伍
あの鮮烈な青紫。あれが喉から手が出るほど欲しい。撫子はそう思った。あの青紫の衣は金糸や銀糸がふんだんに使われ、複雑な吉祥文様が縫われている。しかし、ただ豪華な衣だから欲しいというわけではない。
あの衣は皇太子の隣に立つ人に贈られるものだ。それが私だったらいいのに、と撫子は思ってしまう。しかし現実に青紫を纏っているのは巳家の姫君、浜木綿であり、撫子ではない。
そして浜木綿本人も青紫を手放す気はないと言っている。天と地がひっくり返らない限り、撫子が皇太子妃になる可能性はないように思われた。
薄々ではあるが、撫子は今回の妃選びは全て浜木綿のためだけに皇后が整えたものだということに気づき始めていた。最初から選ばれるのは、浜木綿。
集められた他家の姫たちは一応他の十一家の顔を立て、あくまで公正に妃選びをしているかのように見せかけでいるだけだ。
「姫様、もう朝でございますよ」
春風が御帳台の薄絹を開け朝の光を撫子に届ける。撫子は眠い目を擦りながら、体を起こした。春日が顔を洗うための薔薇の花弁が浮かんだぬるま湯を持ってきてくれた。
撫子は朝食を済ませ、着替えると今日は師走宮を訪ねることにした。いつもなら琵琶や筝、琴をつま弾くか詩歌などを考えて過ごすのだが、昨日の茶会での花弦の言葉が気になっていた。
本当に柊の一張羅であろう毛皮を駄目にしたのかこの目で確認したかったし、何よりもし駄目になってしまったなら柊が可哀想だった。
何か手土産を持っていかなければと実家から送られてきた絹の反物を持って行こうと決めた。薊に師走宮まで訪ねたい旨を伝えに行ってもらい、撫子は琴を爪弾きながら帰りを待った。
薊は小半刻もしない内に帰ってきた。
「訪ねてくるのは構わないと亥家の姫君直々に仰せつかいました。しかし、その…師走宮は少し変というか何というか…。姫様、あまり無理して師走宮を訪ねられなくとも…」
薊はあまり撫子を師走宮に行かせたくないようだった。しかし、何が変だったのかと問えば途端に言葉を濁してしまう。
撫子は行かせたくなさそうな薊を説得し、渋々と付き添う薊と春日、春風と共に師走宮に向かった。
師走宮は当たり前だが、住むものが違えば趣も違うもの、と納得するにはいささか荒れた宮だった。庭は草木が生えて手入れされていないようだし、植物の侵食は柱や屋根にまで及んでいた。
「まあ」
思わず、口を開いて驚いてしまった撫子だがいつもなら「大きく口を開くなんてはしたない、卯家の姫君が〜」と叱るはずの春風さえもが、師走宮の荒れ具合に驚いて言葉が出ないようだった。
この荒れ具合は一代ではない。何代にも渡って亥家の姫君たちが手入れを怠っているのだろう。皇太子の妃選びが始まるまで十二の宮は閉鎖されてはいたが、その間手入れは行われていたはずだ。現に卯月宮は綺麗に保たれていたし、皐月宮も綺麗だった。
「卯家の姫君! 出迎えが遅くなり申し訳ありませぬ」
師走宮の女房が慌てた様子で撫子一行を出迎えた。女房の衣は少し薄汚れていて、くたびれた顔をしていた。何だか撫子たちの来訪により、負担を増やしてしまったみたいで申し訳なかった。
女房は気が引けたようではあったが荒れた宮の中に撫子たちを通した。中は素朴な調度品がこぢんまりとあるだけで、煌びやかなものは一切なかった。
「こちら、柊の君に贈ろうと持ってきたものです」
撫子が言うと、春日が反物の入った箱を差し出す。中身を見て、女房は感激したようだった。「まぁ、絹!」と思わず口から出てしまうほどには。
師走宮の女房──静冬は亥領から柊に付いてきた女房ではなく、春日や薊と同じように宮廷から柊の元に派遣された女房であるようだった。それどころか、亥領から柊についてきた女房は一人もおらず、護衛も柊を後宮に送り届けると帰ってしまったらしい。
「そんなことがあるのですか」
信じられないというように春風は呟いた。静冬は恥じるように頷いた。
「それに、連絡の行き違いで私たち師走宮の女房は入宮の儀に間に合わなかったのです」
静冬の言葉に撫子は入宮の儀のあと、それぞれが宮に帰っていく中、柊だけが一人だったことを思い出した。静冬は新しい主人に恥をかかせてしまったことを悔しく思っているようだった。
その時、几帳が取り払われ開け放たれた空間の先に見える荒れ放題の庭で草むしりをしていた婢女がこちらの存在に気づいたようだった。裸足のまま宮に上がり込むと撫子たちの前に来た。
「姫様! そのような格好で!」
静冬が激昂し、その婢女を怒鳴りつけた。それにより、今まで婢女だと思っていたのが亥家の姫君、柊であることに気づいたのだ。
顔は土で汚れているが、よく見れば入宮の儀で見た柊本人であった。髪は木綿の布の端切れのようなものでまとめられている。
「こんな格好で申し訳ない。卯家の姫君」
「撫子とお呼びください、柊の君。その、昨日の茶会にいらっしゃらなかったから。…どうされたのかしらと思って。私は主催ではないけれど少し…心配で」
撫子も何だか、言葉がしどろもどろになってしまう。まさか他の姫たちがあなたの毛皮を駄目にしたことを話していたとは言えない。
「茶会に参加したかったんだが、毛皮がずたずたに引き裂かれてしまっていて。参加できなかったんだ」
柊はしょんぼりと項垂れた。撫子はやはりそうだったのかと思った。その思いが顔に出ていたのか、柊は「撫子の君は何だか知っていたような顔をされますね」と言われ心臓が跳ねた。
「実は…昨日の茶会で柊の君の毛皮を駄目にしたなんて話を耳に挟んでしまいまして…」
撫子は正直に打ち明けることにした。柊は納得したような顔で頷いた。
「わざわざ確かめにきたということは、あなたは犯人ではないのでしょう」
撫子が柊の言葉に犯人だなんてとんでもない!と言う前に春風が口を開いた。
「うちの姫様が犯人だなんてあり得ません」
なんと失礼な、と春風は今にも噛みつきそうな勢いだった。撫子は確信は持てず犯人の名前は言わないことにした。花弦が犯人だとは決まっていない。胡蝶の憶測に過ぎない。
「それで…その、柊の君はどうしてそのような格好を?」
撫子は上から下まで柊を眺め、疑問を口にした。柊は裸足だったし、着物も木綿…とは少し違った変わった服を着ている。
「庭仕事をするには動きやすい方が良いでしょう?」
柊は何も恥じることはないというように応えた。その姿を見て逆に静冬の方が恥ずかしそうに顔を手で覆っている。春風をはじめとした撫子側の女房たちも呆れたような顔をした。
とうてい、姫君らしからぬ思考だ。まさか、自ら庭仕事をするなんて。撫子も春風に卯家の姫君として相応しい行動を、と口酸っぱく言われていたがここまでではない。
「何代か前に誰かが庭に蕺草を植えたみたいで。薄荷や虎杖、夾竹桃なんかも見つかりました」
困っちゃいますよねぇ、と柊は苦笑した。どれも繁殖力が強かったり毒性が強いものだ。どう見ても、誰かが嫌がらせで植えたようにしか思えなかった。そしてここが麗扇京という土地だったことも悪かっただろう。
麗扇京の土地は神聖な土地で植物は年中、季節関係なく狂い咲き。土壌に何かしらの不可思議な力が働いているのだろう。元々繁殖力が高いのもあって、自然と枯れることもなければ蕺草が薄荷を駆逐してくれることも、夾竹桃の毒性が他の植物を枯らしてくれることもない。
「でも、食べられる植物がいっぱいで嬉しい!」
屋根を侵食するのは困るけど! と柊は満面の笑みを浮かべた。床を突き破って筍が生えてきたんだ〜と呑気に柊は語った。虎杖は春の若芽は食べられるし、根は薬になると柊は嬉しそうだ。
「庭の山菜に頼らなくてはならないほど、師走宮の食事は足りぬのですか?」
春日が心配そうに、静冬に尋ねた。それは、同じく宮廷から派遣された同輩を憐れんでいるようだった。仕える姫が違えば待遇に格差が生じるのは当たり前だが、静冬の様子は春日から見て、目も当てられぬほどの惨状だったらしい。
「典型的な田舎者いじめ、ですわ。師走宮には人も資材も、食料も規定の量は配られませんの」
後宮に入った姫たちは宮廷から金子が支払われる。それにより宮での一定の暮らしが保障されるのだ。実家からの仕送りでそれ以上の暮らしをすることも可能だ。
「不当な扱いを受けているならば内親王様を通して、現状を皇后様に申し上げるべきです。こんな…」
春日は師走宮の様子を眺め、言葉を失った。薊は賛同するように頷いたが春風だけが、皇后に何を言っても無駄だと理解しているようだった。
「何度もせめて食料だけでも、とお願いしているのですが聞き入れてくださいません」
静冬は困ったように言うだけだ。この場で春風と撫子だけが皇后の本性を知っていたため、その願いが叶えられることはないだろうと確信した。
「なら、卯月宮の食料を分けてあげればいいわ。私は実家から滋養に良い人参や蜂蜜などが送られて来ますもの」
父からの償いなのか、卯月宮には実家から絹であったり食べ物であったりがどっさりと届いているのだ。もちろん、それには卯家が他家に侮られないようにという思惑もあるだろう。しかし、撫子は父の不器用な償いと愛情であると思っている。
「柊の君、毛皮の代わりにはならないだろうけど絹も受け取ってちょうだい」
「ありがとう、撫子の君」
柊は撫子を見つめて礼を言った。その時に撫子は柊の目が水晶のように透き通っていることに気がついた。この人となら、仲良くなれるような予感がしていた。
「それにしても毛皮がずたずたに引き裂かれたなんて、お可哀想に。とても似合っていたのに…」
撫子はもうあの野性味あふれる毛皮を纏う柊の姿が見られないことを惜しく思った。
「確かにあれは珍しい白い狼の毛皮だった。でも、麗扇京では玄北ほど厳しい冬にならないだろうから毛皮の上衣は必要ないかもしれない」
柊は自分にそう言い聞かせて奮い立たせようとしているようだったが、悲しみが影を落としていた。
「それに、この樹皮で作った服は玄北の冬に耐えれる。麗扇京の冬くらいなら大丈夫だ」
柊の着ている衣が樹皮で作られていることを知って撫子は驚いた。まあ、と感嘆が漏れる。
「どうやって木が服になるというの?」
撫子の幼子のように輝かせた純真無垢な瞳に、柊までもがつられて笑みを溢したのを春風は見逃さなかった。
「灰汁を加えて釜で煮るんです。こう、ぐつぐつと」
柊が身振り手振りで説明する。施される刺繍は魔除けなのだという。その日、撫子は師走宮で柊と語り合うことで親交を深めた。
春風が教える地理や表面的な文化だけでは知り得なかった、その地に根ざして生きる人の声を聞けたことが何よりも楽しかった。卯家の別邸だけが世界の全てだった撫子の世界が広がっていく感覚がした。
女房たちも話に熱中し始めた姫たちを呆れたように眺めながらも自分たちも話に花を咲かせた。
「青東は比較的穏やかな気候なのですね」
「そうなの! 暖かくて、雪もあまり積もらないわ」
柊は撫子の話を聞いて、羨ましそうな顔をした。玄北、特に皇国の最北端に位置する亥領は冬になると雪で閉ざされ交易すらままならなくなるそうだ。そのため、亥領の民は冬までに作った保存食で冬を凌ぐのだ。
元々、亥領は農耕に適した土地ではなく比較的亥領の中で温暖な南側で稗や粟、稷などを細々と農耕しているらしいが北へ行くにつれ、狩猟が主な食料の調達手段になる。
「十年前、亥領では獲物が獲れず飢饉が起きました。作物も軒並み不作で、元々ぎりぎりの食料で食い繋ぐ貧しい土地だから…」
柊は何処か遠い目をしていた。
「酷い時は塩を舐めて飢えを凌ぎました」
そこまで亥領が飢えていたことも、十年前に飢饉が起こっていたことも撫子は知らなかった。領主である亥家の姫が塩を舐めて飢えを凌ぐほど酷かったならば民の暮らしはもっと酷かっただろう。
「麗扇京は桃源郷みたいな場所です」
柊はしみじみと呟いた。麗扇京は土壌の神聖な力で植物が狂い咲きだ。木に生る果実をもいで食べたとしても、数日後にはまた実がなっているのだから、餓えとは無縁の土地だ。
そのため麗扇京に住む民の殆どは、田畑を耕す暮らしではなく商売を営んだりと違う暮らしをしている。
「領主邸の食料の備蓄を解放しても、全ての亥領の民全てが冬を越すことはできなかった。領主である父は麗扇京に食料の援助を頼んだが、国庫を開いてはくれなかった」
柊の話を聞いて、撫子は目を見開いた。当時、帝は既に病床に伏しており丁度、皇后濃紫が実権を握る為に熾烈な争いが繰り広げられていた頃だ。女人を政治に介入させたくない勢力と濃紫を摂政にしたい勢力が争ったのだ。
当時の中央に、北端の飢饉に対応する余裕はなく無視されたのだろう。結局、争いが終結したのは帝のこれからの政は皇后に一任するという文書が見つかってからのことだ。
撫子は柊も皇后を恨む側の人間なのかと顔を見た。しかし、その瞳は撫子が感じた印象から違えることなく、水晶のように透き通っていた。