弐拾玖
後宮は、伏魔殿だ。濃紫が仕切っていた後宮も恐ろしかったが、薄が実質的な後宮の長になってから後宮は息をするだけでも恐ろしい場所に変わった。
青紫を纏う薄は十家の姫たちをそれぞれの宮に幽閉した。宮同士の交流がなくなれば、神鳥殺しのような問題は起こらなくなると誰もが思っていた。
しかし、実際には問題が起こり薄の後宮の長としての統治する力、資質が問われていた。
まず、姫たちの幽閉が始まった頃。子家の姫、細の住む宮、睦月宮で事件は起こった。
細が使用する糸瓜の化粧水に何者かが、毒性の植物を混ぜたので細の雪のように白い肌は爛れたようにかぶれてしまった。
「そんな顔で秋彦様の側室にはなれないわ」
唯一、後宮内を自由に歩き回れる姫である薄は睦月宮に訪れるとそう吐き捨てた。痛々しく顔に包帯を巻いた細はきつく薄を睨みつけた。包帯の隙間から光る眼光は鋭い。
「本当は側室なんて選ぶ気がないのでは? あなたがわたしの化粧水に悪戯したのかと思いましたわ」
口を動かすたびにかぶれた皮膚が引っ張られ苦痛に耐えながら細は薄に疑問を口にした。
「秋彦様をお支えするためには他家の力もいるわ。でも、あなたはそんな顔で秋彦様の前に現れないでちょうだい。秋彦様は自分の痣を思い出して苦しんでしまうでしょうから」
その言葉を聞いて、細は皮膚が痛いのも構わずに笑った。
「あはは! あなた、わたしの今の顔が秋彦様の劣等感を刺激すると考えたのかしら? あなたの愛って薄っぺらいのね。あなたは秋彦様の痣のこと全然受け入れてない。むしろ、欠点だとすら思っている。これが笑えずして何を笑うのかしら」
ばちん、と頰を叩く音が響いた。女房たちが悲鳴を上げて細は茫然とした。今、自分の頰が叩かれたのだ。かぶれた痛みと共に叩かれた痛みがじくじくと襲う。
「秋彦様を侮辱するな、このどぶねずみが」
薄は顔を真っ赤にして細を睨みつけていた。その必死さが逆に滑稽に見えてくる。
「どちらかと言うとあなたを侮辱したのですけれど」
痛む頰を抑えながら細はにやりと笑う。
「それにしてもあなたも短絡的ね。秋彦様に味方を増やしたいと願うなら武力を持つ我が子家を敵に回すようなことは控えたらよろしいのに」
「あら? 頬紅を塗ったみたいにしてあげたのよ。その醜い顔が少しでもましになるようにね! 化粧の手間が省けてよかったじゃない。手形の頬紅なんて卑しい一族の姫にはお似合いよ」
薄も負けじと言い返して笑った。
「野蛮だ何だと蔑む柊の君がいなくなったから、今度は私ですか」
玄北は耕作地が少なく、税である米を収める量が他領より少ない。その代わりに兵役につくのは玄北地方の者が多い。それを薄はわかっているのだろうか、と細は思う。今は圧倒的な武器の量と勢いで押さえ込んでいても酉領の兵の質はたかが知れている。
今は黙って耐えている皇宮の兵の大半、玄北地方出身者たちの脅威をわかっていない。そしてそれを御せるのは細しかいないということを。
同じ玄北地方の姫には丑家の茶梅がいるが、彼女は向いていない。それは薄もわかっているのか茶梅を脅威とは感じていないようだ。
「本当に秋彦様を思うなら、わたしを敵に回さないことね。化粧水に悪戯なんて…」
「私は何もしていないわ。あなたが酷い顔になったのは愉快だから、あなたの化粧水に悪戯した誰かさんには感謝ね」
薄が笑うと細は黙った。そして、真剣な瞳で薄を見据えた。
「あなたじゃないのね。なら、こうは考えないの? 次は自分かもしれないって。あなたの知らないところで誰かが動いているのよ。秋彦様の正室になるなら、後宮の管理もしっかりしなきゃ。ね? 薄の君」
薄は唇を噛み締めた。
「どうせ、あなたの自作自演か花弦の君あたりがやったに決まっているわ」
「私たちはあなたのように自由には動き回れないのよ。あなたの禁足令によってね」
冷たい空気が二人の間を駆け抜けた。先程までは怒りで真っ赤になっていた薄の顔が真っ青になっていく。自作自演で自分の顔を駄目にするほどの勇気を細は持っていないと薄もわかっていたのだろう。
そして先程まで気づかなかった。自分の力の範囲外で動く誰かの存在に。真っ青な顔のまま薄は自身の女房たちを引き連れて睦月宮を後にした。
******
細の化粧水事件のすぐ後に、霜月宮で小火騒ぎが起きた。何者かが油が染み込んだ藁に火をつけたのだ。幸い、霜月宮の外壁を少し焦がす程度ですぐに収まったから良かったものの、危うく全焼するところだった。
この件で、すっかり怯えてしまった桔梗は宿下がりを薄に願い出たが、人質を易々と解放するわけにもいかない。しかし、桔梗は霜月宮にこれからも住まうことを嫌がり薄に泣きついてきた。
「薄の君、私の命が何者かに狙われております。そんな場所にじっとしていろなどあんまりではありませんか」
薄に謁見を申し込み例外的に霜月宮の外に出て、神無月宮に来ていた桔梗は顔を合わせるや否や平伏した。この女、薄が台頭するまでは浜木綿の一番の取り巻きであった女だ。どちらが勝つのか見極める嗅覚が鋭い。
実家との交流を断たれている今、戌家からの指図で誰につき尻尾を振るのか決めているわけではなく、桔梗自身が見極めていることなのだろう。
寝返りの速さは一級品だと、薄は内心ほくそ笑んだ。倚子に座り、伏した桔梗を見下ろすのもなかなか心地よいものだった。しかし、桔梗の顔は怯えていて今にも殺されそうであると盲信しているように見える。
「お願いいたします。どうか…わたしを実家に帰してくださいませ。戌家は秋彦様、並びに薄の君を害さないと誓いますゆえ…」
泣きそうな声を出しと桔梗は小刻みに震えていた。確かに、姫たちを軟禁するのには反発があったが武器をちらつかせて黙らせた。こうして正面から頼み込んできたのは桔梗が初めてのことだった。
「あなたは霜月宮に居たくないだけでしょう? ならば今は無人の師走宮に移ればどうかしら。あの宮が亥家の姫以外の手に渡ったという前例はないけれど間借りする程度ならわたしが許しましょう。何せ、亥家は文句を言わないからね」
「そんな! 神鳥殺しの罪人が住んでいた宮に住まえと! 月光宮の一室で構いませんのでそちらに移れないでしょうか」
桔梗は涙を流しながら顔を上げた。この女は図々しいし、我儘だと薄は思った。無人の宮はもう一つある。皇后濃紫の寝殿であった月光宮である。しかし、そこに住まわせるのは許せないし、何より濃紫の私物を処分し終わったら月光宮は薄のものになる。
桔梗の魂胆はわかっている。まず最初に後宮から解放するという無理難題を突きつけた後に本題を突きつける交渉術である。
「あなたは、誰に尻尾を振るのかわかっているようね」
薄はにやりと桔梗を見つめる。少し、桔梗の肩が跳ねたのを見逃さなかった。
「それはもちろん、将来皇后となられる薄の君に」
主人が伏したなら女房たちもそれに倣って伏している。自分に伏した人間を見るのは快感だ、と薄は思う。浜木綿の近くで甘い汁を吸っていた桔梗がすぐに情勢を見極めこちら側に付きたいと願い出る姿も滑稽で、裏切られた浜木綿を思うと自然と口角が上がってしまう。
薄は袴から艶かしい柔肌の素足を見せた。
「真に私に従うというのならば、足に頭をつけなさい」
桔梗の女房たちが息を飲むのがわかった。硬直した桔梗は青ざめながら、薄の足を見つめる。矜持が許さない行為なのだろう。浜木綿はこんなこと強要しなかったに違いない。
しかし、薄は信じられないのだ。まだ桔梗が浜木綿に内通している可能性も捨てきれない。麗扇山より高いその矜持を踏みつけてからでないと桔梗を信じられない。
桔梗がここで自分の矜持を守るならそれまでだ。しかし、桔梗は女房たちの視線に一瞬怯んで硬直したものの苦しげな表情をしながら薄の足に頭を受けた。
「姫様…!」
桔梗の女房のうちの一人が屈辱に震えたような声を出す。
「薄の君に従います」
桔梗の言葉を聞いた薄は深く頷いた。
「良いでしょう。師走宮に移るのが嫌だというのなら、霜月宮の警備を強化します。放火の犯人も探していますから、すぐに見つかることでしょう」
桔梗はそれで渋々と引き下がった。本当は安全な場所に逃げたかったのだろう。桔梗はわかっている。後宮に安全な場所などないことを。
******
後宮で起きた事件の犯人探しに薄が乗り出さざる負えなくなった頃、そんな不安を払拭しようという思惑もあったが本格的な側室選びのため、後宮の姫たちに秋彦をお披露目する機会として残菊の宴が開かれた。
菊を模した格子窓に菊の透かしが入った灯、宴会の広間が秋の終わりに染まる。それぞれの席には菊が添えられていた。
この秋彦のお披露目に薄は力を入れた。もちろん、事件の犯人は兵士たちに探させてはいたがあまり深刻には捉えていなかった。細の化粧水は花弦の嫌がらせかもしれないし、桔梗の霜月宮の放火はただの失火であると考えた方が都合が良かった。
秋彦に関する事柄が薄にとって一番重要だった。秋彦との出会いはまだ彼が稚児で薄が童だった頃に遡る。酉領の寺に薄の母は男児を授かるように毎日のように通い仏に祈っていた。
それに付き添うようにして薄は寺を訪れた。日に日に父からの薄れゆく愛を繋ぎ止めたい一心で母は熱心に祈っていた。
秋彦には浅黒い痣が顔の半分近くを覆っていた。他の稚児たちからは腫れ物を扱うように遠巻きにされ、いつも一人で隅の方で庭掃除などをしていた。話しかけたのは、薄の方からだった。
本堂に母と二人男児を授かるように祈っても居心地が悪かった。母はいつも薄が男だったらよかったというような目を向けてくるから。
「あなたもひとりなの?」
はじまりは不思議な問いかけからだった。薄は多くのものに囲まれていてもいつも孤独だった。豪華な調度品も褒め称えてくれる女房たちもどれも誰もが薄を遠巻きにしているように感じた。
だから、最初に感じたのは親近感だった。
「痣が醜いから、わたしはいつも一人なのです。酉家のお姫様」
「そう。私たち、ひとりぼっちなところは似たもの同士ね」
ひとりぼっちとひとりぼっちが出会ってふたりぼっちになった。誰から理解されなくても、二人でいれば寂しさは紛れた。寺に行く時は薄は秋彦に会いに行った。その時はまだ秋という名前だった。
いつしか淡い恋心を抱くようになった。薄は父の榮に寺の者と結ばれるにはどうすればいいのか尋ねた。父は簡単だ、還俗させればいいと言った。しかし、そうは言ったものの娘を元僧侶に嫁がせるのは勿体ないと考えたようで渋い顔をしていた。
しかし、父が薄の想い人が顔に痣があると知ると濃紫の忌み子であるという噂を知り薄に仲良くするように言った。そして、その噂が真実だと知ると父は寺に多額の寄進をして寺のものを懐柔すると秋を手の中に収めた。
そしていつか盤上をひっくり返す時を見計らっていた。薄は秋は不当な扱いを受けている、本当は帝の子、皇子様なのだよと父から聞いた。皇子なのに寺の隅で寂しそうにしている秋が可哀想でならなかった。
本来の居場所から秋を追い出した皇后濃紫が憎かった。秋が本来居るはずの場所に胡座をかく皇太子が憎かった。秋に、本来あるべき幸せをあげたかった。淡い恋は薄の心に火をつけ、激しく燃え上がり憎しみへと変わった。
秋を幸せにするために茨の道を切り開かねばならない。その為なら、夜叉にでもなってやろう。
秋は皇子に相応しい名になるようにと榮が秋彦と名付けた。全ては秋彦のため、薄は八束の妃選びに潜り込み、濃紫の横暴、浜木綿の傲慢さにも耐え静かに時を待った。
そうして、今、秋彦が本来の立場として皇宮にいるのが誇らしかった。
薄絹の幕が降りた檜の舞台の倚子に座る秋彦。薄の席からは人影しか見えないが、それでもそこにいてくれることが嬉しかった。姫たちの席に今日だけは宮から出ることを許された姫たちが続々と座る。ただし、顔が無様になった細だけは欠席だった。
遅れてきたのは、浜木綿だった。皆が、浜木綿のその見窄らしい姿に驚愕した。宮に幽閉され草臥れたのではない。長く美しかった烏の濡れ羽色の髪は肩あたりで切られていた。まるで尼削ぎのようだった。
皆が浜木綿の変わり様に息を呑む。薄は浜木綿の席へと向かった。
「浜木綿の君、その姿はどういうこと!?」
せっかくの秋彦のお披露目の宴で浜木綿が問題の火種を持ち込んだことに怒りが抑えられなかった。
「何って見た通りさ。髪を切ったんだよ」
浜木綿は何でもないというように言ってのけた。目は真剣で、彼女が精神的に不安定になってしまい気が狂って髪を切り落としたというより、明確に意思を持って切り落としたのだとわかる。わかるが故にわからなかった。何故、浜木綿が髪を切ったかなんて。
「あなた、どういうことかわかっているの」
薄は信じられないものを見るように尋ねた。
「わかっているよ。髪を切るのは誰かが死んで喪に服す時か、出家する時のどちらかだ。私はそのどちらともであると宣言しよう。わたしはこの妃選びから降りさせてもらう」
何を言っているのかわからなかった。否、分かりたくないと拒否しているのかもしれない。
「ふざけているの? この光栄な妃選びから降りることなんて許されない」
薄は浜木綿に向かって怒りをぶつけるように叫んでいた。
「わたしは皇太子八束様の喪に服すために髪を切った。髪を切ったからもちろん側室にもなれない」
皇太子、八束の首を討ち取り敵が投降してきたという話は薄の耳にも届いていた。しかし麗扇京に運ばれてくる際、運搬に不手際があったのか顔が損傷してしまい顔の確認があまり正確ではない。しかし着ていた衣から八束であると証言され今は皇家の墓に亡骸は安置されている。
「わたしをここで殺すならすればいい。しかし、巳家は決して秋彦様に付くことはないだろう。薄の君、わかっているだろう。皇家の外戚である巳家の力を秋彦様も欲していると」
薄は唇を噛んで推し黙った。浜木綿の行動を許すことはできない。しかし、怒りに任せて殺すこともできない。人質がいなくなるし、何より浜木綿には憎らしいことに秋彦と同じ血が流れているのだ。双子の兄、八束の死を嘆き悲しんだ秋彦に、これ以上血のつながる者を失わせたくないというのが本音だった。
しかし、本音というのは二つあって、この憎らしい女を消してしまいたいという願いもまた間違いなく薄の本音だったのだ。
南の交易を司る巳家の存在は、秋彦にとって強力な武器になると考えている。摂政の位は戌家当主の榮に引き継がれ、官職の大々的な異動もあり今までの巳家の立ち位置に秋彦の復位を支援した戌家が成り代わったが、それでもまだ巳家の影響力はある。だから戌家の下くらいには巳家を使ってやろう…というくらいには考えていた。
浜木綿は自信がある。自分が殺されないという自信が。それが憎らしかった。
「薄」
薄絹の幕の向こうから、秋彦が声をかけた。
「浜木綿姫も兄上を偲ばれているのだろう。髪はまた伸びる。私だって今は髪がないのだから」
秋彦の声は穏やかで怒っている様子はなかった。薄は浜木綿に対する消化仕切れない苛立ちを抱えながら席に戻った。
その時だった。女房たちが「きゃああ!」と悲鳴を上げた。何ごとかと薄は自分の席を見ると添えられているはずの菊の花が花瓶の中で萎れていた。他の姫たちのものは瑞々しく咲き誇っているにも関わらず。
「な…なんと不吉な」
女房の内の一人が怯え出した。その怯えが伝播する。偶然、状態の悪い菊に当たってしまっただけだと言い聞かせようとするが、女房や周りの姫たちは納得していない様子だった。薄は焦った。これはまずい。薄の印象が悪くなってしまう。
誰かが言った。
「呪いだわ。きっと、呪いよ」




