弐拾陸
柊が、丸薬による眠りから目が覚めたのは日照雨が柊を背負い麗扇京を抜けた頃だった。
皇宮を出る際、中身を改められたらしいが哀れな婢女の死体を家族が引き取りにきたと思われたらしくお悔やみの言葉を言われるだけで特に怪しまれた様子はなかったと言う。
しかし、油断はできないので日照雨はまだ寝ている柊の分まで旅支度を整えると、棺桶用の壺は目立つため捨てて背負って進んだらしい。
旅支度も徹底していて、この時期に玄北地方へ向かう者は少ないため顔を覚えられないように一つの店で全ての支度を整えてしまうのではなく、別々の店で少しずつ整えたらしい。
毛皮の外套は麗扇京では取り扱っている店が少ないし、顔を覚えられる可能性が高かったので便利屋を使い代わりに買ってきて貰ったりしていた。
日照雨も、柊がこのまま眠ったまま覚めないのではないかと背負って歩いている間に何度も考えたそうだ。それでも僅かに残る体温と、鼓動に励まされて目覚めるのを信じ亥領を目指した。
呼吸を妨げないようにしながらも顔に布を巻いて顔が見えないようにしながら柊を背負う日照雨の姿は周りから奇妙に映った。しかし、何かと問われれば疱瘡に罹った妻を故郷に連れ帰ると言えば誰もそれ以上詮索しなかったし、近づきもしなかった。
柊が目覚めた時、柊は微睡みながら父に背負われている夢を見ていた。しかし、段々と視界が明瞭になって、自分を背負ってくれているのが父ではなく日照雨なのだと気づいた。
目が覚めてからは、自分で歩こうとしたが力が入らず思うように歩けず、歩みは遅々として進まなかった。厳しい土地の歩き方を心得ている二人の旅路にしては遅かったが、これは幸運だったのかもしれない。
もし、二人が先に進んでいたら八束と合流できなかっただろう。
ようやく歩く感覚が戻ってきた頃に馬を調達して、歩みを早めることにした。今まで遅かった分を取り戻すためだ。自衛のために柊は弓と矢も調達した。そうして、二人は亥領へと続く子領の峠に差し掛かった。冬の玄北では盗賊の被害が多発するので少しでも安全な道を通りたい。しかし、ここは避けられない難所でもあった。
冷たい突風が柊の髪を巻き上げて、風が肌を突き刺し凍えるような心地がした。馬上で柊は、髪を掻き分けるとからりと晴れた澄んだ空を見た。色の濃い、冬の空に龍が立ち昇っていく姿を見た。
「日照雨、今、見た!? 龍が…」
柊は慌てて隣を並走する日照雨に確認した。しかし、日照雨は険しそうな顔をして首を横に振った。
「俺には見えなかった。雲か煙の間違いじゃないか」
煙だった場合、盗賊の野営の跡かもしれないし、狼煙かもしれない。
「日照雨、何だか嫌な予感がする。早く行こう」
柊は馬を走らせた。それに追随するように日照雨も付いてくる。そして、そこに八束がいたと言うわけだ。状況を理解した日照雨は盗賊を蹴散らし、柊は弓で援護した。
******
「信じてくれないかもしれないけれど、クロを殺したのは私じゃない。そして、おそらく私は真犯人を知っている」
真剣な瞳で柊は八束を見据えた。神鳥殺しの犯人を日照雨も聞いていなかったようで目を見開いていた。八束は唾を飲み込む。
「それは、誰だ?」
八束は尋ねた。尋ねた後に口の中の水分が一気に無くなっていくような感覚がした。鼓動が早まり、変な汗すらかいている。
「撫子」
柊はそう言った。
「私も信じられない。でも、彼女が師走宮に嫌がらせをし、毒を置いた犯人よ。実行犯は私の女房だった静冬だったけれどね」
八束は柊の言葉に疑問を口にした。
「私は後宮内の出来事にあまり詳しくはないが、師走宮は卯月宮から支援を受けていたと言う。わざわざ嫌がらせをする相手に助けるようなことをするのか?」
「そこが私もわからない点であり、最後まで彼女を信じてしまった理由よ。彼女は豚の臓物を撒き散らすように指示したり、私が作った衣に泥をつけるように指示した。でも彼女は絹を贈ったりもした。まるで正反対の行動よ」
日照雨は師走宮の嫌がらせを聞き、何故相談してくれなかったのかと言うような顔をしたが、柊は今はそんなことはどうでもいいと切り捨てた。
「今でも、撫子が神鳥を殺した理由がわからない。けれど撫子は私を犯人に仕立てあげるようにした。だから、私の中では撫子は敵になったの」
「本当に撫子姫なのか? いや、お前を疑っているとかじゃないが」
日照雨が尋ねる。
「師走宮に毒を置けたのは師走宮の人間だけ。わたしはあまり姫同士の交流に活発じゃなかったから交流と言える交流があったのは卯月宮だけ。静冬も、卯月宮の薊という女房とよく会っていたようだし、卯月宮で一番偉い撫子を疑ってしまうの」
柊は八束と日照雨の両方の顔を交互に見た。主観的で、理論も整然としておらず犯人と決定づけるには圧倒的に足りない。自分の言っていることが嘘で、犯人の情け無い言い訳にしか聞こえないという顔だった。
「疑う理由がないなら、信じてみてもいいだろう」
八束はそう言った。柊はまさか信じてもらえるとは思っていなかったのか驚いた顔をした。
「あなたにとっては私が犯人であってもおかしくないのに信じるの?」
「先程、あなたが言ったことでクロと撫子姫を結びつけることをわたしも一つ思い出した」
八束は柊を安心させるように笑顔を作った。
「撫子姫が七夕の儀で琴を披露した際にクロが鳴いたことがあった。神鳥は真実を見通す眼を持ち、時に神託を告げるという話は聞いたことがあるだろう。クロは未来を垣間見ることができた。その時に、もしかしたら撫子姫にとって不都合なものを見てしまい、それに撫子姫も気づいたのかもしれない」
柊は真実の糸を掴みたい一心に縋るような目を八束に向けた。
「クロは、あなたに垣間見た内容を告げたりはした?」
八束は首を振った。自分が何故知らないのか悔しい気持ちがあった。
「クロはあの時は何故鳴いたのか教えてくれなかった。だからわたしは見当違いにも撫子姫がわたしの伴侶に相応しいという意味なのかと思ってしまっていた」
まさか殺されてしまうなんて思いもしなかったのだから。八束もあまり深く追求はしなかった。クロが未来を見ることはこれまでにもあったが、明確な表現はせずいつも曖昧に表現していた。八束は幼い頃は何故教えてくれないのかと拗ねたりもしたが、クロは確定した未来を見ているわけではないからだと成長すると答えを出した。
クロも自分が見たものを話すことによってそこで初めて運命が確定したものに動き出すことをわかっていたのだろう。
「まだ推測の域を出ない。撫子姫がクロを殺さなければならなかった理由もわからない。だが、もしクロが自分が殺される未来を見たのだとしてもまだ起きていない罪で断罪することはできなかっただろう」
八束は不自然なあれこれに無理矢理にでも答えを見つけたいのかもしれなかった。クロの死に何か辻褄のある理由を見つけて、死を受け入れて納得したかったのかもしれなかった。
「それに、柊姫のことを信じたい気持ちがある。これは私の個人的なものになってしまうが、柊姫の母御と妹君には大変世話になった。私はその恩を返したい」
そう言うと柊は驚いたように八束の目を見た。そこでやはり、八束は納得してしまった。柊も日照雨と同じく自分の目に神通力が宿り、目が焼かれてしまうという噂、つまり皇太子としての外側を見るのではなく八束という個人を見てくれているのだとわかった。
「母と…イナに? 二人は無事で過ごしていましたか?」
柊は必死になって家族の安否を尋ねた。瞳には不安が揺らいでいて、八束だって安心できる答えを与えてやりたかったが、嘘をつくことも躊躇われた。
「柊姫の死を知り、取り乱しておられた」
その言葉に、一瞬にして柊の顔が曇った。
「心配するな。生きていることは確かなんだろう。落ち着いたら生きていることを知らせればいい」
日照雨は励ますように柊の肩を叩いた。それで柊は少し持ち直したのか「そうだね」と返事をした。八束は自分もただ事実を伝えるだけではなく、柊の心情に配慮してやることを思いつかなかった自分を恥じた。
もしかしたら、自分は情緒的に成熟していない幼い人間なのかも知れなかった。
「さぁ、八束様。その足じゃ歩くのも苦労するでしょう。俺の後ろに乗ってください」
痺れたように感覚が遠のいていく足を引きずりながら八束は日照雨の助けを借りて日照雨の馬に乗せてもらった。柊ももう一頭の馬に乗り、八束の傷に響かないようにゆっくりと歩く馬に並走している。
今まで、一人で亥領を目指して心細かった。張り詰めていた糸が切れたかのように八束は瞼が重くなっていった。
******
八束は草でできた天幕のようなものの中で目が覚めた。玄北地方の山の中で狩りをする時の簡易な仮小屋のようなものであり、柊と日照雨が八束が気を失ってしまっている間に今夜の宿を整えたのであろう。普通に村に寄って宿を借りることは危険だったため、野宿になるのは仕方がなかった。
八束はくすぐったさにくしゃみをしそうになった。何故なら、まだ八束が目覚めていると知らない柊が傍で献身的に傷を手当していたからだ。顔の火傷痕には匂いからして軟膏を塗っているのだろう。切り傷には知らない薬草をすり潰して出てきた汁を揉み込んで清潔な布地で包んでいた。
仮小屋の中に日照雨はいなかった。何処かに出かけたのだろうか。八束はまだ重かった瞼を無理矢理にでも持ち上げた。
「くすぐったい」
八束が呟くと柊は顔を覗き込んで笑顔を向けた。
「傷に染みて痛いとかじゃなくてよかった」
柊の笑みは母親の美世子に似ていた。やはり間違いなく二人は親子なのだと、些細なことで気づいた。
「日照雨は…?」
八束が尋ねると「食事の調達」と返事が帰ってきた。てっきり、八束は近くの村で物々交換などの買い物をしているのだと思っていたが、しばらくして死んだ鹿を担いで帰ってきた日照雨を見て驚いた。
「弓は久々だったから、時間がかかってしまった」
日照雨は血抜きされた鹿をどさりと八束の目の前に置いた。八束は驚きのあまり言葉が出なかった。柊と日照雨が手分けしながら素早く皮を剥いで、近くの川で冷やしながら肉を切っていくのを見るのは壮観だった。初めてこんなものを見た。
鍋に肉を入れて、そのあたりで取ってきた野草と塩で味付けしてぐつぐつと煮る。野性味あふれる香りは、初めてのものだった。幻燈祭の夜に食べた麺料理は、腥抜きだったのだから。
恐る恐る、柊が木の枝を小刀で加工してくれた箸で肉を摘む。口に入れると、脂身の甘味と歯応えがありコクのある味だ。じっくり煮込んだからか身は柔らかく美味い。
そもそも、皇宮では毒味の終わった冷めた料理しか食べたことがなかったから出来立ての温かい食事がとても美味しく感じた。
何より、ちょっと羨ましいと感じていた柊と日照雨の食卓に自分が混ざったことが八束は嬉しかった。
「肉を食べて精をつけなきゃ、傷だって治らないしね」
柊は嬉しそうに、八束の空いた椀に肉と汁を注いだ。自分たちの食文化が受け入れられたことに嬉しそうだった。八束は軟膏でべたべたする額を少し触った。火傷痕は治るのだろうか。衣で隠せる傷ならいい。しかし顔の傷は目立つ。
「顔の傷は治るだろうか」
八束はつい、不安を口にしてしまった。日照雨は必ず治るとは断言できなかったのか口を閉ざしてしまった。しかし、椀に入った汁を飲み干した柊は何ともない顔で八束の顔を見た。
「治ったらそれでもいいけど、痕が残っても男前になるんじゃない?」
柊は特に深い意味はなかったのだろう。しかし、八束は玉体に傷がつくことはあってはならないと教え込まれできた。その価値観を崩れ去っていくような気がした。
柊の父御も狩りに出るので傷はしょっちゅうだったし、顔に傷があったと話してくれた。その話で柊は猪助よりも育ての父を慕っているのがわかった。
八束の傷の治り具合を気にしながら一向はゆっくりと子領を進んだ。そしてついに険しい山道を超え、亥領にたどり着いた。亥領にはいると、流石に安心したのか今まで疲れを見せなかった日照雨や柊に疲れが見えてきた。
「これから亥家の邸を目指すんですか?」
馬の休息の為に近くの木に馬を繋いだ日照雨が八束に尋ねた。
「いや、いきなりわたしが現れても信じてもらえるかわからない」
「神器があるでしょう。それを証拠にするために八束様に託したのです」
八束は不安を口にしたが、日照雨は大丈夫だと安心させようとした。
「日照雨、私たちにとって猪助様は信頼できる人かもしれないけど八束様にとっては違う。亥家が逆賊に与している可能性も捨て切れない」
柊は馬の毛を撫でながらそう言った。それを納得するところがあったのか日照雨も黙ってしまった。
「それに私は今、神鳥殺しの犯人で亥家に泥を塗った姫だから、顔を合わせづらい」
柊はしょんぼりと肩を落とした。彼女の名誉は回復させてあげたい、と八束は強く思った。
「それなら俺が先に猪助様と会って、お前の無実を話すよ」
「でも、八束様の護衛がいなくなるのは…」
柊が日照雨の提案を渋っているのを見て、八束は美世子から託された文の存在を思い出した。懐から木簡を取り出す。
「松葉村の慈恩寺の松景という人物に伝手がある。泊めさせてもらえるらしい。だから、日照雨。わたしの代わりに亥家の様子を探ってはくれないだろうか」
「八束様がそう言うなら」
日照雨は渋々了承した。その時、馬を撫でる手を止めて柊が呟いた。
「松葉村って、わたしの村だ」




