肆
「撫子の君、辰家の姫の茶会だろう? 抜け出してきたのか」
「どうしてそれを?」
撫子は驚いた。胡蝶の推測では、浜木綿の元には茶会の使いは来ていないはずである。それとも本当に、自分が皇太子妃になることは決まっていると確信して他家と馴れ合わないために断ったのだろうか。
「茶会の誘いはなかったけれど、後宮は皇后様、私の伯母上の庭だ。あの方は後宮の全てを知っている。ならば姪の私も後宮の情報を知っていてもおかしくはないだろう?」
すべては皇后濃紫の手の上で、後宮は彼女のための箱庭。撫子たち姫君はそこに用意されたお人形。そんな気分になった。
「あんまりいい茶会じゃなかったんだろうな」
浜木綿はこちらを気遣うような目線を向けた。それはとても他家とは馴れ合わない姫君の噂とはかけ離れていた。こんな人なら皇太子妃に相応しいだろうと素直に思えた。
撫子は地面に落ちた桜の花や花弁を見つめた。自分が地に落ちて汚くなった花のようにみじめだった。
「姫様!」
凛々しい声が聞こえる。水無月宮の女房たちが浜木綿を探しに来ていた。
「また不死桜ですか。お好きですね。 しかし突然、いなくなるのはやめていただきたい!」
主人の性格ごとに女房も雰囲気が違うが、浜木綿の女房も主人と同じく強い意思を持った瞳をしていた。歳は浜木綿より少し上に見える。
「悪かったな、早蕨。ついつい、桜に誘われてしまってな」
早蕨と呼ばれた女房はため息を吐いた。気安い言葉から、浜木綿と早蕨が姉妹のように育って来たと想像してしまう。
「姫様、あまり不吉なことは口にしないでくださいまし」
早蕨が声を顰める。
「不吉? 不死桜が?」
撫子が春風から聞いた話では、嵐が来ても倒れないから不死桜というとても強く明るい理由からの命名だったはずだ。そこに不吉な要素は見当たらない。
「卯家の姫様はご存知ない?」
早蕨が信じられないものを見る目で撫子を見た。今日は何だか、ご存知ない? と自分の無知さを突きつけられてばかりだ。
「不死桜、神秘的な美しさでしょう。人が死んだのですわ。あの桜の木に首を吊って。だから人の血を吸って綺麗に咲いていると噂が」
「早蕨」
浜木綿が早蕨の言葉を遮った。
「撫子の君が怖がっているじゃないか。そのあたりにしておやり」
早蕨ははっとしたように撫子の顔を見た。撫子は自分の顔から血の気が引いていくのを感じていた。きっと青くなっていることだろう。
「何、不吉な噂が付き纏おうとも、桜が美しいのは変わらないじゃないか。巳家の花見は桜じゃなくて藤だったから、桜が少し珍しいんだ」
浜木綿が励まそうとしていることはわかった。そして彼女が撫子の幼き日の桜の思い出を踏み躙らなかったことに少し安堵していた。巳家の花見が藤ならば、桜と皇太子との思い出は撫子だけのもののような気がしたからだ。
彼とは従兄弟で、伯母である皇后からも気に入られ、青紫を許された。そんな撫子に一つも勝ち目がないような浜木綿という姫君にも持ち得ないあの桜の思い出は、撫子の中に宝石のような輝きを持ってしまわれていた。
「撫子の君、女房に黙って桜を見に来ていた私が言うのも何だが、一人で後宮内を彷徨くのはあまり良くないよ」
そこで撫子は花弦の茶会から抜け出す際に、胡蝶の後を追うのに必死で別室で待機していたであろう女房たちに声を掛けるのを忘れていたことに気づいた。
「ご忠告ありがとうございます」
撫子はそうは言ったもののまた皐月宮に戻る気にはなれずにいた。それを察してか、浜木綿は後宮の警邏をしていた娘子軍の兵士を引き留めた。
「娘子軍に卯月宮まで送って貰いなさい」
浜木綿は娘子軍の鍛えられた兵士たちと並んでも遜色がないほど長身で引き締まっている事を再確認した。娘子軍とは後宮内を警備する目的で女だけで組織された皇后直属の小規模な軍である。
袴姿の女たちの腰には刀が差してある。確か、門の内側を守る門兵の娘子軍は薙刀を持っていたはずだ。
浜木綿は女房たちを引き連れ去っていき、撫子も娘子軍の兵士に促されるままに卯月宮へ帰路についた。ただ不死桜の噂が撫子の心に澱のように沈んでいた。
人が死んだ。あの桜で。
その事実に反してあの桜は撫子の心を掴んで離さない。それが恐ろしかった。
卯月宮の前では、春風と薊と春日が心配そうに待っていた。娘子軍に連れられた撫子を見て、春風は人目も気にせず着物の裾をたくし上げ撫子に駆け寄った。
「姫様! 辰家の姫君からは先に帰られたと聞いて、心配いたしました」
「ごめんなさい、春風。あなたたちに声を掛けるのを忘れてしまって。気が動転していたものだから」
春風に促されるように撫子は卯月宮の門を潜って中に入った。娘子軍の兵士たちは頭を下げて撫子を見送る。薊や春日も心配そうに撫子を見つめていた。白粉をしていてもわかるほど顔色が悪いのだろう。
「姫様は昔から病弱でしたからね。安眠できる香を焚きますから、今日はもう寝てしまわれるのがいいですわ」
「春風、眠るまでそばにいてくれる?」
口から出た言葉が思ったより弱々しく撫子は自分の声に自分で驚いた。
「まぁ、昔のようですわね。もう裳着を済ませたというのに姫様ったら」
春風はそう言いながらも、断りはしなかった。御帳台の中に置かれた布団に潜り込むと、傍で春風が待機してくれた。
「ねえ、春風。不死桜で人が死んだというのは本当なの?」
春風は顔を蒼白にして、何処でそれを…と呟いた。
「今日、不死桜の下で巳家の浜木綿の君にお会いしたの。その女房の早蕨という者が言っていたわ」
春風は唇を噛み締めた。言うか言わまいか迷っているようだった。
「春風、教えて。私は今日、ご存知ないの? って馬鹿にされたわ。知らないことが沢山あるの。皆は知っている当たり前のことをよ」
撫子の言葉を聞いた春風は覚悟を決めたような顔つきになった。
「病弱な姫様が倒れてしまわないか、心配で幼少から外気にあまり触れさせないようお育てしてきましたが、後宮ではそれが仇となりましたわね」
「春風、私はもう立派な大人よ。話して」
撫子はそう頼み込んだ。春風は私から見れば姫様はまだまだ子供です、と手櫛で髪を梳かすように撫でた。
「今上陛下には皇后様の他に一人、側室の方がいらっしゃいました」
過去形ということはもういないのだろう。もしや、その側室が桜の木で──。
「菊の枝様といって、内親王様たちの母御前でございます。しかし菊の枝様は三つ子の内親王様たちを産んだことにより、畜生腹と罵られ、蔑まれ、最後には皇后様から贈られた香の煙が閉め切った部屋に充満し、亡くなられました」
撫子はその話を聞いて思わず、口元を押さえた。
「菊の枝様の死に深く責任を感じた女房の一人があの不死桜の木で首を吊りました」
そこで一旦、春風は口を閉じる。彼女の握り締められた拳は悔しさからか震えていた。涙を堪えているようだ。
「その首を吊った女房というのが、姫様のお母上である菘様です」
「嘘よ!」
撫子は飛び起きていた。
「だって、お母様は私が生まれてすぐに亡くなったんでしょう? 」
春風は気まずそうに目を逸らした。撫子は今まで自分を産んだことによる産褥で弱って死んだのだとばかり思っていた。撫子はそのことに関して罪悪感すら抱いていた。
「長波様はそういうことにしておられますが、真実は違うのです。姫様を生んだ後も菘様は健康そのもので生きておられました。当時、内親王様たちを身篭られた菊の枝様が出産経験がある女人を側に置きたいという願いで、友人だったという菘様が宮に上がりました」
春風は涙を堪えているようだが、声は震えていた。
「私は菘様と乳姉妹でした」
そう言った瞬間、春風の中で何かが決壊したようだった。滝のように涙を流している。
「私は菊の枝様は皇后様に殺されたのだと思っております。そして菘様も皇后様に…」
春風は声を顰めて、呟いた。
「香に混ぜ物をして有毒な煙が出るようにしたに違いありません。そしてそれに気づかれた菘様を自殺に見せかけ殺したのです」
撫子は声が出なかった。何と声をかけたらいいのかもわからない。悲痛な春風の姿に今まで慈母のようにおおらかで頼もしい存在だった春風の姿が急に小さく頼りなく見えた。
「私は本当は姫様が後宮へ行くのをあまりよく思っておりませんでした。旦那様は何をお考えなのかと。姫様に菘様と同じ轍を踏ませるつもりかと思ったものです」
しかし、周りの撫子の後宮入りが祝福される雰囲気に言い出せなかったのだろうということは想像がついた。それでなくとも、一介の女房が当主に意見できるわけもないのである。そして、卯家の邸にいても凰鈴の存在が撫子の人生を邪魔し続けることになる。
「でも、春風。あなた、牛車の中で私に言ったわよね。私が入内できれば…って」
春風は母親の仇である女の息子に撫子を嫁がせたいと思っていたのだろうか。申し訳ございません、と春風は頭を下げて床にひれ伏す。
「姫様が入内し、あの女の懐に潜り込めれば菘様の死の真相に近づけるやもしれぬと打算があったことは認めます。しかし、姫様に幸せになってほしい気持ちに嘘偽りはありませぬ!」
春風は必死に言葉を紡いでいた。
「あの蛇女を廃し、皇后の座に就くことが一番の復讐だと思っております。それに、姫様には好いた相手と結ばれてほしいのです」
好いた相手、その言葉に撫子の想いは全て春風にはお見通しだったことに気づいた。
「春風…いつから、その…私が好いている殿方がいると…」
「皇太子殿下でございましょう。姫様を見ていたらわかりますもの。姫様、桜を見にいかれた日からぼんやりなされることが多くなって。あの日、卯家の別邸近くの保養地には皇后と皇太子殿下が湯治にいらしていましたもの。姫様があの日、皇太子殿下のお姿を拝見する機会があったのでしょう」
春風はあくまで撫子が遠目から皇太子の姿を見て一目惚れしたかのように考えているようだが、実際はその衣に焚き染められた香の匂いがわかるほど近くで見たのだ。
一目惚れ、というのは認めたくはないがそうなのだろう。彼が撫子の風に飛ばされた被衣を捕まえて、被せてくれたことが胸を焦がすような熱量を持って思い出させる。
若柳のような腕。その中に閉じ込められたいと願う。けぶるような睫毛に彩られた瞳に唯一映して貰いたいと願う。その口から名を呼んでもらうことができたなら。
「春風にはお見通しね。私、皇太子殿下に恋しているみたいなの。さっきの春風の話を聞いても、私は皇太子殿下のことが好きなままだった。私、おかしいの。お母様を殺した女の息子が好きだなんて」
春風はしばらく黙っていた。その沈黙が恐ろしくて撫子は俯いて布団を握りしめて皺を作っていた。
「何も、おかしなことではありません。姫様の気持ちは誰にも犯せぬ姫様だけのもの。それに私も、皇后は憎いですが息子である皇太子殿下までもが憎いわけではありません」
何より菘様が亡くなった時、まだ皇太子殿下はまだ幼く菘様の死に関わっているとは思えませんと春風は続けた。
「さぁ、姫様ももうお疲れでしょう。目を閉じてゆっくりお休みください」
安眠できる香の匂いが鼻に届く。春風が香炉を近くに置いてくれたことがわかった。あんな話を聞いて、眠れるわけないじゃないかと抗議したくなった撫子だが瞼は重くなって、すっかり闇の世界へと撫子を誘う。
そうしていれば、春風の言う通りすっかり眠ってしまった。撫子の最後に口に出そうとした言葉は声にならずに眠気が掻き消してしまった。
春風は濃紫と皇太子を別と考え、親の罪を子が背負うことはないとい考えなのは間違い無いだろう。だからこそ、撫子の恋を応援してくれる。
しかし、撫子の恋を応援するのは菘の死の真相に近づくための手段でもある。親の罪は子に背負わせないのに、親の死の復讐は子に背負わせるのか。
そんな考えは深い沼の中に沈んでいった。春風は愛情を持って撫子を育ててくれた。ただの自身の復讐の道具として見ていたのならこうも情をかけることはない。
そもそも撫子が後宮入りする話も一年前に降って湧いたものであり、撫子は本来なら宮廷と関わることのない人生を歩むはずだった。当然、春風もそう思っていただろう。
しかし撫子の後宮入りが現実になると、本来ならば忘れようとしていた復讐心に火がついたのかもしれない。一度何かの感情に火がついたなら止められないことは撫子でもわかっていた。
なぜなら、撫子の恋心だって火がついて燃え上がって全身を焦がすような大きな炎となってうねっているのだから。