参拾参
神鳥殺しの犯人を捕え、柊の冤罪を証明した後に残されたのは、傀儡として祭り上げられた秋彦の処遇である。
彼はただ家族に会いたい、その気持ちを利用されただけなのはよくわかっているが叛逆者の長の立ち位置に収まった秋彦を何の咎めもなく解放するわけにもいかなかった。
八束は帝から榮に玉璽を盗まれたと聞かされ、すぐに榮を捕えるように命令した。最悪の場合、後宮にいる身柄を抑えた薄を人質にして交渉するつもりだった。
他の姫たちより厳重に拘束された薄は今にも噛みついて殺しそうなくらいに八束を睨みつけていた。
秋彦はただ清々しい様子で、拘束されながらも真っ直ぐ前を向いて八束を見据えていた。
「国を混乱に陥れた罪として、秋彦を巳領の離れ島、桑木島へと流刑に処す」
八束のその裁定が、非常に甘く秋彦への愛に溢れていることを浜木綿と柊だけが気づいた。本来の流刑地は亥領の更に北にある離れ島にされることが多い。亥領本土よりもさらに厳しい寒さに凍死するものが後を経たない厳しい土地だ。
そんな土地に幽閉されれば日照時間の短さも相まって気が狂い流刑者は早死にする。しかし、今回の流刑先である巳領の桑木島は南側で冬は温暖、濃紫が愛した避暑地でもある。
八束の優しさに気づいたのは桑木島が罰するための流刑地に相応しくないことを知っていた浜木綿と、本来の厳しい流刑地有している亥領の柊だけだった。
後ろに手を縛られ、歯を剥き出しに唸っているような恐ろしい形相でその裁定を下した八束を薄が睨みつけていた。何かが、床に落ちる。それが薄を拘束していた縄だと気づくのに、周りの誰もが遅れた。
「許せない!」
薄は叫んで鋭利な簪を八束に向かって投げつけた。削って尖らせた簪で先程まで自分を縛っていた縄を、撫子を糾弾している間に切っていたのだ。
簪は八束に届く前に日照雨によって剣で叩き落とされた。秋彦は自身が拘束されていることを忘れて、庇いに駆け出したいというように体を捻った。
柊は、危険を察知した瞬間に思わず弓を構え矢を射っていた。矢は薄の腹に突き刺さり、薄は崩れ落ちた。
「許せない、許せない、許せない!」
薄は叫んだ。腹に矢が深々と突き刺さって倒れたのにも関わらず、這ってでも八束に近づこうとする。それを兵士たちが押さえ込んだ。圧迫されて矢が内臓の深くまで刺さったのか、鈍い声を上げた。
「それは毒矢だ。解毒剤はない」
八束は静かに薄に告げた。亥領の兵士たちは自身で毒を調合し、巧みに弓を使うということを知っていた。柊の毒矢に解毒剤はないことを知っていた。八束は自身を明確に殺そうとした者に情けをかけるつもりはなかった。
薄が、最後に悪あがきなどしなければ八束は命までは取るまいと思っていた。娘の薄も榮の野望に利用された被害者だと思っていたからだ。
そして、榮に対して彼が各家に姫たちを人質にとったのと同じく薄を人質として投降するように呼びかけるつもりだった。
「憎い、お前が憎い。その座は秋彦様のものだったのに…」
薄は八束に対しての呪詛を吐き続けた。しかし、毒で舌が痺れてきたのか呂律が回らなくなってきていた。
「薄、私は兄上に成り代わろうとは思わない。家族に会ってみたかった。その願いがこんなに大きなことになってしまった。私は償わなければならない」
秋彦は俯いた。そして続けた。
「松景に師事する日々は辛くはなかった。薄が、来てくれることもあった。思えば、私はあの日々を大切にするべきだったんだ。近くにいた自分を愛してくれる人の存在に気づくべきだった」
秋彦は倒れている薄の瞳を見た。
「だから、残念だよ。薄がこんなことになってしまうなんて」
秋彦は自分の家族である八束を害そうとした薄のことを許すことはなかった。しかし、薄は毒が回っているのに心底不思議そうな顔をした。
「どう…して…?」
それが薄の最後の言葉だった。疑問を解決されないまま薄は事切れた。
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その後の日々は早く過ぎていった。玉璽を盗んだ大罪人、榮は帝の名を騙り帰ってきた八束は八束を騙る偽物であるという主張を玉璽を使って民衆に流布させたが、八束の持っていた神器の威光がそれを打ち消した。
榮が自身と秋彦の立場を盤石にするために広めた、神女撫子の伝説も神鳥殺しの真相と共に鬼女撫子の伝説へと姿を変え、八束が神器を携え日の神の加護を受け神馬に乗って逆賊の手に落ちた麗扇京を解放しにきたという話を流布させることで打ち消した。
榮は逃亡の末に、午領の廃村にて見つかり麗扇京にて処刑された。酉家の者たちが連座させられることはなかったが、貴族の身分を剥奪され奴婢の身分へと落とされた。
酉の名を冠する家が潰えたことにより、八束側に味方した貴族の中の功労者に、酉の名を冠する許しが出た。
本来、その功労者は日照雨だったのだが彼がその褒章を辞退したために薙草の家を取り立てることになった。遺族を丁重に扱うことが彼への弔いになると信じて。
神鳥殺しの犯人である撫子を排出した卯家は、それが鴆毒の材料になることを知らなかったとはいえ撫子に宛てて贈ってしまった長波には当主の座を退き妻と子を連れ隠居すること。新たな当主は俸禄を大幅に減らすことになった。
卯家は親族の中から優秀な者を選び、中継ぎの当主の座に就け、長波の息子である蘇芳が元服した暁には彼に当主の座を譲ることに決まった。
皇太子の座に返り咲いた八束は反乱軍に加担した兵士たちの粛正と軍の内部を改め、麗扇京に平穏が取り戻されると後宮に閉じ込められていた姫たちを解放した。
妃が選ばれたからだ。皇太子妃となった人物に貴族たちは騒めいた。何故なら、異例の平民の妃だったからだ。
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蛍が光る山の中で、八束は柊に心を預けたいと願った。彼女に、比翼になって欲しいと願った。柊はそっと、八束の額の傷痕を撫で、そして傷痕に唇を寄せ触れるだけの口付けを落としてくれた。
彼女は八束の心を預かることを了承してくれた時に、柊は言った。
「じゃあ、代わりに私の心を貴方が預かって」
互いに預け合えば強い絆で繋がれると思った。そして、その証というように柊は八束の耳に唇を寄せた。
「本当の私を知っていて欲しい。私の、本当の名前は緋和。緋色の緋に、平和の和と読む」
真名は夫にしか明かさないものだ。八束はこの時、柊が八束の精一杯の求婚に頷いてくれたのだとそう思った。諸々の業務が片付いて、さぁ妃を選ぼう、柊を──緋和を迎えようとした時、彼女は後宮からの宿下りを願い出た。
「私、本当は妃選びの勤めを果たし終わったら亥家の姫を辞めようと思ってた。私は、母さんとイナと…家族と過ごしたいって思ったの」
緋和は静かに語った。八束も美世子と依菜に会ったことがあるからわかった。あの人たちは暖かい人たちだ。その人たちと引き離されて暮らすのが緋和にとっては辛いことも容易に想像がついた。
「だから、私は平民に戻る。もう亥家のお姫様じゃないから、貴方の傍にはいられない。私は、民の一人として貴方が造る国を見ていくから…」
ここで二人の道は分たれるのだと緋和はそう伝えようとしている。
「私は、緋和が何者になろうとも傍にいて欲しい。勝手に決めないでくれ」
八束は追い縋るように緋和の手を掴んだ。彼女は無理矢理にでも振り解こうとはしなかった。その手に感じる温もりを惜しむように感じていた。
「亥家から抜けたら、私は何の後ろ盾もない。貴族たちからは反対されるよ。妃になら浜木綿を選ぶべきだ。私は相応しくない」
緋和は泣きそうな顔をしながらそう言った。
「浜木綿では、私と血が近すぎる。秋のような奇形が生まれたのも巳家と婚姻を結び続け血が濃くなりすぎたからだ。浜木綿を伴侶にすれば、またこんな悲劇が繰り返されるかもしれない。それでなくとも、私は緋和を伴侶として迎え入れたい」
八束は緋和の瞳を見て続けた。
「けれど、もし自由を望み平民に戻りたいのなら止めることはできない。皇宮って窮屈な場所だし、陰謀は渦巻いているし、華やかに見えて暗いから…」
引き留めたいなら、もう少し良いことを言えば良かった。高級な絹や宝飾品が山ほどあるとか、暖かい布団で眠れるとか。しかし、彼女がそんなものに興味を惹かれる性質ではないことを八束はよく知っていた。
細々と作物を耕し、獣を狩り地に足をついて暮らす。そんな慎ましい生活が似合っていて、好きなのだと。
「ここで、私が断ったらあなたは一人で窮屈で暗い場所にいることになるのね」
「気にすることはないよ。他の姫を妃に選ばなければならないだろうが、私の心は他には移らない。緋和が預かってくれた私の心が共にあるのなら、私も皇宮の外で自由になったのと同じこと」
魂が共にあれば、離れていようとも一つ。緋和が外でのびのびと自由に暮らすならば心が共にある八束も、身体は皇宮に閉じ込められようとも自由なのだ。
「決めたわ、否…決めていたのよ。崖を降りる前夜、私はこの戦いで死ぬかもしれないって思った。死ぬ前に私は柊じゃなくて、ただの緋和だって知っていて欲しかった。私は、あなたのために地獄に落ちる覚悟だ」
緋和は八束に体を寄せて抱きしめた。
「一人にはしない。あなたと共に玉座に昇る」
それが野心からの言葉ではなく、比翼として八束と共に荊の道を進んでくれる言葉であるとわかった。結ばれることは、痛みを伴う。苦しみを与える。傷ついても、傷つきながらも緋和は八束と共にあることを選んでくれた。
お互いを苦しいくらいに抱きしめあった。そこに確かに命があることを、生きているということをお互いの体温から確かめ合うように。
こうして、平民の妃は誕生した。亥家から離れた緋和はもはや亥家の姫ではなく、十二の家の均衡を崩すことはない。皇宮に美世子と依菜を呼び寄せることで緋和の家族を守り、緋和を守った。
緋和は女房に裏切られて命が危なかった。実母と実妹が傍に仕えることになり、緋和も安心し、美世子たちに職を与えることもできた。亥家も元とはいえ、緋和のことを心配してか、薄氷がしっかりと教育した信頼のおける女房たちを遣わせた。
緋和が生きていると知らせた時の、美世子と依菜の喜びようは言葉では表せない。再会した家族は泣きながら抱きしめあった。
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皇太子妃の誕生は、民衆に広く受け入れられた。自分たちの階級から出た妃に皆が親近感を抱き、祝福した。逆に受け入れられなかったのが予想はしていたが貴族たちで、たとえ血だけは亥家に連なるものだとしても田舎者と馬鹿にしていただけに、受け入れられるものではなかった。
しかし圧倒的な民衆人気に貴族たちも一目置かなくてはならなかった。麗扇京を取り戻した八束の伝説に、こんな話が加わったからだ。
八束様のお妃様は、八束様が麗扇京を開放するとき隣で共に戦った──と。
万歳、万歳、万々歳という民衆の寿ぐ言葉の大合唱を日照雨は静かに耳を傾けていた。柊が乗る輿の護衛として馬で並走しながら、皇宮の幾つもの門を潜った。
御五衣、御唐衣、御裳の十二単を身に纏い、肩の辺りで髪を絵元結で結んでその先を等間隔に水引で束ねる大垂髪に髪を結われ金の簪と扇を持った姿で、柊は八束の手を取ると後宮の中へと消えていった。
その後ろ姿を焼き付けながら、日照雨はしばらくそこに立ち尽くしていた。
亥家の麗扇京の邸宅に着くと、日照雨は猪助の居る間に通された。酒が二つ用意されていて、猪助は座るように日照雨を促した。
「懐かしいな。お前が、姫を嫁に貰いたいと言い出した時のことだ。私はお前に条件を出したな」
「はい。覚えております。姫を娶るに相応しい功績を上げること、と仰いました」
猪助は注がれたら酒の水面が開いた窓から入る風に揺れるのを見ながらしみじみと呟いた。
「しかし、私はこうも言った。功績を上げても柊が了承しなければ嫁にはやれないと」
そう言って猪助は酒に口をつけ、一気に飲み干した。肴も摘まず、水も挟まず、強い酒を一気に…だ。日照雨は慌てたように「猪助様!」と声を上げた。
「よい。私が潰れても放っておけばよい」
「そういうわけにもまいりません」
日照雨の困ったような顔に猪助は鷹揚に笑った。
「終ぞ、私は父としてあの子に選ばれなかった。水朔には敵わなかった。今宵は飲もうではないか。選ばれなかった者同士」
日照雨も猪助の言葉を聞いて、酒に口をつけた。酉家の称号をやるといわれても断ったのはそんな大層な家名を貰ってしまったら継ぐ者を作らなければいけない。妻は一人でいい、たった一人でいいと思っていた。それが叶わぬのならば生涯結婚はしない。一人でいるために妻を必ず娶らなければいけない称号は断った。
柊の後ろ姿が思い浮かぶ。日照雨は、酒を流し込んだ。窓の外の月の光が日照雨を照らしていた。




