弐拾参
兵士に囲まれた。松明の明かりが山の中でも囲まれているとわかる。犬の鳴き声が聞こえて、匂いでも探索されていたのかと日照雨は舌打ちをしたくなった。
雅な衣を着た薙草がちらりとこちらを見上げる。ここは巳領へと続く山の中。八束と別れ、少しでもあちらにいく追手が少なくなるようにと願った。
「ここまでのようですね」
諦めたように、しかし諦めきれないように薙草は呟いた。
「ここまでか」
日照雨も呟くと、疲労が押し寄せてくるようだった。薙草は貴族として生まれ八束の側近として着替えだったり蹴鞠の相手だったりと、重労働というものをしたことがない。だというのに慣れない山歩きの中で逃げながらよくやった方である。
「日照雨、私をここで殺してください」
八束と衣を取り替えた時から、薙草は覚悟が決まったような顔をしていた。日照雨も薄々、そんなことを言われるような気がしていた。そして殺す役目を自分が引き受けることになることも。
「私は今、皇太子八束です。敵に殺されるよりは貴方の方がいい」
薙草は苦しみを和らげるように笑った。護衛のうちの誰かが我慢できなくなったように鼻を啜る。八束の側にいて護衛たちもそれなりに交流があった。そんな者の死を何も感じないほど心は死んでいない。
「ただ死ぬだけは嫌なので私の首を持って敵に投降してください。敵も八束様の顔を知らないでしょうから私でも騙せるでしょう。あなたたちは敵の内に潜入し、いつか八束様の役に立ってください」
薙草以外の全員が息を呑んだ。
「お前はいいのか、それで」
日照雨は確認するように聞いた。薙草は、貴族のお坊ちゃんである。まさか政争に巻き込まれて自分が皇太子の代わりに死ぬとは思わなかっただろう。
ここで実は身代わりであると投降すれば捕虜となりとりあえずは命は取られないだろう。
「皇太子殿下が私のことを覚えておいてくださいます。私の生きた証は皇太子殿下が背負ってくれます。この国を導くのは逆賊ではありません。八束様です」
薙草はそう言ってその場に座り込んだ。首を切るためにやり易いようにしたのだということはすぐにわかった。
「痛いのは嫌いなので、すぐにやってください」
薙草が日照雨に笑いかける。日照雨は、刀を鞘から抜いた。研がれた刃が一撃で薙草の首を落としてくれるように願いながら、刀を振り下ろした。
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八束は一人だった。矢傷を受け、足を引き摺りながら、竹林の中を走っていた。護衛は八束を庇い、先程最後の一人が引きつけると言って別れたきりだ。彼は敵を倒したら合流すると八束を安心させるために言ってくれたが、きっと合流できないことは薄々わかっていた。
敵が八束を追ってこず、護衛が合流してこないなら、きっと相打ちだったのだろう。
中には矢を背に三本受けても倒れず、戦い抜いた護衛もいたし刀で切られても血を流しながら戦った者もいた。しかし、一人また一人と欠けていきついには八束一人になった。
八束は肩に受けた矢を抜くのではなく、短く折ってそのままにした。抜くと血が出るし抜いた衝撃で死んでしまうかもしれないと護衛から聞いていた。
小さい崖から滑り落ちるようにしてここにたどり着いたのもあって左足は折れているかもしれなかった。矢を受けたことにより熱が出てしまっている気がする。
八束は腰に下げた刀を撫でた。結局、抜くことはなかった。八束は刀の扱いなんて知らないし、下手に振り回しても護衛の足を引っ張るだけだ。だから逃げることに専念した。
自分を生かすために何人もの命が散っている。民を背負っていると思ってはいても実感するのは初めてだった。クロは俯瞰するように全体を見下ろせとよく言った。帝王学としては正しいのかもしれない。
しかし、今自分は見下ろす王者でも何でもなく、盤上を逃げ回るちっぽけな駒に過ぎないと八束は思った。熱に浮かされた頭がぼんやりとする。
神鳥が殺されたという報が入ってきてから敵に囲まれるまで怒涛のように時間が流れていった。今もその渦中にいるのに、頭はどうしてかここではない場所に行きたがっていた。
雲が空を覆い雨がぽつり、ぽつりと頭上に降ってくる。熱を冷ましてくれるような気がしたが、濡れたあとの体力低下が怖い。何処かで雨を凌がなければと考えるが、もう力は尽きていた。
引きずっている足が小石か何かに躓いて、泥の中に八束は倒れ込む。打ち付ける雨が遠のく気配はなく、矢が突き刺さっている肩が燃えるように熱かった。
竹林の隙間に民家の明かりのようなものが見えたが、もしかしたら追手の松明の明かりかもしれない。八束は重くなる瞼に争おうとしたが、意識は無常にも遠のいていく。額の火傷は早急に手当しなかったからか雨に打たれてじくじくと痛む。やがて重い瞼に抗えずに瞼を閉じた。
色々な記憶が浮かんでは沈む。
幼い頃、巳家の邸宅で浜木綿に付き合って貝合わせをした時のことを思い出した。本当は彼女の弟たちと蹴鞠をして遊びたかったし、生まれたばかりだという赤ん坊の馬を見たかった。
しかし、母が浜木綿はやがてお前の伴侶になるのだから仲良くしなさいと言った。浜木綿のことは嫌いじゃなかったけど、貝合わせの柄を浜木綿は全部記憶していたからつまらなかった。
でも浜木綿は蹴鞠はしてはいけないと言われているし、彼女を仲間はずれにして遊びに興じるほど冷たくはなれなかった。
日照雨と初めて顔を合わせた日を思い出した。彼は背が高かった。どうやって鍛えたらそんなに背が伸びるのかと尋ねた。飯を沢山食べたら、背が大きくなったと彼は言った。
亥領は貧しいのに、母親が頑張って食材を用意してくれたと話していた。彼の母親はきっと暖かい人なのだろう。雑穀に少しの米を混ぜて、混ぜ続け餅みたいにして炙って食べるのが好きだと日照雨は言っていた。
日照雨は、辛子を混ぜた味噌をつけるのが好きだと言ったが、柊と食べる時は彼女に合わせて砂糖醤油で食べるのだと声は不満げに、しかし顔は微笑ましく語る姿に自分もその場にいるような気になった。
八束はそんなこと、浜木綿とはしなかった。自分もそんなささやかなご馳走の場に混ぜて欲しくて、少し羨ましかった。
日照雨の語る柊は、奇想天外なことを思いつく天才のようだった。
「だって弓ですよ。弓! お姫様なのに弓を習いたいなんて言うんです。俺は奥方様にばれないように必死でしたよ」
苦労した、困らさられた、そう語る日照雨の顔は何処か嬉しそうで自慢の妹を紹介するみたいだった。だから、八束も個人的に亥家の姫、柊には興味があった。きっと楽しい人なのだろうな。
幻燈祭で会うことになるとは思いもよらなかった。卯家の撫子姫も一緒だったのは更に驚いた。女性が暴漢に絡まれていると八束が思っていた時には、日照雨は血相を変えて側を少しだけ離れてもいいかと尋ねてきた。
あの日、護衛は日照雨だけだったから本当なら側から離れさすわけには行かなかったけど、あの日照雨が焦った表情をしていたから、思わず八束も承諾してしまっていた。
柊は本当に日照雨の言っていたような人だった。正直、身内の贔屓目があるだろう、多少脚色しているだろうと疑っていたがどうやらお忍びで街に出てくる計画は柊が主導しているようだったため、日照雨と柊は意外と思考が似ているのかもしれなかった。
日照雨が「祭りの日だっていうのにお利口にずっと部屋にいたら黴てきのこが生えちまいますぜ」
と言ったのが始まりだったから。きっと彼は八束が羨ましそうに街の明かりを見下ろしていたのを見て、自分が薙草に怒られてやる理由を作ってくれたのだ。
祭りで思いがけず出会った、撫子姫その人は。庶民の麻の衣を纏っているのに、陶器のような滑らかな肌とあかぎれ一つなくよく手入れされた爪がある美しい指のせいでよく見ればちぐはぐな格好をしていた。
清らかで天女のように美しい。羽衣を取られてしまった天女が人の姿に扮しているのかと思った。その微笑みは春の木漏れ日のように、見る者の心を遍く明るくさせる力を持っているようだった。
儚げな薄い唇が弧を描いたとき、八束は幼い頃を思い出した。浜木綿やその弟たち、薙草と過ごしたのとは別の思い出が。
こっそり一人で抜け出して、山桜を見に行ったことがあった。卯領に母が湯治として行啓の帰りに寄ったのだ。有名な温泉地として栄えたその街のいちばん高級な宿から抜け出すのは薙草の監視もあって難しかった。
その時は悪戯に協力してくれる良き悪友とも言える日照雨とはまだ出会っていなかった。幼いながらに小賢しかった八束は、護衛や世話係の廁だったり、食事の時間に生じる僅かな空白を狙って外へ飛び出した。
窮屈な宮暮らしが少し息苦しくて、こうして宮の外に出れる機会はとても好きだった。山桜は街の象徴のように鎮座していて、とても目立っていたから近くにあるように感じた。
しかし、実際歩いてみると意外と遠いもので少し汗ばんで来てしまった。桜なんて麗扇京では年中見ることができるが、季節の流れに逆らわず、自然とそこにある姿はとても美しく見えた。
桜を眺め、感嘆の息を漏らしていたら同じ考え持ったのか明らかに貴族だとわかる被衣を被った少女が小動物みたいにひょこひょこと現れた。
最初は彼女も桜に見惚れていたが、八束の存在に気づいたようだった。彼女の被衣が飛ばされてしまったのを捕まえて返してあげた以外に、多くの言葉を交わさなかった。あの時は彼女がまさか卯家の姫君で、自分の妃選びに参加するとは思わなかった。
あの桜を見に行ったちょっとした冒険は偶然の出会いの思い出と共に八束の中に残っている。
数々の思い出が浮かんでは消え、を繰り返した後、静寂と暗闇が訪れた。しかし、意識が覚醒していくように上に向かって身体が浮いているような感覚になった。
錆びついたように思い瞼を開けると、藁葺き屋根から雫が八束の鼻に落ちてきた。ざらざらとした肌触りの悪い布が八束の額に乗せられているようだった。少し湿り気が残っているので、元は濡らした布を絞ったものだったのだろう。
そして、こちらを除き込む歯の欠けた小さな顔が一つ。
「母ちゃん、起きたよ」
八束より歳下だと思われる少女は、そう言って厨の方で作業していた母親の元に駆けていった。八束は起き上がりながら、腹に巻いていたはずの八咫鏡、腰に下げていたはずの天叢雲剣、首から下げていたはずの八尺瓊勾玉の質量が感じられないことに焦っていた。
手を拭きながら少女の母親らしき女性がこちらに向かってくる。
「目が覚めたかい。よかったよ、すごい熱だったんだから」
八束はその言葉と状況で助けて貰ったのであろうことは理解したが、もしかしたらこの者たちが神器の真の価値をわからず質にでも流してしまったかもしれないという考えが過っていた。それを裏付けるかのように、八束が来ているのは薙草の衣ではなく、大きい粗末な麻の衣だ。
そして雨漏りするほどこの家は貧しいことを示していた。
「助けていただいたようで感謝する。私の…荷物はあるだろうか」
尋ねてみるが、不安だった。もしかしたらこの人たちが助けるより前に野盗か何かに荷物を剥がれたあとだったのかもしれない。
「身体に巻いてた鏡や勾玉、剣? のこと? 大丈夫。ちゃんとここにあるわ」
母親らしき人はそう言って重そうに剣と鏡、勾玉を持ってきた。八束は薄い布団に寝かせてもらっていたようだ。
「きれいねぇ、すごいねぇ」
少女は勾玉に興味を惹かれたようで目を輝かせながら勾玉を見つめていた。
「こら、あんた駄目よ。このお兄さんのものなんだから欲しがっちゃ…」
「欲しがってない。綺麗っていっただけ!」
喧嘩が始まりそうな予感に、八束は話を変えることにした。
「丁寧に扱っていただいたようで、どうもありがとう。亥領へ行きたいのだ。ここは何処だろうか」
母親の女性は驚いたように目を丸くした。
「あんた、今から亥領へ行こうってのかい? 亥領は今から雪で閉ざされる。旅人だって寄り付きはしないよ。ここは黄央の西の避難民の居住区」
どこの領地が逆賊と繋がっているかわからないから他の領を抜けることはできず直轄領である黄央地方を麗扇京を避けるように北上するつもりだった。概ね道は合っていたようであることに安堵する。しかし、麗扇京から見て西南にあるこの居住区は麗扇京に近いことには代わりない。
早く抜けて亥領へと向かわねばならなかった。
「私はミヨコ、こっちは娘のイナ。あんた、名前は?」
「私は、や…」
思わず八束と名乗ってしまいそうになったが、皇太子の名前がどこまで広まっているかわからない。今、八束は劣勢だ。ここから足がついて敵に引き渡されることもあるかもしれない。
「や…?」
イナが首を傾げながらこちらを伺ってくる。一度出してしまった言葉は引っ込めれない。
「やぐさ…だ」
結局、八束は薙草と自身の名前を合わせたような偽名で通すことにした。字は「矢草」とでもしておこう。
「やぐさ、今から亥領に行くのはやめておいた方がいい。あんた、矢が刺さってたんだよ。雨に打たれて高熱だったんだし、そんな状態で冬の亥領には行けないよ」
ミヨコが心配するように諭してくる。確かに熱は下がっていたが、縄の代わりに巻かれている包帯代わりの布の端切れが汗と血を吸い、痛みがないわけでは無かった。
「冬の亥領は厳しい。こう見えても私たちは亥領出身でね、あの土地の厳しさなら身に沁みて知ってる。上の娘が、後宮にお勤めしているからたまに会えないかとイナの病気も薬のおかげで寛解したから麗扇京にきてみたけど、土砂で家が流されて今は避難民の居住区に移ってるんだけどね」
自身の上に降りかかった不幸を仕方がないとミヨコは笑って見せた。八束は己と母の行動に恥じる部分があることに気づいた。確かに怪しげな動きを嗅ぎ取って安全な場所に逃げるという母の選択は間違いでは無かったのだろう。
しかし、被害に遭った民を置いていくことには違いなかった。祈祷をしている場合では無かったのだ。
「この避難民の居住区は、今上陛下のおかげなのか?」
母が不在の間に、父が避難民を安全な土地に移動させたのかと考えたが病の父にそんな判断能力が残っていないことは八束が知っていた。薄々、もしかしたら今、逆賊と八束が思っている秋彦が指示したものではないかという気がしていた。
「違うよ。これは…自慢じゃないけど我が亥領の領主様と姫様のおかげなんだ。私の家が土砂に流された辺りにあると、後宮にお勤めしてる娘は知っていたからね。娘が猪助様に頼んで支援してくれたんだ」
ミヨコは誇らしげに語った。しかし、八束は引っかかるところがあり尋ねた。
「娘が…?」
土砂で流されたのはあまり裕福ではない特に他領からの移民が集う地区で、そこに住んでいたとなればいくら亥領出身といえど領主にまで繋がるとは考えられなかった。八束の疑問に、ミヨコは焦ったように答える。
「娘が師走宮に勤めていて、亥家の姫様が娘から土砂の影響を聞いて動いてくれたそうだよ」
八束は自分たちがしなくてはならなかったことを柊が、ひいては亥家に任せるような形になってしまったことが申し訳なかった。




