卅
「呪い!?」
辺りは騒然とした。薄の席に心配そうな顔をした撫子が近寄ってきた。
「まぁ、薄の君。お花がこんなに萎れて…。呪いかもしれないなんて、私は薄の君のお体が心配だわ」
目を潤ませて撫子が薄を見つめる。呪い…そんなはずはないと思いながらも断言できるほどではなかった。
「呪いならば何か証拠があるはずだわ、薄の君。一度神無月宮を調べてみたらどうかしら」
撫子の言葉に不安に駆られた薄は女房たちに命じて神無月宮を調べるように言った。そしてあまり人の目が届かない柱に呪いの札が貼られ、庭からは薄の真名である欣子と書かれた木製の人形が出てきた。
薄の真名が知られていることに恐れを抱いたがそれ以上に、その真名の書かれた人形の心の臓の部分に針が突き立てられていたというのが恐ろしい。
薄の死を望む誰かがいたということ。呪いは行われたという事実。女房からの報告を聞いて薄の体を震えさせた。そして呪いの犯人は誰なのか。髪を切るのは、喪に服す…出家…そして…
「髪を切るのは、死を望む呪いであることがある。浜木綿の君、髪を切ったのは呪いを成就させるためだったのね」
薄は尼削ぎの浜木綿を睨みつけた。
「私が、呪いみたいな不確かなものを信じるとでも? 菊の花が枯れたのだって花瓶に塩水を入れたのだろう。私は薄の君を呪ってなどいない」
浜木綿は動じた様子もなくそう言った。水無月宮を呪いの証拠を探すために娘子軍も投入され捜索されたが、浜木綿の言う通り呪いに繋がる証拠は何一つ出なかった。しかし、薄は浜木綿の宮の監視を強めることにした。
全て、浜木綿の仕業だったのだ。後宮内で未だ濃紫の影が残っている。だからこそ浜木綿を慕う女嬬たちも多い。まだ薄が後宮を掌握できていなかったことを思い知らされた。これは薄への挑戦だ。浜木綿は、後宮の問題を裏から手引きし、薄を後宮の女主人足り得ないと印象付けるための嫌がらせだ。
思えば、桔梗は浜木綿の取り巻きだったし細だって納涼の会で浜木綿に借りがある。浜木綿が指示したのなら、全ての辻褄が合う。細が顔を差し出すのは考えられないのでかぶれたような化粧をして包帯を巻いたのだろう。そうに違いない。
しかし、薄にとっての悪夢は現実に起こってしまった。
******
摂政となり政を動かしていた父、榮と後宮の面会制度を使い薄は久方ぶりに父と顔を合わせた。文のやりとりはしていたがこうして、顔を合わせたのは妃選びが始まる前以来である。
「お父様、ご健勝そうで何よりです。秋彦様には先日の残菊の宴の失態を文でお詫びしたばかりです」
呪い騒動のせいで皆、呪いに気を取られ秋彦の完璧なお披露目とは行かなかった。現在、秋彦は東宮に居を移している。榮はかつては八束の東宮学士だった人物を復帰させ秋彦に皇太子としての学びを与えようとしていたが、当の東宮学士は八束の死の知らせを受けるや否や春宮坊に辞職の文を残し姿を眩ましてしまった。
優秀な人物であったので逃してしまうのは、惜しいと捜索させてはいるがまだ見つかっていない。帝は病で静かだからいいが、未だ秋彦の存在を受け入れない古い重鎮たちがいるのも確かだ。彼らは痣がある皇子を受け入れられず、傍系から皇子を擁立しようという動きもあると言う。
許せなかった。秋彦をふさわしくないと切り捨てる理由を一つでも奴らに与えたくなかった。
「薄、最近の後宮は騒がしいようだな」
顎髭を撫でながら、榮は静かに尋ねた。
「はい。犯人を早急に捕えるように命じております」
薄の答えに榮は顎髭を撫でる手を止めた。
「問題が起きるということは後宮の管理を任されているお前の器が問われているということ」
気にしていることを突かれて薄の胸はずきりと痛んだ。
「帝は長くない。禅譲させ、秋彦様を帝に据えたい。しかし、神器は紛失した。急遽、御魂返しの儀を行い形代を神器とするように取り計らって入る。忌々しい濃紫め、神器を何処に隠しおった…」
父の怒りは薄にもよくわかった。しかし、薄は榮がその話を何かの前置きにしているような気がしてならなかった。不安が蓄積していく。
「神鳥も殺された。そんな中で、残ったものもある。神鳥の宣託を受けた者、神女である卯家の姫を秋彦様の正室に据えることが、神威も民意も味方に付ける策なのだ」
榮の言っていることを、薄は本能的に受け入れられなかった。信じたくなかった。
「な…何を言っているのお父様。酉家こそが、秋彦様のために一番お役に立った家。私こそが正室になるべきでは?」
「お前こそ、何を言っているんだ。神女の…神の上に立とうというのか? 卯家の姫こそが我々に残された最上の切り札。神女を皇后に頂き、秋彦様の地位を盤石なものにする。それが一番いいのだ。何、秋彦様にお前が嫁ぐな、という話ではない。お前は側室として、お世継ぎを産めばいい」
薄は目の前が真っ暗になっていくのを感じた。足元から崩れ落ちていくような感覚に襲われた。気づけば恥をも捨てて父の前で崩れ落ちていた。
「嫌、嫌、いやぁぁぁぁぁぁぁ!!」
薄の悲鳴を聴きながら、榮は呆れたような溜め息を吐いた。
「薄、皇后の座にこだわるのではなく将来の立場を優先させなさい。お飾りの皇后と世継ぎを産んだ妃。どちらが良いのかよく考えなさい」
そう言って泣き叫ぶ薄を置いて、榮は室を後にした。薄はしばらく床に這いつくばって涙を流していた。心配した女房たちが室に入ってきて、何事かと慰めらようやく薄は涙を止めた。
「神女…? いつの間にそんなことになったのよ。許さない! 秋彦様の唯一は私なんだから」
薄は爪を噛むと、女房たちを引き連れて卯月宮へと向かった。卯月宮で、撫子は優雅に流水琴を奏でていたようで薄の突然の来訪に琴の音が止まった。
「あら、薄の君。ごきげんよう。どうされたのかしら」
撫子はおっとりとした顔で人畜無害を装った、心底苛立つ笑顔で薄を出迎えた。薄は、何と言わずに撫子の頰を叩いた。
「きゃあ」
撫子が床に倒れ伏す。卯月宮の女房たちが「何をするのですか!?」と声を上げた。
「神女だなんて、持ち上げられて。さぞかし嬉しいことでしょうね。でも、秋彦様からの寵愛を受けれると思わないことね」
「何のことでしょう、薄の君」
赤く腫れた頬を抑え、涙を流しながら撫子は薄を見上げている。その姿が、弱々しく可憐に映ったのが余計に薄を腹立たしくさせた。
「うちの姫様をいきなり打つなんて! うちの姫様は神鳥に認められた神女様なのですよ」
審問の時にその場から追い出されていた女房が撫子を庇うように薄との間に入った。
「姫様、神女様を打つなど恐ろしいことにございます」
薄付きの女房たちでさえ怯えていた。しかし、薄から見れば撫子など神女ではない。ただの人間だ。しかも、一番腹立たしい部類の。
「薄の君、何かお困りごとでも? 私を打つほど不安定なご様子ですから私、心配ですわ」
撫子は立ち上がって心配そうに薄の顔を覗き込んでくる。「なんとお優しい」「慈悲深い…」と卯月宮の女房たちがささやく。薄は怒りで顔が真っ赤になった。
「きっと、呪いのせいですわ。薄の君は何者かに呪われたんですもの。きっと影響があったのですわ。私、今日のことは許します。きっと薄の君が物怪にでも憑かれたからだと考えますわ」
「あなた、私のことを馬鹿にしているの?」
薄が低い声で尋ねると、撫子は口元を袖で覆って首を振った。
「まさか、とんでもないわ! 私はただ様子のおかしい薄の君を心配しているだけで…」
薄は耐えられなくなって何も言わずに卯月宮を後にした。突然の行動に女房たちは慌てて薄についてくる。あの鈴の音のような甲高い声に、心配しているなどと白々しい嘘を言われるのは腹が立った。
薄は手に握っていた扇子をばきり、と真っ二つに折りその場に捨てた。この時はまだ、知りもしなかったのだ。蹄の音が麗扇京に向かっているなんて。
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亥領を出た義憤に駆られた兵士たち、これを「八束軍」とする──は監視の薄い山越えなど厳しい行軍を耐え麗扇京を目前としていた。ただし、麗扇京の正面とも言える扇が広がった形の裾野側から進軍はできない。そのため、皇宮の背面、麗扇山の山中に身を隠していた。
「柊、お前なんでここまで付いてきた」
携帯食料を齧りながら、日照雨は男装し自身と寸法違いの同じ兵士の衣に身を包んだ柊を見つめた。何故か彼女の男装という姿に違和感を持ったのは性別が女性であると知っている日照雨と八束だけで、他の兵士たちに年少者として可愛がられている。
その人は亥家のお姫様ですよ、とは言えなかった。
最初は亥領を出るあたりまでの見送りかと思ったが、柊はついに麗扇京まで着いてきてしまった。猪助も薄氷もせっかく帰ってきた娘を大切に守るために邸に残るように言ったはずだ。
そして、柊はかつて住んでいた房に戻り、女房たちも戻り、穏やかな暮らしを始めるはずだった。
「亥領の女は男が戦いに行くのに家の中で座して待つなんてしない」
柊は背負った矢筒を撫でた。戦う意思を暗に伝えたのだ。
「それに、神鳥殺しの汚名を着せられたままじっとなんてしてられない。私は、私で無実を証明する」
突風が柊の頰を撫でた。山桜の花弁がひらひらと舞う。後ろで一つに束ねた髪が、山桜の花弁と絡まるように揺れた。その姿に八束はどんな嵐の中でも倒れなかった不死桜を思い出した。
「柊…危険だってわかってるのか!?」
日照雨は今からでも説得できないかと、汗を垂らしている。麗扇京が戦場になると考えているため、そんな危険な場所に柊を連れていけないのだろう。名目上、八束軍となっているこの軍の指揮は日照雨がとっている。日照雨は戦闘が始まれば、八束を安全のために後陣にいて欲しいと思っているようだが、八束は断った。
八束のために命をかけてくれている者たちの恩義に報いるために先陣に立ちたいと願った。誰かに命を捨ててくれと願うなら、自分がその先頭に立たねばならないと思った。
兵士たちの装備、綿襖甲を着ている柊は女らしい曲線を隠すために衣の下に棉や布を詰めて平坦にしているのでどこから見ても若き武者に見えた。ただ声が高いことからまだ声変わり前の元服前の少年のような印象を与えてしまう。
その様子が、心配で他の兵士たちが放って置けなかったのか柊は時に食事を分けてもらったり、担ぐ荷物を代わりに持ってもらったりしたようだ。
女の身ながら厳しい行軍についてこられたのは彼女の強靭な精神力もあるが周りの気遣いもあっただろう。
「覚悟を決めているのならば、私たちが止めることはできないと思うよ。日照雨」
「八束様まで…」
日照雨は八束も共に柊が安全な場所にいるように説得してくれるものだと思っていたようだ。
八束は山の中に潜伏している陣から少し離れ、切り立った崖、皇宮の背面が見下ろせる位置まで来た。草むらからゆっくり顔を覗かせ、皇宮を見下ろすと人の気配が薄かった。皇宮の背面、北側は後宮となっている。華やかな小鳥の囀りのような笑いが耐えない場所かと思っていたが、まるで無人の宮のように静かだ。
「人がいないのか…?」
それならば制圧する時も楽でいいのだが。その時、後ろからついてきていた柊が首を振った。
「いや、中には人がいる。日照雨が調べて教えてくれたけど、どうやら姫たちはそれぞれの宮に軟禁されているらしい」
八束は息を呑んだ。母の時以上に後宮には恐怖が渦巻いている。その時、八束と柊の周りをぼんやりとした小さな灯が囲んだ。敵の松明の灯かと八束は剣を抜き、柊は弓を構えた。しかし、それが蛍であるとわかると二人は同時に安堵の息を吐いた。
「な…なんだぁ、蛍か。季節外れだとは思ったけどここは麗扇京だったね」
柊は気の抜けた声を出した。
「しかし、ここまで蛍が来るとは。蛍の住処の水場からは少し離れているのに」
八束は辺りを見渡して、蛍に指を近づけると指先に蛍が留まり淡い光を発していた。
「不思議な土地柄、もう何も驚かないよ」
柊は呆れような声を出した。蛍の光が崖下の皇宮を照らした。
「この崖、鹿くらいなら降りられると思うんだよね」
柊がぽつりと呟いた。
「実はわたしも同じことを考えていた。幼い頃、鹿がこの崖を下ったのを見たことがある。ただの野生の鹿だと思ったのだが、母上は言っていた。あれは神鹿だと」
神聖な麗扇山に住う神鹿。その記憶を鹿鍋で思い出した八束はこう考えた。
「鹿が降れるのなら、馬も降れる。私は明朝、この崖から奇襲を仕掛けようと思う」
これが、八束の隠し持った奇策であった。
「それ…馬に鹿って書いて馬鹿って読むんだよ」
柊に呆れられ、馬鹿じゃないのかと言われているのかと思った。しかし、柊は笑いを溢した。
「馬鹿作戦だね。嫌いじゃないよ」
蛍に照らされた柊の笑顔は綺麗だった。
「戦いの時、あなたに背中を預けたい」
柊は心地よい風を感じるように瞼を閉じた。八束も柊に背中を預けて戦えたらとても心強いだろうと感じた。
「背中だけでなく、心も預けていいだろうか」
柊はしばらく八束の言葉を考えたようだった。その沈黙の間が、八束には長く鼓動がうるさくて胸が破裂しそうだった。
柊はそっと、八束の額の傷痕を撫でた。そして傷痕に唇を寄せ、触れるだけの口付けを落とした。
「これは勇ましい者の証。あなたは強い、負けない。あなたの優しい心は預かるから、戦場では非情な判断を躊躇わないで」
視界の端にちらちらと蛍が映った。そっと柊の唇が離れていく時、寂しさを感じた。




