参
「これから卯家の姫君にお仕えしたします。春日と申します」
「同じく、薊と申します」
二人の女房が頭を下げた。この二人が宮廷で元々働いていた女房たちだ。撫子は頰を桃色に染め、春日の手を両手で包み込んだ。
「まあ! 私は撫子。これからよろしくね、春日」
そして同じく薊の手も両手で包んだ。
「薊も、よろしくね」
二人とも、戸惑っているように見えた。渋い顔をしたのは春風だった。
「姫様、そのような…」
撫子の馴れ馴れしい態度に何か文句があるようだ。
「だって仲良くなりたいじゃない。あ、春風嫉妬した?」
うふふ、と撫子は悪戯っぽく笑ってみせる。一番信頼できるのは春風だと、後で教えてあげなくてはと思った。
卯月宮はそれは美しい宮だった。代々卯家の姫君が大切に使ってきたのが伝わってくる。丁寧に使い込まれた調度品は、懐かしさを感じさせど古くは感じない。
卯家の別邸から持ってきた荷物の中には母の形見の品である螺鈿細工の箱と櫛がある。もちろん、妃候補に決まった撫子のため、父である長波は絹の着物をたくさんあつらえ、持ち物だって眩暈がするほど美しい品々を持たせて撫子を後宮入りさせた。
しかし、どうしても形見だけは持って行きたくて、ここまで来てしまった。美しい品々の中に並ぶ古びた櫛はこの空間では異様で、春日と薊も姫の持ち物として相応しくないという顔をしている。
「姫様、その古い櫛は…」
薊が恐る恐ると言ったように尋ねる。撫子が口を開く前に春風が答えた。
「それは姫様のお母上の形見にございます」
「そうでしたか! 申し訳ありません。『古い櫛』などと申してしまい」
薊は真っ青になって膝をつき頭を下げた。
「まぁ、謝らないで。お母様が使っていたものなのだから古いのは当然だわ」
撫子は涙目になっている薊を立たせた。薊は感激したように「姫様…」と呟いている。
「でしたら、姫様のお母上の形見の品は厨子棚に大切に保管しておきましょう」
そう言って薊は丁寧に、櫛が入った螺鈿の箱を厨子棚に仕舞い込んだ。そのあとは、正装で着飾った撫子を女房たちが着替えさせてくれてくれた。
夕餉は高く盛られた強飯に鯉の刺身に味噌がついたもの、鮑の羹に焼き蛸など豪華な食事が並んだ。何でも無事入宮の儀を済ませたお祝いなのだとか。撫子は舌鼓を打ちながら、食事を楽しんだ。
寝衣に着替えた撫子は御帳台の中に敷かれたふかふかの布団で眠った。
******
翌朝、禊を済ませた撫子は煮豆の粥と香香だけの簡素な朝食を済ませた。さて、これから何をしようかと悩み始めた時に卯月宮に皐月宮から使いが来た。
確か、皐月宮といえば辰家の姫君花弦の宮である。花弦は昨日、頭ひとつ抜けて美しいと撫子が感じた人物だった。使いの女房は、花弦が主催する姫同士の親睦のため茶会を催すので是非来てくれという内容を伝えた。
美しい人からの誘いに撫子は舞い上がって茶会の誘いを受けた。茶会に誘われるなんて初めてのことだ。
「どんなお着物を着ていこうかしら!」
浮かれている撫子に対して、春風の顔は険しかった。
「姫様、他家の姫君の前でくれぐれも粗相をしないでくださいまし」
春風は心配性ね、と撫子は笑った。撫子は自身の名と同じく撫子色の上衣を着て、髪を梳り、薄く白粉を塗って紅を差す。正装より見劣りするかと思われたが、普段着の質素さが逆に撫子の可憐さ、美しさを際立たせた。
皐月宮は卯月宮とはまた違った趣を感じさせる宮だった。迫力のある龍が描かれた屏風が金色に煌めく。几帳で仕切られているはずだが、今は取り払われていて茶会ができるようになっている。女房たちは隣の部屋に控え、完全に姫君たちだけの空間だ。
色とりどりの着物の波の中に迷い込んだかのようだった。着物に焚き染められた香の芳しい香りが花畑を連想させる。
「お招きいただきありがとうございます、花弦の君」
撫子は笑顔で花弦に挨拶した。しかし花弦は余裕そうに鼻で笑ったように見えた。しかしそれも一瞬のことで、花弦はその美貌を最大限に活かしたような微笑みを向けた。
「同じ妃候補同士仲良くいたしましょう、撫子の君。それに私たち、同じ青東出身ではありませんか」
辰家と卯家の所領が隣り合っている。今までそんなこと気にしたこともなかったが、同じ地方出身者がいると思うと何だか心強い。後宮でさっそく友達ができそうだ、と撫子は嬉しくなった。
「そうですわね! 私たちお隣同士ですものね」
撫子は頰を桜色に染めて喜びを表した。そしてもう一人、青東の出身であり卯家領の隣である寅家の姫、胡蝶が着物の裾を引き摺りながら近づいてきた。
「花弦の君、本日はお招きいただきありがとうございますわ」
花弦は仲良くなりたいですもの、と笑った。続々と皐月宮に集まってくる。てっきり昨日ぶりに妃候補の姫君たちが集うのかと思っていたが、空席が目立つ。子家の細、巳家の浜木綿、戌家の桔梗、亥家の柊の姿がなかった。
「では茶会を始めましょう。皆様の健康を祈って」
円座に着いた姫君たちを見渡して花弦が茶会の始まりを告げた。しかし、困惑したのは撫子だけではなかったようで丑家の茶梅が首を傾げながら尋ねた。
「あのぅ、花弦の君? まだ来られていない方がいらっしゃるようだけど始めてしまっていいのかしら?」
すると花弦は溜め息を吐いて悲しそうな顔になった。涙を堪えるように袖で口元を隠す。
「私、全員に茶会の使いを出しましたわ。でも、来てくださったのは皆様方だけ…」
その悲しげな表情に撫子は胸が締め付けられる思いだった。もし、撫子が花弦の立場なら泣き出しそうになる気持ちもわかる。花弦の話ぶりから、欠席した全員が参加できないことに対する詫びの一つもなかったことが伺える。
「ま…まぁ、浜木綿の君が来ないのはわかりますわ。皇后陛下の姪御だからって他家と馴れ合うつもりなんてないらしいですわ」
午家の睡蓮が扇で口元を隠しながら言った。
「浜木綿の君は皇后陛下の姪御だったのですか?」
撫子は疑問をそのまま口にした。口にした瞬間、失言だったと気づいた。
「まあ、ご存知ない? 現皇后陛下は巳家出身で浜木綿の君はその姪御に当たりますのよ。皇后陛下は浜木綿の君を皇太子妃にしたいと思っていらっしゃるはずよ」
花弦が優しく教えてくれた。
「皇后陛下は本来皇太子と皇太子妃にしか身につけることを許されない青紫を浜木綿の君にだけは許したそうですわ。皇家の方々にしか許されない、紫をまだ皇家の者ではない浜木綿の君に! とんでもない規則破りですわ」
酉家の薄が憤慨したように言う。そこで初めて、撫子は紫が皇家の者にしか許されない貴色であることを知った。否、記憶の隅で後宮入りに備え勉強した時に教えてもらったような記憶が薄らとあるが、今の今まで抜け落ちてしまっていた。
確か、混じり気のない紫は帝と皇后にしか許されず、皇太子と皇太子妃には青紫が、その他の皇族には赤紫が許されていたはずだ。桜の枝、梅の枝、桃の枝の三つ子の内親王たちが赤紫の衣を来ていたことを撫子は思い出した。
しかし、撫子は記憶の中に引っかかるものを感じた。桜吹雪が視界の端に散らつく。桜の少年は薄紫の衣を着ていた。あの少年はもしかして──
撫子が思考の海に身を委ねて漂いかけていたが、話題が移り変わったことにより現実に引き戻された。
「浜木綿の君が来ないのならその腰巾着である、桔梗の君も来ないはずだわ。それでも細の君と…柊の君が来ないのはわからないけれど」
申家の百日紅がそう口にすると、花弦は涙を目に浮かべた。
「きっと私は嫌われているんですわ。だからきっと来ないのよ」
「そんなことないわ、花弦の君!だって花弦の君はお優しいもの。嫌われているなんてそんな…」
撫子は慌てて花弦を慰めた。すると涙を袖で拭った花弦は「撫子の君こそ、お優しいわね」と笑った。
「柊の君は来られても困るではありませんか、花弦の君」
未家の清花がくすくす笑いながら言った。撫子はその言葉に棘のようなものを感じた。
「だって、一張羅が毛皮だなんて何処の蛮族ですの? 亥家は貧乏で野蛮だって本当だったのね。蚤や虱を飛ばして来そうで汚らわしいわぁ」
撫子は清花の言葉に絶句した。確かに変わった衣ではあったが、それを着こなす彼女は美しかったから。
「柊の君が来られるものなら見てみたいですわ。木綿の衣なんて私恥ずかしくて着れませんもの。それに、一張羅の毛皮もぼろぼろになっていたら、来れませんものね」
花弦が清花に同調するように笑いながら言った。撫子は冷水を浴びせられたように固まっていた。「撫子の君もそう思いますわよね?」と花弦に同意を求められだが撫子は頷けなかった。
団茶を火で炙って粉にし、お湯で溶かしたものが目の前に運ばれてきた。しかし、撫子は茶に口をつける気になれなかった。しかし、口をつけなければ失礼なので我慢して飲み込んだ。芳醇な味が口の中に広がるはずが、何の味もしなかった。きっと撫子の気持ちが沈んでしまっているからだろう。
その時、がちゃんと何かが割れる音がした。音の方に目をやると、胡蝶の手から茶器が滑り落ち床で無惨にも粉々になっていた。
「申し訳ありません、花弦の君。手が滑ってしまって」
花弦の笑顔が一瞬だけ崩れたが、すぐに笑顔に戻った。
「お怪我はありませんこと? 胡蝶の君」
「ありませんわ。でも、少し気分が悪いのでここで失礼させていただきますわ。この部屋、香の匂いがきつくって」
胡蝶がにやりと笑う。花弦の眉間に皺が寄った気がした。
「撫子の君も顔色がわるい様子。少し外の空気を吸われたら?」
そんなにこの場に居たくないという思いが顔に出ていただろうかと撫子は頰に手を当てた。胡蝶は颯爽と部屋から去っていく。「失礼しますわ」と撫子も胡蝶の後を追って部屋を出た。
清涼な空気が肺いっぱいに吸い込む。やはりあの部屋は胡蝶が言った通り香の匂いがきつかったのだろう。渡殿の先に胡蝶の後ろ姿が見え、撫子はその背に近づいた。
「胡蝶の君」
「あら、撫子の君」
振り返った胡蝶は蝶が羽化した時のように美しく鳳蝶のように鮮やかだった。
「あなた、自分が馬鹿にされていたことに気がつかなかったの?」
胡蝶は大きな瞳で撫子を見つめた。
「え?」
撫子は思わず間抜けな声を出してしまった。それに呆れたように胡蝶がため息を吐く。
「あなたの頭にはお花が詰まってるのかしら。あの茶会に呼ばれた時点で私たちは対等に見られてないのよ。とんだ侮辱だわ」
胡蝶は怒りに震える右手で拳を握った。
「あの、それってどういう…」
「まだわからないの? これなら、花弦の君が敵じゃないって思うのも仕方がないわね。花弦の君は自分の容姿に絶対の自信がある。だからこそ自身の障害になりそうなものとは仲良くしないのよ。花弦の君が仲良くしたいってことはあなたのことは眼中にありませんってことよ」
胡蝶は苛立っているように見えた。もしかしたら、茶器を割ったのはわざとなのかもしれない。
「あなたの無知さ加減にも呆れるけれど、花弦の君をお優しいだなんて、笑えるわ。柊の君の毛皮を駄目にしたりしているのにね」
撫子は開いた口を押さえた。まさか、あれはちょっと趣味の悪い例え話ではないのか。
「柊の君が来れなかったのは、花弦の手の者が毛皮を駄目にしたのだと想像がつくわ。浜木綿の君や細の君たちには茶会の使いすらそもそも出していないんじゃないかしら」
「そんな…何故、そんなことを」
撫子はわなわなと震えた。
「言ったでしょう? 自分より皇太子殿下の目に留まる可能性のある姫君を引き摺り下ろしたいのよ。まずは柊の君からってことでしょうね。今回の茶会は自分に迎合してくれそうな者を探すためっていうのもあるでしょう。清花の君みたいな」
確かに柊の衣は珍しいもので目を惹くものだった。たとえ美貌で己が優っていたとしても衣の珍しさから皇太子が柊に興味を持つようなことがあるのは、花弦にとって許せないのだろう。
「もう、いいかしら? これくらい言えばあなたでもわかるでしょう。後宮はあなたが考えているほどお優しい世界じゃないし、人は善意で溢れてない。怖気付いたなら素直に宿下りを願い出なさい」
撫子は震えながら胡蝶が立ち去るのを見送った。そして一人になると急に心細くなった。お友達になれそう、と呑気に考えていたのは撫子だけだったのだ。
撫子は駆け出していた。はしたないなど考える余裕もなく、ただ桜のことが頭にこびりついていた。桜の少年。会いたい、優しく彼は何を語りかけてくれるだろうか。そんな思いから足が向いたのは不死桜だった。
風が吹く。桜吹雪が舞って、あの日の再演のような雰囲気だ。桜の薄紅の雨の中に違う色を見つけた。ひらひらと揺れて、衣のようだ。その色は青紫。
撫子は一瞬息が止まった。あの桜の少年が大人になって不死桜の下に現れたのだと思った。あの少年の衣、薄紫──薄くとも紫なのだから皇家の縁者だろう。薄紫は若宮が身につける色。撫子の推測が間違っていなければ、あの日の少年は幼き日の皇太子。
あの桜の群生地の近くにある温泉に皇太子は皇后と湯治に来ていた。もし、皇太子が桜が綺麗だと撫子と同じことを考えて周りの従者たちの目を躱し、あの桜を見に来ていたのだとすれば。そんな奇跡が重なっていたのだとすれば。
撫子は目の前の青紫をじっと見つめた。見逃さないように。桜の雨が止み、背の高いその人を鮮明に映し出す。
「あ、あのっ!」
撫子が声をかけて振り返ったその人は撫子の思い描いていた人物ではなかった。黒の組紐で髪を後ろで一つに縛っていた浜木綿だったからだ。何故、という疑問はすぐに打ち消される。先程特例で浜木綿だけは青紫を纏える権利を皇后から得たのだと聞いたばかりだ。
浜木綿は急に声をかけられて戸惑ったようだった。しばし何か思いを巡らせた後、口を開いた。
「たしか、卯家の姫君だったな。何用か?」
「…撫子です。申し訳ありません、人違いをしたみたいで」
あの日の少年、今は青年になっているであろう皇太子はここにはいなかった。
「人違い? 誰と間違えたんだ」
浜木綿は不敵に微笑んだ。
「えっと…」
撫子が言葉に詰まっていると浜木綿は意地悪して悪いなと笑った。
「大方、衣を見て皇太子殿下と間違えたんだろう。あの方と私は従兄弟同士で顔も似ているからね」
図星だった。撫子はたじろぐ。じっと浜木綿を見つめればあの日の少年の面影をその顔に見ることができた。纏め結ばれた髪を靡かせ、浜木綿は髪は邪魔だから普段は結んでるんだと言った。
「妃候補になったからには、殿下の寵愛を受けたいと願うことは自然なことだ。抜け駆けしたくなる気持ちもわかる」
だけどね、と浜木綿は続けた。
「狡いことだけれども、私は青紫を手放す気はないよ」
そう言って浜木綿は自身が纏った青紫の衣を掴んだ。皇后から青紫を許された。それは皇太子妃にほぼ内定されたのと同じことではないか。こんな美しい人と自分は競うまでもなく、勝敗は決まっていた。それをまざまざと見せつけられ、撫子の心は沈んだ。