弐拾伍
子領に向かうと言う隊商は、あまり八束を歓迎しなかった。依菜が話をつけてくれたとはいえ彼女の知り合いの知り合いと、関係性が遠いためただでさえ危険な旅に厄介事を抱え込みたくないという思いがひしひしと伝わってきた。
「おう、あんた剣持ってるじゃねえか。ちっとは使えるんだろうな?」
商人に雇われている強面の用心棒の男が八束を見て話しかけてきた。用心棒は貧民窟の破落戸上がりや、扶桑衆や警邏隊に入れなかった武人崩れが多いと美世子から聞いていた。
「いや、これは宝剣で飾りなんだ」
何とか絞り出した言い訳だが、用心棒の男はあまり納得していないようだ。
「武人でもねぇんだろ」
この用心棒も美世子と同じような考えを持っているらしい。たとえ飾りであっても持っているだけで何かと災いを齎す。しかし、八束としてはこの神器がなければ自分の立場を証明できないので、手放すと言う選択肢はなかった。
本来ならば皇宮で厳重に管理されているはずの神器。それを母が掟破りをしながらも持ち出した理由。
巳家に辿り着き、立場を磐石にするためだったのかもしれない。母の性格を考えればどれだけ巳一族が利益を得るかを考える。しかし、こうして巳家にも辿り着けず、亥家を目指すことになってしまった八束にとってはこれは母からの愛なのかもしれなかった。
その時、商人と思われる男が列の先頭の方からやって来た。
「そろそろ、出発だ」
商人というと、いつも八束の元に品物を持ってきてくれる皇室御用達の商人のような太った老獪な男を想像していたが、この隊商の商人は痩せていてあまり余裕がなさそうだった。
この時期に利益の薄い玄北地方まで行商に向かわねばならないので、きっとあまり裕福ではないのだろう。
小さなどっしりとした馬に商品となる荷物を引かせていた。玄北地方の寒さに耐える不細工だが強い馬である。隊商はゆっくり進み始めた。使っている馬はあまり足が早くない代わりに寒さに強く重い荷物を引いていける忍耐強い種であるので、冬の行商は一長一短である。否、危険の方が多いようにも思える。
八束は最後尾を歩いて勝手に着いてこいという扱いだった。用心棒も一応最後尾に配置されてはいるが、隊商の規模にしては用心棒が少ない気がした。
「俺は、要って言う。お前さん、名前は? この旅の間はよろしくな」
四十路くらいの用心棒の男が話しかけてきた。人懐っこそうなくしゃっと潰れる笑顔が特徴的な男だった。皇宮で飼っていた犬を思い出し、なんだか八束は懐かしい気持ちになった。
逃亡生活を始めてから、市井の噂話で何となく今、麗扇京がどういう状況なのかわかってきた。
八束は自分が双子であったことも、弟がいたことも知らなかった。そこは母である濃紫が巧妙に隠したのだろう。
奇形であるが故に寺に流された皇子を、民たちは不気味がっていた。神鳥がいなくなってしまったことも不安を煽った。皇国はこれから暗雲が立ちこめるのではないのかと。
「わたしは、矢草という。よろしく頼む」
「旅の人だろう? 今の時期は珍しいな」
要は八束が何も喋らなくとも勝手にこの暇な旅程の間、喋り続けた。要は妻子を申領に残し、麗扇京で出稼ぎをする用心棒だと言う身の上話を語った。前までは酒場の用心棒をしていたらしいのだが、店主に理不尽な解雇を言い渡され、このあまり旨味のない危険な仕事に飛びつくしかなかったという。
旅の道のりは八束にとって優しいものではなかった。今まで牛車で旅をしてきた八束にとって、辛いものだった。足の裏に血が滲んでも、隊商の一行は止まらないのでついて行くのがやっとだった。
元々、厳しい土地を開墾している玄北地方は、北上すればするほどなだらかな道というものは少なくなってくる。
藁靴から血が滲み、点々と地面に跡をつけ始めても八束は止まることはできなかった。自分のためだけに隊商を止まらせる力はなかったし、何より自分が歩みを止めたら自分を生かすために命を投げ打ってくれた薙草をはじめとした者たちに顔向けができないと思った。
「矢草、今晩は近くの村に泊めてもらう予定らしい。少しの辛抱だからな」
要がそっと耳打ちしてくれた。彼は八束の歩き方一つで旅慣れしていないと見抜いたのだろう。その日、隊商一行を泊めてくれるという村に着いた時は八束はいつ倒れてもおかしくない状態だった。
商人は親切な村人の家の中に泊めてもらうことになったが、用心棒の中でも格の低かった要とただの旅人の八束は農耕馬の厩舎に一緒に放り込まれた。
藁を布団代りにして眠るのは初めての経験だった。不潔だと直感的に思ったが文句を言っても絹の布団が出てくるわけではないと諦めた。
八束は今は皇太子ではないと言うことを突きつけられていた。絶対的な味方だった母親は死に、クロも死に、巳家には頼れず護衛たちも死んでしまった。
自分が一人になったことをいやでも感じさせられた。夜風が冷たく、八束の骨をも凍らせるような冷たさに身が凍えた。袖が湿り、余計に惨めな思いをさせた。
母は弟である秋彦を奇形だからと言う理由で寺に送ったらしい。ならば、今、顔に火傷跡が残る自分も、もし母が生きていたら自分の息子とは認めないのだろうか。
涙が滲んで、鼻が詰まった。鼻を啜ると、隣で横になっていた、要が寒いのかと聞いてきた。
「お前、いい外套持ってんじゃねえか。これは熊毛だぜ」
欠伸をしながら寝返りを打った要の言葉に、八束は改めて形見である外套を持たせてくれた美世子たちに感謝の念が湧いてきた。
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旅は遂に、一番の難関である子領に入る峠まで差し掛かっていた。見通しが悪く、山賊が潜伏しやすくここを無事に抜けても、狼と鉢合わせる危険性が高まる。
隊商の歩みが早くなり始めた。最後尾の八束は塞がっては開きを繰り返し硬くなった足の裏がまた血が滲み始めているのを感じながらも、奥歯を噛み締めて進んだ。
馬の蹄の音がした。荷を引く隊商の馬のものではない。複数の足音が急速に八束たちに近づいてきていた。
「囲まれる前に突っ切れ!」
要が叫んだ。他の用心棒たちも目配せし合い、最後にこの隊商の頭である商人の男を見た。
「速度を上げるために少し、荷を捨てろ」
強面の用心棒が、商人に向かって叫んだ。しかし、商人は首を振る。
「商品を捨てろというのか! 赤字になるのは御免だ」
「捨て荷を用意しろと何度も言ったはずだ。盗賊に狙われたとき、偶然に荷が落ちる。手柄があるなら奴らもそれで引く。全面交戦させる気か!」
これは用心棒たちの中では共通の認識だったようだ。戦うよりも少しの犠牲で前に進む。それが捨て荷であると。しかし、商人だってぎりぎりの儲けを計算しての積荷であるため、捨てる決心がつかなかったようだ。
動揺する瞳が、八束と合った。商人は八束の毛皮と腰から下げた剣に目を向けた。
「その旅人が捨て荷だ。元々、お荷物だったのだ。我々は前に進む。足でも切っておけ」
商人は真っ先に八束を切り捨てた。用心棒たちも優先すべきは主人の命令であり、八束ではない。諦めたような顔をする用心棒たちの中で唯一、要だけが動揺を露わにしていた。
「足を切るなんて、そんな…」
要は八束の顔を見て、目を合わせなければ良かったと後悔したような顔をした。
「お前がやれ。早くやれ。捨て荷はその場に置いていかなければ意味がない」
他の用心棒たちは速度を上げた荷馬車に憑いていく。要は震える手で刀を抜いた。八束は言葉が見つからなかった。ここで命乞いをしても何もならないとわかってしまっていたから。要には、養わなければならない家族がいる。雇い主の命令は絶対で、八束は切り捨てなければならない。
「片足だけにしてやるから、どうか俺たちとは反対の方に逃げてくれ」
要は苦しそうに顔を歪めると、逃げだそうとした八束の右脚の皮膚を切り裂いた。地面に鮮血が波の模様のように飛び散った。思わず崩れ落ちる八束を振り返らず、要は「恨むなよ」という言葉を残して立ち去った。
山賊たちの馬が八束の近くまでやってきた。毛皮は擦り切れた布を纏った男たちは目がぎらぎらと光っているように見え、飢えた獣のように見えた。
山賊たちは八束を見て、身ぐるみを剥がして髪を売れば隊商を追いかけるほどではないと話し合い、八束に近づいてきた。手入れされていない切れ味の悪そうな大きな刃が八束目掛けて振り下ろされた。
ここまでかと、八束は目を瞑った。その時、風を切るような音が聞こえ、矢が山賊の腕に突き刺さった。
馬が駆けてくる音が聞こえ、女の声が響いた。
「それは毒矢だ。肉ごと抉り出さないと毒が回り死ぬぞ!」
その言葉が嘘ではないと裏付けるように、矢が刺さった山賊は顔が青くなって、跨っていた馬から転げ落ちた。一斉に山賊たちが突如、現れた女に刃を向ける。
しかし、もう一頭の馬が山賊と女の間に入り込み、その勢いで転げ落ちた山賊の頭を馬で踏み潰し乗っていた人物は見事な剣技で山賊を、一人、二人、三人と切り殺して行った。
仲間が次々とやられていく中、仲間の敵を討とうとするよりも山賊は散り散りになって逃げていった。
八束は血が流れ続ける足を庇いながら、馬から降りた弓を持つ女を見た。黒くうねった髪が風に揺れ、とても美しかった。
「柊姫…」
八束は矢を持った女の顔を見て、思わず呟いていた。それは死人となったはずの柊だった。そして先程見事な剣技で山賊を倒したのは、八束の護衛の日照雨だった。
「八束様、よくご無事で」
日照雨は八束に駆け寄ると素早く持っていた布の端切れなどで足を止血してくれた。
「筋までは切れてません。治ればまだ歩けるはずです」
八束はぼおっと日照雨の言葉を聞いていた。夢ではないかと思った。ありえないことが起きているような気がする。
「どうして、ここに…」
八束は呟いた。日照雨が肩を貸して、八束を起き上がらせてくれる。
「こっちも同じこと思ってますよ。猪娘の勘ってやつに感謝ですね」
日照雨は感慨深そうに笑った。
「勘じゃない。目に見えない糸のようなものに引っ張られたと言ったらいいのか、天命とも言うべきか。とにかく、わたしにはどうにもならない強い力に突き動かされた」
柊は背負っていた矢筒に手に持ってすぐに打てるようにしていた矢を戻した。柊も日照雨も玄北の気候を知り尽くしているからか、八束と似たような毛皮を身に纏っていた。
「どこから話せばいいのか。とにかく、八束様。聞いては頂けませんか」
日照雨が安心させるような声色で語りかけてくる。八束も知りたかった。もう死んでしまったと思っていた二人が目の前にいる。その理由を。
静かに柊は語り出した。




