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 師走宮の清めの儀が終わっても、姫君たちは師走宮には極力近づかなかった。食料を届ける役目の婢女が泣いて嫌がったり、夜警の娘子軍のものでさえ嫌がる始末だ。

 

 撫子なでしこも噂が小さくなるまで師走宮に行ってはならぬという春風はるかぜの言いつけを守っていたが文通は許された。最初に送った文に返事はなかったものの、しばらく根気強く送っているとひいらぎから返事があった。


 『沢山の文をありがとう、撫子の君。師走宮に閉じ込められて暇だったのであなたからの文が来てありがたかった。返事が遅くなってごめんなさい。師走宮に近づくことを恐れる子が多いから、安全に文を届けてくれる子を見つけるまで時間がかかったの。ほら、私も静冬しずふゆたちも出られないでしょう?

 神官を呼んでくれたのはありがとう。静冬の顔色も良くなったし、私も後宮という場において穢れがどういうものか理解が足りなかった。

 あの時は、狩りをする我が亥領や食肉をする庶民全てを穢れと切り捨てるような貴族の考え方に迎合できなくて、頭に血が上っていました。

 でもここは後宮で、私は一応は貴族であることを考えさせられました。あなたが神官を呼んでくれなかったら、師走宮はもっと孤立していたことでしょう。本当にありがとう』


 柊からの返事を撫子は大切に胸にかき抱いた。友人からの初めての文である。また宝物が増えたと撫子は喜び、母の形見の櫛と同じ厨子棚にしまった。


 季節は夏へと移り変わっていた。年中、花が狂い咲きの麗扇京(みやこ)では植物で季節の移ろいを感じることは出来ないが、少し気温が湿り気を帯びた暑いものに変わり、本来夏に咲かせる花が生き生きと瑞々しく映る。


 宮中では端午節会が開かれ、薬猟が行われていた。皇家が所有する直轄領である黄央地方の山野で薬草や鹿の若角を取る。帝が騎射を観覧する儀式があるのだが、病床に伏せっている帝に代わり、今回は元服を済ませた皇太子が鑑賞したそうだ。

 内務省、宮内省それぞれが内薬司と典薬尞を率いて、邪気を祓い長寿を齎す菖蒲草と薬玉を献上した。薬玉は後宮にいる撫子たち姫にも配られ、その日は粽を食した。


 薬玉は皇太子から預かったものを皇后の月光宮に集められた姫たちが内親王たちから直々に下賜された。


 「皇太子殿下は後宮にいる姫君たちに会えないことを残念がっておられた。しかし、安心するがよい。七夕乞巧奠の宴には皇太子は後宮に来ると、この母に誓ったのだ」


 濃紫こむらさきは御簾越しに不安げな姫君たちの顔を読み取ったのかそう話した。しかし、不安げな顔をしていなかったのは、堂々と青紫を纏う浜木綿はまゆうとその腰巾着である桔梗ききょう、そして柊だけだった。


 撫子は不安に揺れていた。その他大多数の姫たちがそうだっただろう。皇太子は妃選びが始まってから一度も後宮に訪れていない。それは既に心に決まっている人がいるから来る必要がない、とも受け取れた。

 その有力候補は浜木綿であろうということも撫子はわかっていた。

 

 浜木綿の腰巾着と他の姫たちから揶揄される戌家の桔梗は、最初こそ馬鹿にされていたものの、最近では評価を改めつつある。勝ち馬に乗ったと言われるようになったのだ。浜木綿が皇太子妃になるならば、その近くに侍っている桔梗が側室として召し上げられる可能性が高いのだ。


 戌家は最初から皇太子妃を狙うのではなく、側室として入内を果たし、子を先に産むことで地位を盤石にしようという考えなのだろう。

 それに焦ったのが他家の姫たちだ。自分たちも浜木綿側に付いて甘い汁を吸おうと躍起になった。それでも浜木綿に頭を垂れなかったのは、最初に茶会に招かず喧嘩を売ったような形になった辰家の花弦はなつると矜持を持った寅家の胡蝶こちょう、何事にも関係ない態度を貫く子家のささめと亥家の柊、そしてどっちつかずな態度で乗り遅れてしまった撫子だけだった。


 花弦の茶会で花弦側につくかと思われた未家の清花きよはななんかは真っ先に浜木綿側へと寝返ったように撫子の目には映った。


 後宮の勢力図が一気に浜木綿へと傾いたのだ。元々、皇后の後ろ盾を持つ浜木綿は強力だったが、さらに強力になった形だ。


 ぎゅっと胸が締め付けられた。浜木綿は眩いほどの美しさを有し、まるで元から自分のものだったかのように青紫を着こなしている。その姿を皇太子が見たら、惚れてしまうのも納得の美しさだった。

 相思相愛となった二人を間近で見て、袖を涙で濡らしながら撫子は家へと帰るのだろうかと思うと、胸が苦しくて仕方がなかった。


 「撫子の君に、皇太子殿下からの薬玉にございます」


 内親王である梅の枝(うめのえ)が撫子の前まで来て、紫の布が敷かれた盆の上に置かれた薬玉を差し出していた。

 薬草、香草、香料が錦の袋に詰められており、造花で飾り立てられ五色の糸が垂らされている。無病息災を願ったもので、皇太子からの贈り物に少し、心躍った。たとえ、それが姫全員に配られたものだとしても。

 

 撫子は卯月宮に帰ってからもその薬玉をずっと眺めた。文机に置いてずっと眺める。


 「姫様、そろそろ窓を閉めませんと風邪をひきますよ」


 春風はぼうっとした様子で薬玉を眺める撫子にそっと上衣をかけた。傾く月が撫子をぼんやりと照らしていた。その月光に白い肌は一層輝き、睫毛はきらきらと光を受ける絹糸のようである。


 「とてもじゃないけど、眠れないわ。春風。この胸の高鳴りが収まらないの」


 湯上がりのように撫子の頰は薄らと桃色に染まっていた。


 「この薬玉が皇太子殿下本人だったらよかったのに。…それは欲張りすぎというものかしら」


 「姫様、もう寝ませんと」


 夏の温い風が撫子の頰を撫でた。虫たちの声が聞こえてくる。撫子は名残惜しそうに薬玉の錦の袋を撫でると、母の形見や柊からの文と同じく厨子棚にしまった。


 病床の帝に代わりに皇太子が日の神様を祀り、忌火で炊いた米を供えて自身も食す神今食の儀式が行われたと聞いてから、竹を節で折り帝と皇后、皇太子の身長を測り祓えとする節折の儀式が行われれば、あっという間に七夕の日が来てしまった。


 宮中では宴が開かれ、市井でも幻燈祭という灯籠を川に流して身の穢れを払うという祭りが一週間は開かれるらしい。宮中の宴の日はその幻燈祭の最終日でもあった。


 後宮の中央、帝の太陽宮と皇后の月光宮を望む様に整えられた大戯楼には姫たちが座す十二の席とその一段上に内親王たちが、そのさらに一段上にはがっしりとした檜の舞台。並んだ二つ倚子に座るのが皇后濃紫(こむらさき)と皇太子である八束(やつか)であった。

 華やかに飾られた黒漆で四方には支柱が伸び繻子の帳が床まで垂れ下がっている。紗の御簾が顔の半ばまで降りていて表情はわからない。


 八束は末広がりで縁起の良い「八」という字が使われていること、名の八束は永いことを意味するとして国の繁栄を願い母である濃紫の愛を一身に受けた人であることが伺えた。


 しかし、皇太子についつい目を奪われがちな撫子ではあったが、皇太子の横に綺麗な艶やかな黒い羽を持った鳥が並んでいることに気づいた。


 「春風、まさかあれが噂の…」


 撫子は春風を側に呼び、そっと耳打ちする。春風は青ざめたように「神鳥様を()()呼ばわりするとは何ごとですか」と小声で叱ったため、撫子の予想は外れていないようだ。


 あの黒い鳥、日の神様より遣わされたとされ、日の神の子孫である皇族の元に舞い降りてくる。神鳥──三本足の烏、八咫烏である。国の為に春を呼んで囀り、繁栄を齎すものだ。皇国(すめらぎのくに)は春の盛りを迎え、それは神鳥である八咫烏の加護を受け、永久に続いていくものであると信じられている。


 八咫烏は人の言葉を解し、真実を見通すまなこを持ち、時に神託を告げるという。帝に即位するためには神器、八咫鏡、天叢雲剣、八尺瓊勾玉の他に神鳥である八咫烏に認められなければならないという。


 その点、皇太子には確かに八咫烏が舞い降り一声鳴いたと伝えられているので、日嗣の御子として認められたということなのだろう。その神鳥を見られるなんて、と撫子は感動で少し涙ぐんだ。


 「わぁ、可愛い。胸の毛の辺りがふわふわしているわ。触りたい…」


 撫子は思わずそう呟いたが近くに控えていた耳聡い春風には全て筒抜けであった。


 「姫様! 神鳥様を触りたいなどなんと恐れ多い」


 しかし、紗の御簾のせいで八束の顔は見えないものの、八咫烏は八束の腕に留まり、猫のように頭を擦り付けている。その仕草の可愛らしさに撫子はすっかり撃ち抜かれてしまった。


 「姫様、七夕の宴。皇后や皇太子殿下や他家の姫たちの前で、くれぐれも粗相だけはしないでくださいまし」


 春風は七夕の宴の日が近づくにつれ、段々と顔色が悪くなり目の下に隈を作るようになった。それは七夕の宴用の撫子の衣作りに勤しんでいたからである。

 撫子が今着ている衣だけでなく、もう一着必要なのだ。それはこの七夕の宴の仕組みにある。ただ飲み食いして騒げばいい宴ではないのだ。


 彦星と織姫が年に一度再会を果たす、この日は手芸や機織りなど裁縫の上達を願い、その夜に星空に向かって刺繍を施した衣を飾るのだ。

 迫り出した露台には果物などの供物の他に衣を飾るための欄干がある。今はまだ宴が始まっていないため欄干には風にはためく衣はまだないが、きっと綺麗な光景だろうと撫子は思った。


 欄干に飾る刺繍の衣はこの日のために女房たちが必死になって作り上げてくれた逸品だ。本来ならば姫自身が刺繍を施すものだが、今時どこの家も姫一人に衣の刺繍を押し付けるわけはなく、女房たちの手が入っている。


 撫子も針でその柔肌を傷つけてはいけないからと、針で糸を一回だけ通したきり、あとは女房たちに取り上げられてしまった。


 しかし、撫子が一人で刺繍を施しても間に合わなかっただろうし、散々な出来栄えになることは予想がついた。撫子は八束の姿に顔は見れずとも身惚れていたが、流石にそろそろ宴が始まろうかという頃に柊の姿がないことが気になった。

 

 「春風、柊の君の姿が見えないけれど」


 撫子は心配そうに辺りを見渡した。春日(かすが)(あざみ)たちも同輩の静冬しずふゆがいないことに不安げな表情を見せ始めた。

 するとそこに、辰家の花弦が挨拶に来た。茶会以来の再会であり、何となく撫子も避けていた相手だったのでまさか向こうから来るとは思わなかった。


 「撫子の君、ごきげんよう。涼しい夜ですわね。七夕の日にぴったり」


 ふっくらとした唇に艶やかな紅を引き、今夜の花弦は艶っぽかった。


 「ごきげんよう、花弦の君。ええ、最近は蒸し暑い夜が多かったですから涼しいと嬉しいですわね」

 

 中身のないぺらぺらな挨拶に撫子はうんざりした。


 「それにしても亥家の柊の君はまだ来ないようね。もしかして織姫様に捧げる衣の用意がまだ終わってないんじゃないかしら。まさか、こんな大事な夜に木綿の衣を捧げるなんてこと無いと思いたいけれど」


 花弦が含みのある笑いを漏らした。もしや、花弦はまた柊に何か嫌がらせをしたのではないかと撫子は心配になった。


 「花弦の君は何か柊の君についてご存知ないかしら」


 撫子は探りを入れるように尋ねてみる。しかし花弦は「あんな野蛮人のこと知りたいとは思いませんわ」と何も知らないようだった。

 その時、自身を先頭に他家の姫や女房を引き連れた浜木綿はまゆうがこちらへと向かってきた。花弦の表情が一瞬だけ曇ったような気がした。


 「そろそろ席につきなさい。宴が、始まるよ」


 浜木綿の声は決して大声ではないのによく通る透き通った声だった。


 「あら、浜木綿の君。もう皇太子妃気取り? 少々、気が早いんじゃないかしら。もし入内が叶わなかったらお笑いぐさですわ」


 花弦は扇子で口元を隠しながら、あくまで浜木綿を慮って言ったような口調を崩さなかった。浜木綿は隠れた嫌味など気に留めてはいないようだ。


 「私は皇后陛下の機嫌を心配しただけだよ」


 浜木綿は視線だけを皇后が座る倚子の方へと向けた。浜木綿が女房たちを引き連れて去っていく中、かつては花弦と親しげに見えた清花きよはながくるりと振り返って撫子たちに告げた。


 「乗り遅れましたわね。今は浜木綿の君の時代ですわよ。ちっぽけな矜持にしがみついていたら何も残りませんわ。それに、撫子の君」


 清花は息を吐くと能面のような笑みを貼り付けた。


 「内親王様たちと仲良くなさるとは愚かですわ。あれは泥舟でしてよ」


 撫子はあの可愛らしい内親王たちを馬鹿にされたのだと気づき、言い返したかったが清花は笑みをこぼしながら去っていく。花弦も撫子を見下したような目で見つめ帰っていった。


 もう柊抜きで宴を始めるしかない、そんな空気が漂っていた。濃紫が肘掛けを指で何度も打ち付ける音が異様なほど響いて、ぴりぴりとした空気になっていた。


 撫子は悔しさを噛み締めながら、自身に与えられた席に座る。その時、慌ただしく渡殿を歩く複数の足音が聞こえてきた。そして、撫子は絹の衣を纏った柊の姿を見たのだった。

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