげたものですからお好きに使っていただいて良いのですけれど…。蓬で染めましたの? 染殿に染料がなかったのかしら。紅や藍など、私からお貸しできましたのに」


 撫子がそう言うと柊は静かに首を振った。


 「師走宮の中で起きた問題だから。あまり卯月宮に頼るのはよくないと思ったんだ」


 「そんな。私たちお友達でしょう? いつでも頼ってくださったらいいのに」

 

 その時、堪えきれなくなったというような笑い声が撫子と柊の間を突き抜けた。


 「亥家は卯家の支援がなければ満足に衣すら用意できないと。笑ってしまいますわ」


 いつから盗み聞きしていたのかは知らないが、そう言って笑ったのは花弦だった。柊はぎゅっと唇を噛み締めた。返す言葉がないらしい。


 その時、夜空に浮かぶ月のような水晶の珠飾りが揺れる簪を差した胡蝶がしゃらしゃらと音を立てて近づいてきた。一歩、一歩、歩く姿は蝶の羽ばたきのようだった。


 「確かに、亥家には矜持というものはありませんの?」


 くすくすと笑う胡蝶はあれだけ嫌悪していた花弦と同じだったのだろうか。撫子は何故か裏切られたような気持ちになる。


 「でも、刺繍を他人任せにした貴女よりよっぽど柊の君の方がよいと思いますわよ」


 胡蝶が花弦の捧げた衣の刺繍を見て、にやりと笑った。


 「あれは亥領に伝わる魔除けの刺繍でございましょう?女房には縫えませんわ。縫えるのは亥領出身の柊の君だけ」


 胡蝶は淡々と推理を披露するように語る。


 「ええ、よくご存知で。確かに私が全て縫いました」


 柊は少し困惑したようだが、自分の努力に気づいてくれた嬉しさのようなものが滲み出ていた。


 「私も自分の衣は自分で縫いましたわ。浜木綿の君だけが持て囃されるのは気に食わないけれど、まったく刺繍をしなかった者が柊の君を馬鹿にする資格はないと思いますわ」


 花弦は胡蝶の言葉に何も言い返せず、顔を真っ赤にして唇を噛んだ。そして何も言わずにさっさと自分の席へと引きあげてしまった。

 しかし、顔を赤くして唇を噛んだのは撫子も同じだった。今時、衣を一から縫い上げる姫なんているはずないという女房たちの言葉を信じ、七夕の衣を全て春風たちに任せていた自分が恥ずかしくなった。


 せめて下手なりにも少しくらいは刺繍をするべきだった。自らの手で衣を縫った、浜木綿、胡蝶、そして柊の姿が眩しく自分の惨めさが際立って撫子は直視できなかった。


 「撫子の君」


 胡蝶が撫子の名を呼ぶ。花弦に言ったようなことを、撫子に対しても言うのかと撫子は恐る恐る顔を上げた。しかし、胡蝶の瞳にか弱い子兎を虐めてやろうなんて気持ちはなかった。ただ悔しそうにこちらを見つめている。


 「貴女の琴、素晴らしかったわ。私は足に砂袋をつけて舞を練習してきたというのに負けた、と言わざるを得ないでしょう。神鳥様もお認めになった素晴らしい腕前だわ。宮廷楽人も霞んでしまうくらい」


 まさか毒舌な胡蝶から素直に褒められると思っていなかった撫子は驚いたまま胡蝶を見つめた。


 「でも、今日負けたからと言って全て負けたわけではないわ。貴女は花弦の君と同じく、神聖な七夕の儀式の供物に対して手を抜いたことに関しては私、軽蔑すらしますわよ」


 胡蝶のきつい物言いがぐさぐさと撫子の胸に突き刺さるようだった。胡蝶は言いたいことだけ言ってしまうと撫子の言葉も待たずに去ってしまった。といっても撫子には返す言葉がなかったが。


 「撫子の君、その…あまり落ち込まないで。衣は織姫様に捧げる供物。得意な人に任せて立派なものを捧げるのも一つの手だと思うよ」


 柊が慰めてくれたが、撫子の目からはぽろぽろと涙が零れ落ちた。それと同時に夜空に箒星が長く尾を引きながら夜空に眩しく輝く。


 露台に集まった人々が口々に吉兆だと騒ぐ中で撫子は一人静かに涙を流していた。

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