弐拾肆
「あの子が…亥家の姫様が神鳥様を殺したなんて、私は信じていないよ。あの子は優しい子だから、殺しなんてしない。もし、本当だとしても何か理由があったんだ」
八束にもそう信じてくれと懇願するようにミヨコは泣き崩れてしまった。その背中をイナが撫でている。たしかに、避難民たちを保護してくれた亥家の姫が神鳥殺しの犯人だとは信じたくないだろう。
八束も今初めて、クロを殺したとされる者が捕まっていたのだと知った。
「やぐさ、ごめん。母ちゃんは不安定だから、一度泣き出したらしばらくはこうなの。姫様が神鳥殺しの犯人として捕まったってお上から触れが出てからずっと泣いてて…」
イナは泣いているミヨコに手早く白湯を作って飲ませると円座に座らせた。
「あのね、亥領に行くの私もあまりおすすめしないけど今の時期ならぎりぎり亥領の手前の子領までなら、隊商が行くと思う。一人で行くのは危険だよ。私が知り合いの商人さんに、やぐさを混ぜてくれないかって頼んでみるね」
イナが言うには旅人は安全のために商人たちの一行に混ぜてもらうことがあるらしい。勿論、商人たちは用心棒を頼むのでそれにただ乗りさせてもらうわけには行かず、それなりの金を渡さなくてはならないらしい。
特に玄北地方には、野盗が多く用心棒の需要が高い。しかし、商人の一行に混ぜてもらえたとしても用心棒が守るべきは主人である商人であり、混ぜてもらった旅人は真っ先に切り捨てられる。
しかし、一人で行くのは危険なためそれでも隊商に混ぜてもらうのだという。
「ありがとう。ところで、私が元々着ていた衣はあるだろうか」
薙草の形見であり、八束ほどではないにしろ、上等な絹を使った衣の筈だ。イナは少し申し訳なさそうな顔をしてぼろぼろになった薙草の衣を持ってきた。
「ごめんね、汚れてるし穴が空いてるし、血がついてるし…。でもこれは絹でしょう? 洗い方がわからなくてそのままなの」
イナは泣き出しそうになりながら頭を下げて畳んだ衣を八束に差し出した。
「いや、ありがとう。大切なものなんだ」
もうこの世にはいないであろう大切な友人、薙草のものである。しかし、もう着れるような状態ではないし、何より絹の衣を着ていたら一目で貴族だとわかってしまうだろう。これからの旅に、薙草の衣を着ていくのは危険だ。
そして八束を訳ありの貴族だとわかっていながらも助けてくれたミヨコとイナに感謝の念が湧き上がってきていた。
ミヨコは落ち着いたのか涙を拭い、こちらに顔を向けた。
「この衣、もう着れないけれど綺麗なところだけ切り取ったらどう? 大切なものなんでしょう」
八束がミヨコの言葉に頷くと、ミヨコは「少し、貸して」と衣を受け取ると裁縫箱から鋏と針と糸を取り出して、綺麗な部分だけを切り取り、小さな袋にしてしまった。
「その勾玉、あまり人目に晒さない方が良いでしょう。とても古く高そうなものだから、きっと袋に入れて下げていた方がいいわ」
そう言って八束が首に掛けようとした勾玉の紐を丈夫に直して袋に入れて首から下げられるようにしてくれた。人に何かと聞かれたらお守りだとでも答えればいいだろう。
ミヨコは最後まで八束が亥領に向かうことを反対していた。この家には男手がいないからいつまでもいてくれていいし、この居住区は一時的なもので被害にあった土地の土砂を片付ける仕事が男にはあるから、仕事にも困らないと言った。
それでも八束がどうしても行きたいと願えば、最後には折れてくれて自分たちも貧しいだろうに八束の旅支度を整えることまでしてくれた。
「これは亡くなった主人の外套。毛皮だから、亥領の冬にも耐えるわ。着ていきなさい」
そう言って夫の形見であろう毛皮の外套を譲ってくれた。イナは知り合いの商人に八束を隊商に混ぜてくれないかと頼み、その商人は今年の雪は激しいだろうから朱南地方を中心にしか商いをしないので、更に知り合いの商人の隊商に当たって八束を入れてくれるところを探してくれた。
「三日後に出発だって」
イナが隊商の出発日を伝えてくれると、ミヨコは八束の顔を見て、いよいよという顔をした。
「どうしても、剣は持っていくの?」
不安そうに八束の腰から下げられている剣を見た。八束は武人ではない。それはミヨコからも体つきを見てわかったのだろう。武人では無い者が武器を持って行ったって災いの元にしかならないと考えているのだろう。神器であるとは知らないとはいえ、ミヨコからしたら剣は売って路銀に変えてしまう方がいいと思うのだろう。
「亡くなった主人が言っていたの。力を持つ者は否応なしに争いに巻き込まれていくって。使えないのに武器を持っていたら、要らぬ争いに巻き込まれるかも。あんたは出会った時も怪我を負って倒れていた。その剣のせいで何か争いに巻き込まれたんじゃないの?」
八束はミヨコの心配に安心を返せるほどの返事を持っていなかった。逆賊は秋彦を玉座につけるために、神器を探すだろう。神鳥が殺されたなら尚更。そして神鳥を殺したとされたのは亥家の姫だ。このまま、亥領に向かってよいのか、八束は迷い始めていた。
日照雨から聞いた話、ミヨコから聞いた話、隊商を待つ間、土砂の撤去作業を手伝った時に聞いたこの居住区の住民たちの話、それから祭の夜に会った柊の姿からどうしても彼女がクロを殺したとは思えなかった。
それでも日照雨の、亥領へ向かえ、絶対に諦めるなという言葉が背中を押した。
「この剣は大切なものだから、なくてはならないんだ」
八束にはそう言うのが精一杯だった。ミヨコは仕方がないというように、微笑む。
「あんた、訳ありだろうから聞かなかったけど亥領に何しに行くの? この時期なら亥領から出稼ぎに来る人はいてもわざわざ行こうなんて人はあまりいないよ」
「亥家の猪助殿とどうにか接触しようと考えていた」
八束は貴族の亥家にそう簡単に接触できるとは思えない、などと言われると思っていたがミヨコはどこか過去を懐かしむような遠い目をした後、「これも何かの縁かしら」と呟いた。
「猪助様には私の名前を出せば、話くらいは聞いてくれるだろうけど、奥方様には駄目よ。私の名前を出した瞬間に追い出されるだろうから」
八束は目を瞬かせた。
「あなたは一体、何者なんだ?」
ミヨコはくすりと笑って「あんたほどの大した人じゃないことは確かだよ」と言った。
「亥領での宿は当てはあるのかい? 知り合いの和尚さんなら泊めてくれるかもしれない」
和尚という単語を聞いて、イナが「松景さんね!」と嬉しそうな顔をした。話を聞いていくと、元は学者だったが、元々ミヨコたちが住んでいた村の寺に隠居するような形で住んでいる僧侶だという。
イナが病気の時は看病してくれたり、文字が書けないミヨコの代わりに娘に文を代筆したりと世話になった人だという。
ミヨコは家の部屋の隅にある木箱から、何かを取り出した。中には木が掘られた仏の像だったりが入っていた。きっと松景との繋がりなのだろう。
この家に紙などという高級品はないので、木簡に文を書くことにした。
「やぐさ、これは勘だけどあんたは字が書けそうな坊ちゃんって感じがするよ。書けるよね? 」
ミヨコは悪戯っぽく笑って木の板と葦を筆っぽくした文具を差し出した。八束は彼女らが八束が文字を書ける知識階級であることを薄々感じながらも、何も言わずに、こうして何でもないことかのように振る舞ってくれることがとてもありがたかった。
「ごめんねぇ、私らは滅多に文を描くことなんてないから。こんなものしかないけれど。自分の名前くらいは読めるし書けるんだよ」
ミヨコは少し自慢げに大切そうにしまっていた木の仏像などがある木箱の中から擦り切れた木の板を二枚取り出した。
その板には「美世子」と「依菜」と書いてあり、これが二人の名前であることがわかった。これから文を書く松景という僧侶に書いてもらったものらしい。
八束は美世子が言う通りに木簡に文字を書いた。普段使っていた高級な墨などはなかったので竈などで使う炭を粉末状に砕いたものに唾液を混ぜてそれらしくしたものを墨代わりにした。
まずは美世子たちの近況報告、依菜の病気は医者によれば寛解と言われたこと。そして矢草──八束のことだ──を寺に泊めてやったり猪助と繋ぎをしてほしいという旨を書いた。
「これを松葉村の慈恩寺の松景さんに届けてね」
美世子は八束の腹に縄で鏡を巻いて止めるのを手伝ってくれた後、上から彼女の夫形見だという毛皮を被せてくれた。それから懐に大事に文を仕舞い込む。
そして出立の朝、美世子は心配そうにしながら依菜は眠そうな目をこすりながら八束を見送ってくれた。
「気をつけるんだよ。亥領に入るための峠には山賊や狼が出るから」
そう言って美世子は八束を抱きしめた。八束は人から抱きしめられたことなど初めてだったので驚いた。慌てて離れようとするが、それも許さないほど美世子は強く抱きしめた。薬草のような匂いが鼻に充満した。
「本当に行ってしまうんだね。あんたが無事に亥領まで辿り着けることを祈っているよ」
そうして、満足したのか美世子は八束を離した。そして真剣な顔つきになった。
「猪助様に会えたらどうか伝えて。ひわを助けてくださいって」
「あなたの娘さんか?」
八束が尋ねると美世子は泣きそうな顔で頷いた。その時だった。同じ居住区の住人たちが慌てた様子で美世子たちの家に詰めかけた。
「大変だ、ミヨコさん。亥家の姫様が死んじまって、宮殿近くの肥溜めか何処かに捨てられちまったって!」
誰も彼もが狼狽えていた。その中で一番、狼狽え切り裂くような悲鳴を上げたのは美世子だった。
「ひわ!!」
娘の名前を呼んで美世子は駆け出して行ってしまった。八束も依菜と住民たちと共に美世子を追いかけた。しかし、居住区を出た少し先で転んだのかうずくまった状態で美世子は見つかった。
土を握り締めて、嗚咽が漏れていた。
「母ちゃん、ここから麗扇京は遠いよ。無理だよ」
依菜が美世子に覆い被さるように寄り添い背中を摩る。
「でも、何でひわは死んで尚、酷い扱いを受けなきゃならない! 私はひわが幸せになると思って送り出したのに。こんなの、あんまりだ!」
そう叫んで美世子は地に伏したまま号泣し始めた。それを聞けば部外者だった八束ですら何となく事情はわかってきた。美世子こそが、亥家の姫である柊の実母だと。亥家で何があったかはわからない。
しかし、柊が養子であるということを八束は知っていた。妃選びのために容姿が優れた女児を親族から養子にして本家筋にする話など珍しくはなかったので、別に気にしていなかった。
しかしなぜ、柊の実母がここにいるのかはわからなかった。姫の実母なら、亥家に囲われていたりしていても良いはずなのに。しかし、八束が考えても仕方がないことだった。
「髪の一房でもいい、肉の一欠片だって、骨の一欠片だっていい。あの子を取り戻してくる」
美世子は泣きながらも決意が固まったような声を出した。美世子は転んで怪我をしているし、そんな状態で肥溜めの中に入っていったら病気になって死んでしまうかもしれない。
依菜が振り返って八束をみた。
「やぐさ、もう行って。隊商に置いて行かれちゃうよ」
依菜も涙を拭いながら、八束にそう言った。
「大変世話になったのに、何も返せずにすまない」
「いいから、行って」
依菜の声にもうこれ以上、家族だけが共有する悲しみに土足で立ち入るなと言われているようで八束は頭を下げるとその場を後にした。




