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 「春風、ここが麗扇京みやこなのね!」


 撫子はそっと物見窓から外の様子を伺った。麗扇京までの道のりではのんびりとした田園風景が広がっていて、男は直垂ひたたれと裾絞りの小袴と草鞋姿、女は小袖に褶を腰布で固定した姿か、絞り袴姿で農作業をしている姿が見れた。

 しかし、麗扇京に入ると庶民であっても着物の色は鮮やかになって顔にも余裕があるように見える。朱塗りの柱の建物が並んで吊るされた色鮮やかな紙灯籠が幻想的に浮かび上がっている。まだ昼ではあるが、これは夜に見たら壮観だろうと思うほどに美しい眺めだった。紙灯籠の草花の模様などは灯りが灯れば透けて見えて綺麗だろう。


 「まぁ、いい匂い。焦げた醬の匂いがするわ」


 皇国の調味料といえば四種器の酒、酢、塩、醬である。庶民ともなるとこれが二種物となり塩と酢だけになる。しかし、皇国で一番栄えている麗扇京ともなれば庶民でも酒と醬が手に入るのである。その豊かさに春風は感嘆のため息を漏らした。しかしその醬の焦げた匂いの発生源が肉の串焼きであるとわかると顔色を変えた。


 「なりませぬよ、姫様。買い食いなど以ての他ですが、獣の肉というのは庶民が食べるものです」


 「でも春風、私食べてみたいわ」


 ちょっと願望を口にしただけなのに、春風の顔は真っ青になった。


 「これから、皇太子殿下の女人になりに行くというのに身体の内に穢れを溜め込むような真似、この春風が許しませぬ。せっかく邸を出る前に禊をしたというのに」


 「でもどうせ、後宮に入る前にも禊をするんだから」


 撫子の言葉を春風は聞かなかった。長旅で少し着崩れた撫子の着物を丁寧に直すことで話を逸そうとしている。撫子たちを乗せた網代車は宮殿へと向かう大通りを進んだ。

 牛車に記された卯家の紋様を見て、民たちは頭を下げて道を譲る。喧騒が穏やかな卯家の所領とは大違いだ。


 御者が朱色の大門の門兵に卯家の姫の来訪を告げると、重々しく門は開かれた。そこからいくつ門を潜っただろうか。漆喰の壁ばかりが窓から見える。その壁の上に少しだけ覗く反った屋根は黄金色に輝いて、金の雲のようだった。


 麗扇京は宮殿を中心に扇状に街が広がっている都だ。背には山が聳え、山神様が座す所だと言われている。その山に山桜が咲いているのは分かるのだが、紅葉のような鮮やかな赤が目に留まった。


 「春風、あれは何?」


 「ああ、あれは紅葉でございますよ」

 

 さも当然のように春風が言うので撫子は季節を間違えてしまったのかと思った。


 「春風、今は春…よね? 紅葉は秋じゃない」


 春風は撫子の言葉にぱちくりと目を瞬かせた。


 「姫様、あの山…麗扇山れいせんざんは神聖な霊山なのです。そしてその山の麓に広がるこの麗扇京もまた、日の神様の子孫の一族が住まう神聖な土地。そのため草花は季節関係なく狂い咲きなのでございます」


 それを聞いた撫子はうっとりと頬を赤らめ、瞳を潤ませた。よく見れば黄色く色づいた銀杏の木も見つかり、夏に咲かせる花菖蒲も見つかった。


 「まあ! なんて素敵な所なのでしょう。私、麗扇京みやこに来れてよかった!」

 

 撫子は心が踊るのを抑えられなかった。そして後宮の門を潜ると雰囲気はそれまでのものと変わった。華やかで雅な建物が並び、その中央には皇后が住まう宮殿と巨大な桜の木があった。むしろ、その桜の木を中心に後宮という小さな街のような宮殿群が広がっているように感じる。


 牛舎から降りた撫子はその巨大な桜に目を奪われた。


 「春風、あの桜は…」


 初めて見るというのに懐かしい気持ちになる。やはりあの桜吹雪と少年の想い出が、撫子の心に深く根を張っているのかもしれない。


 「あれは不死桜(しなずさくら)と言いまして、初代皇后様が植えられたものですわ。どんな嵐が来ようとも倒れることなく咲き続ける姿から国の末永い繁栄を願い、不死桜と名付けられたといいます」


 春風が教えてくれる。しっかりと根を張って太い幹にしなやかな枝が伸びている。その周りを覆うのは霞のような薄紅の花たち。


 「紫宸殿の扶桑と対になるように、と植えられたものだそうですわ」


 「扶桑?」


 撫子は首を傾げた。春風は「後宮(ここ)からでも見えますわよ」と、壁と屋根の群れの中から突出した巨大樹を指差した。


 「名目上では扶桑は帝が、後宮の桜は皇后が管理することになっているのです。ですので、陛下の別名が扶桑君だったり皇后の別名が桜の君だったりいたしますのよ」

 

 皇后宮の方から、しずしずと女房たちが歩いてくるのが見えた。春風は目にも見えぬ速さで裾や領布を整え直した。宮中の女房に自身の姫が呆れられないように細心の注意を払っている。


 「卯家の姫様ですね。卯月宮の湯殿へご案内いたします。そこで禊を済まされた後、皇后陛下の御前にご案内いたします」


 白髪の古参であろう女房が先頭に立ち女房たちを引き連れていた。その威圧的な雰囲気から、春風も少し気圧されたようだ。


 撫子は十二あるうちの宮の一つ、代々卯家の姫君が住まうという卯月宮に案内され、そこの湯殿で澡豆と麗扇山の湧水で禊を済ませた。


 その後、皇后の御前へと案内される。翡翠や珊瑚、紫水晶の珠飾りが共に吊るされた倚子に座る御簾みすの中の人影こそ皇后、濃紫こむらさきその人だろう。紫の衣の裾だけが見えている。

 皇后濃紫は病床に伏した帝に変わって摂政となり政を動かしている女傑であると撫子は聞いていた。女人が政に関与するという禁忌を破り、垂簾聴政を敷く人物だ。

 しかし、皇太子が元服を済ませた今は政から退くと思われたが、その気配は一切ない。


 十一人の姫が濃紫を前にして並んで座っていた。撫子も急いで卯家の席に座した。女房たちは部屋の隅で控えている。

 皇后付きの女房が「全員、お揃いになりました」と濃紫に耳打ちした。そしてそれまで貝のように固く口を閉ざしていた皇后濃紫自らが口を開いた。


 「女同士故、御簾をあげよ」


 確かに、ここには女しかいない。女房たちは少し躊躇ったようだが、するすると御簾を上げた。吊るされた珠飾りがしゃらしゃらと揺れる。

 中から現れたのは宝冠と金釵を身に付けた四十路とは思えないほど美貌が衰えない美女がいた。濃い口紅と目尻の紅が神々しさすら感じる。濃紫は端から端まで姫たちを眺めた。


 「この中に皇太子殿下をお支えする女人がいることを願おう」


 射抜くような濃紫の視線に撫子は胃がひっくり返ったような心地になった。もう既に妃選びは始まっているのだ。形式的には皇太子自らが選ぶ、ということにはなっているのだがそこに濃紫の意思が介在するのは明白だった。


 「わらわは後宮の長だが、陛下を日々お支えするのに忙しい」


 忙しいのは政のためだと撫子は思った。濃紫がゆっくりと視線を向けた先には三人の赤紫色の衣を着た同じ顔をした女童が並んでいた。後ろに並ぶ女房の数で濃紫に準じる位の女宮たちであることがわかった。


 「内親王たちが妃選びの諸事を恙無くこなす。姫君たちも、何があれば内親王たちを通じて私に上奏することだ」


 濃紫が優雅に口の端を吊り上げた。その蠱惑的な笑みに、渦の中に吸い込まれそうな恐怖がある。美しい花なのに毒があるみたいだ。


 「桜の枝(さくらのえ)梅の枝(うめのえ)桃の枝(もものえ)、頼んだよ」


 濃紫の声が冷えたように床に沈んでいく気がした。内親王たちは「はい、皇后様」と手をついて頭を下げている。十に満たない幼子たちの表情に年相応の無邪気さは感じられない。


 「皆、一つの宮の主として責任を持ってもらいたい。切磋琢磨し、一年後皇太子妃に相応しい女人に育っていることを期待する」


 濃紫はそう締め括った。しかし、もし濃紫が認める皇太子妃に相応しい女人が現れなかったら姫君たちを入れ替えて何度でも妃選びを繰り返すのを実行しそうな、そんな気迫があった。


 「これより、入宮の儀を執り行います。皆様方は正式に宮の主となられます」


 皇后付きの女房が口を開き、後ろに控えていた下位の女房たちに指示を出した。すると紫の布が掛かった盆のようなものに載った細長い鈍色の鉄製の鍵が運ばれて来る。これによって正式に宮の門の正門を開くことができる。

 先程、湯殿で禊をするために宮に入ったのはあくまで仮であり、裏門から入ったのだ。


 「子家二の姫、ささめ様」


 女房が名を呼ぶ。裾に向かって深い紅になっていく美しい上衣と緋袴という姿の黒い髪、雪のように白い肌の線の細い美女が恭しく睦月宮の鍵を拝領した。


 「丑家一の姫、茶梅さざんか様」


 緩慢な動作で、薄黄色の上衣を纏った垂れ目でおちょぼ口の可愛らしい姫が如月宮の鍵を拝領する。


 「寅家二の姫、胡蝶こちょう様」


 花と蝶の戯れが描かれた水浅葱色の上衣に、名の通り透き通るような蝶を模った飾りがついた釵をつけた果実のように瑞々しい美しさを持つ姫が弥生宮の鍵を拝領した。


 「卯家一の姫、撫子なでしこ様」


 名を呼ばれ、撫子はそのほかの姫たちに目を奪われていたことに気づいた。目の前には鍵が載った盆が差し出されている。部屋の隅で春風が心配そうにおろおろとこちらを見ている。

 春風が口をぱくぱくさせながら何かを伝えようとしている。口の形から読み取るに「うけとるのです」と言っているのだろう。


 撫子は両手で鍵を受け取るとまじまじと鍵を見つめた。これが卯月宮の鍵。この鍵を手にしたということは一つの宮の主となった証。濃紫の宮の主として責任を持ってもらいたいという言葉が蘇る。

 これから一年間、卯月宮が撫子の家だ。凰鈴のいない暮らしはどれだけ快適だろうか。撫子はこれからの宮での暮らしに思いを馳せた。


 「辰家三の姫、花弦(はなつる)様」


 豊かに波打つ髪に薔薇色の頰、艶っぽい唇を持った幸せが溢れ出しているかのような雰囲気を纏った姫が皐月宮の鍵を拝領した。自信に満ち溢れていて、背筋がしゃんと伸びている。身に纏った萌葱色の白くぼんやりと桜が浮かび上がる衣は見事だった。そしてそれを着こなす花弦という姫は先程の姫たちと比べ、頭ひとつ抜けて美しかった。


 「巳家一の姫、浜木綿はまゆう様」


 深い青の衣に、特殊な織り方でもしたのか光の当たり具合で色を変える紗の領布を纏った長身の美しい姫だった。烏の濡れ羽色の髪に意志の強い切れ長の目、きりりとした柳眉、卵形の輪郭、引き締まっているが豊満な身体。

 しかし、婀娜っぽさを感じさせないのは月の光を受けた刀身のようにすらりとした美しさのせいだろうか。水無月宮の鍵を受けとる姿は武芸者が刀を受け取るように見えた。


 「午家四の姫、睡蓮すいれん様」

 

 柔らかそうな優しげな瞳をした姫だった。艶のある髪は念入りに香油を塗り込んであるのだろう。真赭色の上衣を纏っている。着物の重ね具合、色の重なり合いといった美的感覚が優れているのが伺えた。彼女が優秀なのか、女房たちが優秀なのかはわからないが、先進的な着こなしをしていた。文月宮の鍵を丸い手で受け取る。桜貝の爪が可愛らしく付いていた。


 「未家二の姫、清花きよはな様」


 一番、小柄な姫だった。しかし豊満な身体つきと長い睫毛は色香を漂わせる。そして自分の容姿に自覚的な笑みを貼り付けていた。薄水色の上衣には花の刺繍が所狭しと施されていて、頭に飾られた造花と合わせてまるで花の化身のようだった。細っそりとした今にも折れてしまいそうな腕で、葉月宮の鍵を拝領した。


 「申家三の姫、百日紅さるすべり様」


 その姫の髪は緩く波打ち、光の当たり具合で香色に輝く不思議な髪を持っていた。瞳の色も黒というより茶色である。しかし、その瞳は何処も捉えておらず、緊張しているのかぎこちない態度で恐る恐るといったように長月宮の鍵を拝領した。


 「酉家二の姫、すすき様」


 その姫は真っ直ぐな黒髪に、柔らかな形の眉、涼しげな目元。顎は小さく尖っている。引かれた紅は肌の白さを際立たせていた。神奈月宮の鍵を拝領する。


 「戌家一の姫、桔梗ききょう様」


 栗色の艶やかな髪をした甘い顔の姫だった。彼女を見ていると米粉に甘葛を煮詰めた汁を加えた揚げ菓子を食べているような気分になる。それほど愛らしい少女だった。仕草も可愛らしく、霜月宮の鍵を受け取る。


 「亥家一の姫、ひいらぎ様」


 一番端に座っていた亥家の姫の姿を見て、撫子は思わず息を飲んだ。その姫の風変わりな姿に驚いたのである。それは他の姫や女房たちも同じだったようで少し空気が揺らいだ。

 黒くうねった髪に、はっきりとした眉。大きな瞳とはっきりとした顔立ちをしていた。しかし驚いたのは彼女の格好だ。毛皮を袿代わりに羽織っていたのだ。

 

 真鍮を円形に曲げた耳飾りには満月のような蜂蜜色の硝子珠が振り子のように揺れている。その耳飾りを撫子は美しいと思った。しかし、彼女の美しさに感嘆していたのは撫子だけだったようで周りの女房たちは顔を顰めるのを我慢しているのか、ひくひくと口の端や眉が震えている。


 亥家の姫、柊は木綿の衣を纏っていた。見たこともないような変わった紋様の刺繍が施されている。


 まぁ、絹の着物じゃないなんて。撫子は思わず開いた口を袖で隠した。濃紫も扇で口元を隠し、表情が読み取れない。

 柊が師走宮の鍵を受け取るのを見届けて、皇后は女房たちを引き連れて退室していく。それぞれの姫たちも実家から連れてきた女房と宮廷から派遣された女房たちを従えて今しがた貰った鍵を手に、宮へと帰っていく。


 その中でぽつりと亥家の姫、柊だけが一人だった。

 

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