弐拾漆
日照雨と別れ八束と柊は松葉村を目指した。亥領に入ってから降雪量が子領と比べてかなり増えたことから、古い馬橇を買い馬を休ませながら進んだ。
柊が樏を立ち寄った村から買ってきてくれたことにより慣れない雪の中、随分と八束は歩きやすくなった。
傷を癒すために橇に乗って休んで進もうと柊は提案してくれたが、回復して前と同じように歩けるようになるために八束は馬を休ませて止まる時間になると辺りを歩くようにした。
あまり人通りの少ない道を選んではいたが、道がある先には村がある。そういった村の暮らしを遠目から眺めるのは新鮮だった。
「何を見ていたの?」
雪を溶かして馬に飲ませるために、薪に使えそうな湿っていない乾いた木の枝や樹皮を探していた柊が戻ってきた。八束は自分も手伝うといっていたのに、人々の暮らしに目を引かれて手に数本の枝しか持っていないことを恥じた。
「亥領の暮らしを目にするのは初めてだから、つい…」
その言葉で柊はだいたい察したようだ。
「たしかに、麗扇京暮らしには珍しいかもね」
柊の目にはどこか懐かしむ様子と自領を自慢するような様子があった。
「あれは何を吊るしているのだ?」
八束が指を刺して民家の軒先に吊るされているものを指差した。魔除けの札のようなものだろうか。
「鮭と柳葉魚。凍らせて食べる。しゃりしゃりしてて美味しいよ」
「干した芋や干した柿などは知ってはいたが、魚を吊るすのか」
八束は感心したように呟いた。厳しい寒さの亥領ならではのものだろう。
「湯を沸かすから火起こし手伝って」
柊は八束が珍しい民の暮らしにばかり目を向けて薪集めを結果的にさぼってしまったことを責めずにいてくれた。乾いた木の枝や樹皮の火の起こし方を教えてくれた。
八束はこの平民の中でも過酷な暮らしに少しずつ慣れてきたように感じた。空気が冷たくて肺が凍りそうだったり、耳が取れそうなくらい痛い寒さに耐性がついてきた。昔の八束なら、こんな地で人間は暮らしていけないと考えていただろう。
常に暖かな気温で満たされる麗扇京からあまり出たことのない生活だったから。
それでも、亥領には人が暮らしていて生活がある。そんなことに感動してしまっていた。治りかけの傷口に寒さは堪えたが、八束は想像していた亥領は未開の秘境という印象は薄れていた。ここにはこの土地に合った暮らし方をしている民がいるだけなのだ。
柊と馬橇で進み、子領と亥領の境から三日かけて松葉村に到着した。松葉村の入り口には大きな木が聳え立っており、八束はこの村で自分が生まれていたらこの木に登って遊んだだろうと容易に想像がついた。丁度、そんなことを思っていたら柊が木を眺めながら「懐かしい。昔よく木登りをした」と話していたので考えが偶然にも重なったと八束は嬉しくなった。
寺は民家の集まりから少し離れた山に引っ込むような形で建てられていた。寺の門の前を雪掻きしていた剃髪しない少年修行僧である稚児に話しかけた。雪の中でも目立つ極彩色の水干を着ていた。
「申し訳ない。こちらに松景という名の僧侶がいると聞いたのだが、取り次ぎを願えないだろうか」
八束が尋ねると稚児はぺこりと頭を下げると寺の中へと消えて行き、中から杖をついておぼつかない足取りでこちらにくる僧侶に肩を貸していた。きっと杖をついているのが松景であろう。
松景が近づいてくる。そして互いの顔がよくわかるくらいまで近づいた時に、松景は八束の顔を見て崩れ落ちた。
「お師!」
稚児が慌てた様子で立ち上がらせようとする。しかし、松景は衣が雪で湿っていくのも構わず、その場で泣いていた。
「秋、お前さんどうしてここに。やっぱり私のところに帰ってきたのか」
泣き崩れる松景に八束は心苦しくなった。松景は八束を秋という人物であると勘違いしている。そして、自分の元から去った秋が戻ってきたのだと思い込んでいる。
「いや、私は秋ではない」
涙でぐしゃぐしゃの顔の老人を見るのは辛かった。しかし、八束は言わなければいけなかった。
「その秋という人は、今や秋彦と呼ばれ遠くに行ってしまったのではないか?」
その言葉を隣で聞いていた柊が息を呑んだ。
「私は秋彦の双子の兄です」
八束がそう言うと、松景は納得したように、そしてどこかがっかりしたように頷いた。
「八束様でございましたか」
稚児の助けを借りて松景は立ち上がると八束たちを寺の中へと招き、暖かいお茶を淹れてくれた。寺の床は冷えていたが火鉢でわずかだが暖かい。円座の上に八束と柊は腰を下ろした。
「このお茶…わたしは亥領では飲んだ事がないです」
柊が茶を一口飲み、呟いた。
「わたしは酉領の寺に元々おりまして、茶葉は酉領のものなのです」
松景は懐かしむように茶の水面に映る自分を見た。遠い過去を夢想しているようだった。
「わたしは、酉領の寺から…僻地に追放されたのです」
また野蛮扱いされるのかと、柊が眉を顰めたがここが田舎であることは否定しきれないのか何も言わなかった。
「住めば都ですから、この土地も気に入っていますよ」
松景は柊の表情を見て付け加えた。
「秋は、わたしが元々いた寺に赤子のときに出家させられてきた子でした。皇后陛下の秘密をわたしも共に抱えさせられ、常に監視下にありました。秋という名は名付けもされずに寺に流されたあの子を哀れみ秋生まれということでわたしが名付けました」
偶然にだが、八束は自分の弟の育ての親とも言うべき人に出会えたのだと感じた。そして自分が縁起の良い徳の高いと考えられた名を付けられたのに対して、秋彦は名前さえつけられずに寺に流されたのだ。それが八束の心を締め付けた。
「ある日、酉家の当主が秋を連れて行きました。まさかあの時は叛逆を企て、その先頭に秋を掲げるために連れて行ったとは思いもしなかった。わたしは生かされる代わりに膝蓋骨を抜かれてこの地に流された」
松景は片膝を撫でた。
「八束様、これだけは知っておいてもらいたい。あの子は母君やあなたを憎み殺して自分が皇太子に成り代わりたいがために逆賊に加担したわけではありません。きっとあなたたちに会いたかったから、酉家が吊るす餌について行ってしまったのです。あの子はずっと家族の愛に飢えていた。確認したかったのかもしれません。自分にも家族がいて、愛されているのだと」
しかし、それを確認する前に濃紫は自害し、八束も逃亡した。秋彦の最後の望みは父である帝に自分を愛しているのか確認することかもしれない。しかし、濃紫が秋彦の存在を隠したのなら、八束が知らなかったように帝も秋彦の存在を知らないかもしれない。
そうでなくとも政務ができない状況の病人である父の認識能力が正しく機能しているかわからない。
八束は話を聞いた途端に、自分が今まで弟の存在を知らずに生きてきたことが秋彦を苦しめるのではないかと思った。松景の話ではどれだけ師として愛をそそいでも、出家した身なのだから俗世への未練を捨てろと諭しても、秋彦は家族への諦めを捨てきれなかったようだった。
ほんの些細な運命の違いで全く別の道を歩むことになった片割れはずっと血の繋がりと愛を求めていて、八束は望まずに母の愛を歪ながらも受けてきた。それは秋彦にとっては欲しかったものであり、八束が手放したかったものだ。八束にとって母の愛を受け続けると言うことは母が死ぬまで母の傀儡に甘んじることであったから。
「少し…考えたい。一人にしてくれ」
八束は脱いでいた毛皮の外套を掴み寺の外に出た。雪が降っていて地面の白をより深いものに変えていく。
「一人にしてくれ、と言ったはずだ」
八束は後ろで足音を立てて近づいてきた人物に向かってそう言った。
「放っておくと何するかわからなそうな顔してる。そんな人放っておけないでしょう」
柊は、八束の願いを汲んではくれなかったようだ。心配してくれるのはありがたいような、今はありがたくないようなそんな心地がした。
「今、死にそうな顔してる」
柊はそう言った。自分の表情がどんな風に映っているかなんてわからなかった。
「私のために命をかけてくれた者たちの恩義に報いれない」
このまま自分は死んだことにしたまま、逃げ出してしまおうと考えていた。秋彦に皇太子の位を譲り、自分は死者として何処かに身を潜めひっそりと暮らそう。全ての重圧から逃れたかった。
今までは母の言う通りに生きていくしかないと思っていた。母が死んだ今、八束を信じてくれた者たちは逆賊を倒し仇を取り復権してほしいと願っている。
薙草の死は日照雨から聞いた。彼の最後の言葉も、彼の意思も。
きっと今、八束は情けなくて酷い顔をしていることだけはわかった。柊は幻滅するだろうか。情け無い、親を殺した不倶戴天の仇を野放しにする気かと詰られるだろうか。しかし、八束は母が死んだのは悲しい思いもあるが母の支配から抜け出せたことに少し安堵している自分もいた。
秋彦が母の死の間接的な原因であるのに、復讐に情熱を注げないのは自分が薄情だからなのだろうか。八束がこれまで不自由なく生きてこれたのは間違いなく母の後ろ盾があったからに他ならないのに。
しかし、柊は八束の予想した答えのどれも口にしなかった。
「逃げてもいいんじゃない?」
柊は優しく微笑んでいた。それがどれほど八束にとって甘い誘惑であるのか知らずに、その顔はなんだか呑気で少し恨めしかった。
「ここで逃げても私は責めない。そんな顔させるくらい辛いものなのだったら逃げてもいいと思う」
簡単に言ってくれる。八束が柊の言葉を聞いて最初に思ったのは少しの恨みだった。自分は何人もの命を背負っている。自分のために命を捨ててくれた者から、この皇国の民の命まで。
今まで、人より大きな責任を背負うことで人より贅沢な暮らしをさせてもらった。何故、自分が絹の衣を着て民が麻の衣を着るのか。それを忘れてしまわないようにしていた。
「亥家の名誉に泥を塗ったままなのは気になるけど、日照雨がね、いざとなったら外の国に逃げようって提案してくれたの。楽な道のりではないけれど、一緒に来る?」
柊の顔を見れば、彼女が善意から逃げ道を用意してくれていることに気づいた。そうしたら、自分の幼稚な八つ当たりの言葉はすっと消えていった。
「ありがとう、心に留めておく。その心遣いは嬉しい」
八束は柊に叱責して欲しかったのかもしれないと思った。そして自分を奮い立たせるために。
「全てを捨てていく勇気は、やはり私には無いようだ」
今まで存在を知らなかった弟である秋彦と向き合わずに逃げ出してしまうのは苦しかった。
「そっか。なら、あなたが望むようになるように支えていく。神鳥殺しの犯人を野放しにはして置けないし、私も汚名を返上したいから」
柊の目は水晶の様に澄んで煌めいていた。彼女はたとえ八束がどんな選択をしても尊重してくれたに違いない。しかし、本当はこの答えを待っていたように思う。
太陽のように強くはない。しかし、月明かりのように確かに足元を照らしてくれるような頼もしさがあった。
「寒くなるよ」
柊はそうは言ったが中に入ろうとは促さず、黙ってずれていた八束の外套を掛け直してくれた。柊はこれが彼女の父のものであることに気づいただろうか。黙ったまま二人は雪が積もっていくのを眺めていた。




