陸
次の日、卯月宮に師走宮から昼餉を共にしないかと誘いが来たのは撫子が朝餉を食べ終えたあとのことだ。
撫子は二つ返事で了承し、春風を呆れさせた。曰く、少しは考えるそぶりを見せてから応えるものです! とのことだ。それに、薊も何か言いたそうにこちらを伺っていたが、結局何も言わなかった。
師走宮に辿り着くと、美味しそうな匂いが漂ってきた。中に入ると、柊はやはり婢女のような格好で鍋で豚の頭を煮ていた。
「撫子の君! 今ちょうど出来上がったところです。見て、この立派な頭。きっと美味しいでしょうね」
にこにこと柊が笑う。撫子が女房たちと一緒になって悲鳴を上げたのは次の瞬間のことであった。豚の生首と──その目が合ったのだ。もう生きてはいない光のない目が撫子を射抜く。
撫子はここが厨房の土間であることも忘れ、絹の衣が汚れることも厭わずへたり込んでしまった。
「姫様! 大丈夫でございますか」
春風が撫子を引っ張り起こす。
「ごめんなさい、驚いてしまって」
撫子はできるだけ豚と目を合わせないようにした。柊は何故撫子たちが悲鳴を上げたのかまるでわからないという顔をしていた。
「柊の君、うちの姫様は今まで獣の殺生を見たことがございません。そのため、驚かれたのです」
春風は慰めるように撫子の肩を撫でた。
「…でも屠殺の現場を見たわけじゃないし。そんなことで腰を抜かすとは思わなかった。ごめんなさい、撫子の君。私は故郷の狩りで慣れていたから気づかなかった」
柊は申し訳なさそうに眉を下げた。
「それにこれは今朝、庭に置かれていた生首なんだ。臓物も一緒に撒き散らされていた」
柊は誰かからの匿名の贈り物でも貰ったかのような喜びようだが、どう見ても嫌がらせである。獣の臓物を撒き散らすなんて、師走宮の土地に穢れを蔓延させようとしている。
「血を腸詰にすれば美味しいけど、地面に染み込んでしまったならば仕方がない」
柊がそう言うと撫子の後ろからひぃっと悲鳴が上がった。薊が涙目になっていた。
「臓物が撒き散らされたとなればここはもう不浄の土地です。神官を呼び、清めてもらわねば」
春日が蒼白な顔で震えたように言った。すると血色を失い土気色になった静冬が厨房にふらふらとした足取りで入ってきた。
「神官を呼ぶにはまず内親王様に話を通し、皇后様に願わねばなりません。巳家贔屓の皇后様が、師走宮のことに気を配ってくれるかどうか…」
静冬はもう諦めさえ感じさせる疲れた声をしていた。
「私も一緒に内親王様に頼んでみます! 亥家と卯家の二家の姫から嘆願があれば、きっと皇后様も無視できませんわ」
撫子は静冬や柊を励ますように言った。静冬は「卯家の姫様…」と少し感激し、光を取り戻したように見えた。
「馬鹿馬鹿しい。獣の血が染みたらその土地は不浄だなんて。それなら狩りで暮らす亥領は全て不浄の土地になってしまう」
水を打ったようにその場が静まりかえった。しかし柊は気にせず豚が溶けた汁を杓で掬い口に運んだ。「ん、美味しい」と口の周りを舐める。
ぎょっと目を見開いて春風は信じられないものを見たように柊を見つめた。そして撫子を庇うように前に立つ。まるで、理性を失った獣と対峙しているかのような緊迫感だった。
「柊の君、申し訳ありませんが姫様は昼餉は共にできませぬ。獣の肉は食べれないのでございます」
春風は撫子が口を挟む間も無くそう言うと、「さぁ、姫様帰りましょう」と撫子を促した。柊は残念そうな顔をしていたが無理矢理に豚を食べさせる気はないらしい。次は必ず、とひらひらと手を振って見送った。
師走宮の門を抜けたところで、撫子は師走宮を見上げるように振り返ったが春風は「早く帰りましょう」と焦りを滲ませながら卯月宮へと帰った。
卯月宮へと帰った撫子は結局は無しになってしまった昼餉を取る前に、女房たちは必死な形相で麗扇山の湧水で撫子に禊をさせた。そして春風は撫子にもう二度と師走宮には行ってはいけないと告げたのだった。
「どうして、春風。せっかく柊の君と仲良くなれそうだったのに」
撫子は頬を膨らませて、抗議の意味で今日の昼餉には一切手をつけなかった。
「私は姫様のためを思って言っているのでございます。柊の君はこの神聖な後宮において自ら穢れを口になさったのです。それに師走宮の土地は…可哀想ではありますが、悪意ある何者かによって不浄の土地となってしまいました。清めが終わるまでは師走宮には近づいてはなりません」
皇后が自身の生家でもない亥家の姫が住む師走宮を気にかけないことは、師走宮の荒れた状態を見て明らかだった。師走宮がすぐさまに清めの儀が執り行われる可能性は低い。
「私、内親王様に謁見を申し込むわ。師走宮に神官を呼んでもらえるようにって」
「なりませぬ!」
春風が絹を裂くような神経質な声で叫んだ。そして、はっと我に返り自分が今、仕えるべき主人に向かって口答えし、叫んだことを春風自身が信じられないという顔をした。
「皇后は…あの毒蛇女は、師走宮のことなどどうでもよいのです。それより姫様。今目立ち、皇后の不興を買うことは得策ではありません」
春風は駄々を捏ねる子供をあやすような口調になった。
「でも私、言ってしまったわ。師走宮に神官を呼んでもらえるように頼んでみるって柊の君や静冬に…」
「今は耐えるのです。それに、師走宮の主であられる柊の君自身があまり土地の不浄に関しては気にしておられないようですから」
春風はそう言った。しかし、撫子は柊より静冬が心配だ。柊は気にしていないようだが、静冬は不浄に関してやつれるほど気を揉んでいた。撫子は自分に出来ることがあるのに、今は何もできないことが歯痒かった。
房の外から女房たちがひそひそと話す声が聞こえた。
「やはり、北の野蛮人は不浄に関して疎いのが困りますわ。獣の血なんて汚らわしいものをどうしてあんなに平気なのか…」
「いつも、桑葉女のような格好をしているのも恥ずかしいわ。師走宮付きの女房たちが可哀想。絹を差し上げたうちの姫様のお優しいことよ…」
春風は房の外を睨みつけ、静々と房の外の廊下へと顔を出した。
「お前たち、お喋りはそこまでにしなさい」
春風が一喝すると女房たちは縮み上がり、自分たちの仕事に戻って行った。春風を卯月宮の筆頭女房に任命したのは撫子ではあったが、春風が誰かの上に立っている姿を撫子は初めて見た。
「春風、今の…桑葉女というのは…?」
撫子は女房が口にしていた言葉が気になり尋ねた。
「後宮の女人は婢女に至るまで帝──扶桑君のものです。ですので、婢女のことを桑葉女と呼んだりしますが、あまり良い言葉ではないので姫様は使わないでくださいまし」
「…わかったわ」
撫子の返事に呼応するかのように腹が鳴った。春風は呆れたようにため息を吐き、「意地を張ってないで早く召し上がってください」と撫子の前に盛られた膳の食事を見つめた。
川魚を塩で焼いたものと、艶々した米が食欲をそそる。口の中で唾液が分泌されたが、撫子は意地を張って食事を視界に入れないようにそっぽを向いた。
「食べないわ。下げてちょうだい」
春風も撫子が折れないと悟ったのか冷めてしまった食事を下げさせた。そのあとは、撫子は何もできなかった。食事を抜いたせいで頭が回らないので、詩歌は思い浮かばないし、箏の弦はいつもより重く感じ上手く弾けない。
ぼぉっと外の狂い咲きの庭園を眺めるしかなかった。爽やかな風に木々や草花がそよぐ音のなかに、何とも間抜けな撫子の腹が鳴く。
「姫様、姫様」
小声で春日が撫子を呼ぶ。盆に小豆のすり汁と粉熟を載せて持ってきてくれた。
「お腹が空いてますでしょう。食べてくださいな。言ってはならぬと厳命されましたが、春風様が心配して用意されたものですよ」
撫子も意地を張るのに疲れてきたところに、粉熟は効いた。腹の音は鳴り止まず、撫子は夢中で粉熟を食べた。春風は何かと撫子に甘いことを痛感した。
食べるとぽろぽろと涙が溢れてきた。
「私、柊の君とお友達になったのに…」
「確かに、友人のために何もできないというのは歯がゆい思いでございます、姫様。しかし、春風様は姫様を思ってのことでございます」
春日にも嗜められるように言われた。それは痛いほど撫子だってわかっているのだ。春風がただの意地悪でこんなことをいうわけないと。
しかし、豚は食べてみたかった。今まで記憶にある中で肉など食べたことがなかった。牛車で麗扇京に来た際に肉の焼ける匂いを嗅いだだけである。
春風は間違っても撫子が豚を食べるなんて言い出さないように卯月宮に早く帰りたがったのだろう。
撫子はその日、大人しく眠りについた。
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「食べないって言ってるでしょ。下げてちょうだい」
撫子は朝餉の膳を前にして、そう言い放った。食事を運んできた女房が困った顔で春風に助けを求めるように視線を向ける。
春風は呆れたようにため息を吐き、「お好きになさればよろしい」と言って房から出て行った。取り残された配膳の女房はおろおろしている。何としても撫子に食事を摂ってもらいたいのだろう。
配膳の女房は撫子より二つか三つ年上のそばかすがくっついた野暮ったい娘だった。卯領の出身で生真面目というから撫子付きに採用されたが、あまりこうして近くで見ることはなかった。
「早く食事を下げて。私はそんな泣きそうな顔で見られても食べないわ。私が食べなかったら、皆んなに下げ渡されるんでしょ。いいじゃない。あなたは幸運だと思ったら」
撫子は冷たく、つんと顎を突き出して下げるように言った。
「恐れながら申し上げますが、女房は皆んな姫様のお身体を心配しております。姫様が食べなかったから自分の食べる分が増えて嬉しいと思うものなどこの卯月宮にはおりませぬ!」
女房は顔を真っ赤にして怒っているようだった。
「師走宮に行けるようになるまで私は抗議を続けるわ。結局、師走宮に食料を渡すこともできてないじゃない。柊の君や静冬たちはひもじい思いをしているかもしれないのに私だけお腹いっぱい食べられないわ」
結局、皇后の不興を買わないために師走宮と卯月宮との交流は完全に断たれていた。春風がそうするように宮の者全員に言いつけたのだ。そのため、渡せたのは最初の腹の足しにもならぬ絹だけで食料は届けられなかった。
「姫様までもがひもじい思いをする必要はないのです。せっかく食べられるものがあるのにわざと食べないのは冒涜ですわ」
女房は頭に血が昇っているかのように早口で捲し立てた。
「姫様は恵まれていますわ。それなのに、簡単にその特権を捨ててしまわれるなんて。世の中には満足に食べられない者が大勢いるのに」
それは撫子もわかっていた。柊から聞いた飢饉の話は当事者から聞いたこともあり、生々しく鮮烈に撫子の中に焼きついている。ひもじい思いがどれだけ辛いのか、柊の話でわかっている。だからこそ、師走宮の状況の改善をしなければと撫子を駆り立てるのだ。
「そんなことわかってるわ。でも私が食べたら私の腹に収まるだけでひもじい人が満腹になるわけじゃないわ。食べられない人が可哀想だって思うなら全部自分たちで食べてしまうのではなく、分け与えてあげるべきよ」
撫子は自分の目の前に置かれた膳を女房に突き返した。
「ほら、持っていってあげなさい」
撫子は優しさのつもりだったが、女房は更に怒りを溜め込んだようだった。
「姫様!」
女房が何か言おうとしたが、それを遮るように撫子は蛸の羹が入った椀を引っ掴み、ばしゃりとその中のものを女房の着物に撒き散らした。
「うるさいわね、食べないって言ってるでしょ!」
そう叫んだ撫子の声の後の静寂は恐ろしいほど冷えていた。着物を汚された女房はわなわなと震えている。撫子は青褪めた。
「ごめんなさい、私。わざとじゃないの。つい、カッとなって…ごめんなさい」
撫子は口元を両手で抑えて狼狽した。羹は冷めていたが、布に汁が染み込んでしまっている。
「濡れてしまった袿の代わりに私のものを着て」
女房は温いとはいえ羹を掛けられた衝撃から茫然としていたが、撫子が謝ると「姫様が簡単に頭を下げてはなりません!」と少し冷静になったようだ。
「しかし、姫様の着物を私が着るわけには…」
「いいの! それはあなたにあげるわ。大事な着物を駄目にしてしまったお詫びよ。この汚れちゃった方は私の方から洗っておくようにお願いしておくから、ね?」
そう言ってやや強引に撫子は女房を房に返した。そして腕の中には姫のものより格式が下がる女房の袿。洗えば問題なく使えるだろう。
「……お出汁の匂いが染みちゃってる。…これ、取れるのかしら」
汁が染みている部分を嗅いで、撫子は顔を顰めた。そしてこっそりと婢女に着物をできるだけ早く洗濯して乾かし、内密に自分に届けるように言いつけたのだった。




