拾捌
兎を射止めた。素早い弓捌きに獲物を逃さない。
「ねぇ、日照雨! 私も上手くなってきたんじゃない?」
兎を締めてから、皮を剥ぐ作業に取り掛かっている緋和を日照雨は少し気まずそうな様子で眺めていた。これでは亥家の姫だとは誰も思わないだろう。
「猪娘、そんなことより琴なり歌なり勉強が山積み何じゃないのか? …あと、返り血は自分で洗えよ」
日照雨はため息と共に言葉を吐いた。緋和の姫らしからぬ行動とその一度決めたら折れずにまっすぐ進む猪突猛進さに、彼は早々に緋和を姫君として尊敬するのを諦め、二人きりの時には猪娘というあだ名で読んでいた。
正直、緋和も柊姫と呼ばれることにむず痒い思いをしていたのでこれはよかった。日照雨が発する猪娘という名前には、確かに親しみが込められていて嘲りなどが含まれていない。
本当は真名の緋和と読んでもらうのが一番だが、そんなことはできない。真名は将来夫となるものにしか明かせず、ただの護衛には明かせなかった。
ただの庶民であるならば、呪いなんて恐れずに真名同士で呼び合えていたというのに。
「別に、いいじゃない。琴や歌が上手な姫様はたくさんいるんだから一人くらい狩りが上手い姫様がいたっていいでしょ?」
緋和がそういうと日照雨は黙った。しかし、納得したわけではなさそうだ。
「妃候補に…選ばれそうなのか?」
若宮がそろそろ元服しそうだという話は流れていた。ならば、妃選びのために後宮が開かれるのも時間の問題で、一応亥家本家の姫となった緋和は妃候補に選ばれるであろうことは予想がついた。
「少なくとも二、三年以内には妃選びが始まりそうだって。なら、私は今までの食事と宿代くらいは恩を返さなきゃ」
兎の皮を剥き終わった緋和は盥に汲んだ井戸水でばしゃばしゃと血を洗い始めた。また、日照雨は黙った。今日は黙ってばかりで何だか変だった。
「妃候補に選ばれたら、忙しくなるだろうにその時傍にいてやれない。悪いな」
何とか絞り出したように日照雨が言った。
「何言ってるの?」
緋和はずっと日照雨が傍にいてくれると思っていた。
「麗扇京に行くことになりました。姫様、護衛の任、降りさせてもらいます」
気がつけば日照雨は膝をついて頭を下げていた。それは許しを乞うものではなく、もう決定した事項を報告しただけだった。
「出稼ぎにいくの?」
継ぐものがない武家の次男坊や三男坊が、職を求めて麗扇京へいくことは亥領では珍しいことではなかった。家族に仕送りができるし、自身の武の腕を麗扇京で試すことができる。
「でも、日照雨には私がいるじゃない! 私の護衛って仕事があるじゃない。何で無理してまで麗扇京に行こうとするの?」
この亥家の邸の中で唯一心開いた者が自分から離れていく。それが緋和には耐えられなかった。
「無理はしてない。猪助様に許可を貰った。俺は麗扇京で自分の腕を試す。宮廷で近衛の任に就く扶桑衆が若い男を集めてる。猪助様からの推薦で入れることになった」
「そこまでして腕を試したい? このまま亥領で暮らすのじゃ駄目なの?」
緋和は涙を目に浮かべていた。しかし、あの日のように慰めてくれることはなく、目を逸らした。それが悲しかった。
「手柄を立てなきゃ、欲しいものが手に入らないんだよ」
日照雨は切羽詰まったように言った。
「それは亥領で私に弓を教えながら、たまに遊んだりするよりも大事なものなの?」
我ながら、引き合いに出してくるものが子供っぽいと緋和は思った。日照雨は十八の元服を済ませた立派な青年になっていた。背は伸びて緋和より頭が一つも二つも離れている。胸板は厚いし、肩はがっしりしていて大人だった。
「将来を見据えれば……大事だよ」
日照雨は駄々をこねる子供をあやすような口調だった。
「日照雨の欲しいものって何? もしかしたら私が用意できるかもしれないよ」
「柊の一存じゃ決められないものだ。俺自身が力を証明して猪助様から認められなきゃいけないんだ」
何か、亥家に伝わる武器か宝物を譲り受けたいのだろうか。
「日照雨の欲しいものって何」
緋和は日照雨が巧みに逸らす目線を捕まえて問うた。先程から、緋和じゃ決められないもの、実力を証明しなければならないもの、緋和より大事なもの、とはぐらかされてばかりだ。
「柊だけには言わない」
きっぱりと日照雨は言い切った。
「馬鹿にしないから言って」
日照雨は緋和が馬鹿にするとでも思ったのだろうか。彼が真剣ならばこちらだって馬鹿にしたりしないのに。応援できるかはわからないが、日照雨が緋和と一緒にいるよりも大事だと判断したものだ。頭から馬鹿にしたりはしない。
「俺は次男坊だから、嫁探しは出来るだけ自分でやらなくちゃならないんだよ!」
日照雨は少し頰を赤くして言った。確かに、麗扇京には美女はいっぱいいるだろう。亥領で探すとしても、姫の護衛として近くで緋和が目を光らせていたら探しにくいだろう。それを聞いた途端、緋和は呆れたような怒りのような、しかし納得できてしまうような複雑な感情になった。
確かに、将来を見据えれば大事で……そして緋和より大事だ。緋和は日照雨が自分より大事なものを作るのが何か信じられないような心地がした。日照雨は姫の護衛として弓を教えながら人生を潰していくことに疑問を感じたのだろう。
元服すれば、結婚だってできる。日照雨の実家が彼の結婚問題に長男ほど意欲を示さないのであれば自分で頑張るしかない。緋和は日照雨の状況を全然知らなかった。
先程まで日照雨を引き留めようとしていた自分が惨めで子供っぽくて鼻の奥がつんと痛んだ。
嫁探しは彼の人生にとって大事だとわかってはいるのだが、やはり自分が捨てられたような気がして緋和は怒ったような拗ねたような声しか出せなかった。
「あー、そうですか。確かに大事だよねぇ。麗扇京に行って、嫁の一人や二人、三人くらい見つけてくればいいじゃない」
何だか当て付けるような言い方になってしまった。随分と子供っぽくて日照雨には釣り合わない。
「三人も要らねぇよ。一人でいい。ただ一人だけな」
日照雨は覚悟を決めたような顔をしていた。もうこれは緋和が何を言っても無駄だろう。それに、唯一心に決めたような人がいるような言い方だ。これじゃあ、子供のお守りを押し付けられて、人生を潰したくないと思うはずだ。
「また戻ってくるから。待ってろよ」
最後に、日照雨は緋和を慰めるような声を出した。緋和は日照雨に気づかれないように鼻を啜った。もう、こんな気持ちは止めよう。もし、麗扇京で会うことがあったのなら、ただの幼馴染として笑顔でいよう。
目尻に溜まった涙を何でもないふりをして拭った。
「わかった。待ってる」
緋和は無理矢理笑顔を作った。
******
日照雨との別れの後、緋和には別の護衛が当てがわれたが、その護衛の顔をよく見る暇もなく緋和には稽古が付けられた。若宮が元服し立太子したため妃選びの開催が皇后により宣言された。
各家が妃候補を推薦し、もちろん亥家の代表には緋和──柊が選ばれた。一年間みっちり妃教育を受け、麗扇京へと送り出された。
精一杯、盛大に送り出そうと猪助は頑張ってくれたが、蝗害の被害が出て、その対策に追われることになったのと何と薄氷の懐妊が発覚した。もう子は望めないと言われていたのに奇跡に等しかった。
命が危ないと言われようとも薄氷は産むと言って聞かず、ただでさえ少ない亥家に仕える女房たちは薄氷の出産のために回された。
柊自身も自分から旅の道中に世話係をつけることを辞退した。自分で自分の世話はできるし、後宮についたら向こうの女房たちがいる。道中の最低限の護衛だけで十分だと言った。
麗扇京には日照雨がいる。そう思えばたとえ会えずとも一人ではない気がした。
麗扇京に来てからだ。実母から文が届いたのは。正規の方法ではなく、後宮に物資を運び入れるものに金を握らせて師走宮に届くようにしたのだ。
文の内容は柊の妹、イナが難病に冒されている薬代が高くて払えない。このままでは死んでしまう。母が麗扇京に行くので、会えないか。というものであった。
今、亥家は薄氷の妊娠で忙しく猪助も柊の実家のことは忘れてしまったのだろう。もしかしたらイナが病であることも知らないのかもしれない。猪助は血の繋がらないイナのことはあまり気にしないのかも知れない。
柊はどうにかして後宮を抜け出し、母に会わなければならなかった。まずは娘子軍の巡回の穴を調べ、四方を囲う壁を職人が登るための突起から越えた。弓を引いていた腕はいつのまにかしなやかに筋肉がついていた。
待ち合わせ場所は母が指定した料理屋だった。麗扇京はいたが、ずっと後宮にいた柊は外の様子を知らなかったので、少し迷ったが何とか辿り着いた。
久しぶりに見た母は当たり前だが老けていた。柊はこんなに成長してしまった自分を母は気づいてくれるだろうかと不安になったが、母は柊と目が合うと涙を流した。
「ひわ…! こんなに大きくなって。亥家ではよくしてもらえたんだろうね?」
母は人目も憚らず、柊に抱きついた。柊も抱き返しながら懐かしい母の服に染みついた香草の匂いを嗅いだ。あの日を囲んで薬草をすり潰す母の姿が眼裏に広がった。
「母さん、久しぶり」
会えたらもっと話したいことがたくさんあったはずなのに何故か何処かへ消えてしまった。
「イナが、病気だというのは本当なの?」
まずはそれが心配だった。
「そうだよ。昨年、病気になって寝たきりだ。イナの世話があってまったく畑にも出られないから、猪助様の援助だけが頼りだ。母さんも三年前に亡くなったし…」
そこで初めて、柊は祖母が亡くなったのを知った。母は何度も亥家本邸に文を出したが返事がなく不思議に思っていたのだという。文は村に隠居している昔は学者だったという老爺が代筆してくれたものらしい。
きっと母からの文は薄氷によって捨てられていたのだろう。実家から文がないことは母が文字を書けないので仕方がないことだと諦めていた。
「イナの薬代を捻出しようとしたら食うにも困る。風の噂でひわが後宮にいると知ってもしかしたら、と思って文を出したんだ」
母は泣きながら語った。
「今、イナの世話は誰がしているの」
話を聞いて不安だった。祖母がいないとなれば、あの家にイナは一人きりなのだろうか。
「イナの世話は文を書いてくれた人が見てくれてるよ。上の娘に会いに行きたいからどうしてもって頼み込んだんだ。ひわ、お願いだ。私たちを助けておくれ」
母の顔には疲労が浮かび、髪には艶がなく指先もあかぎれだらけだった。
「文を見たときから決めてたよ。私は家族を助けるって」
母は柊の言葉に本当かい? と目を潤ませた。柊は懐に隠していた妃候補としての給料の殆どを差し出した。行儀見習いという名目で宮仕えをするという体で集められているのでその対価として金子が支払われた。本来なら、仕えてくれる女房たちに絹でも買い与えてやるのが良き主人であるとはわかっている。
あんなぼろぼろの師走宮に仕えてくれる静冬たちの顔が浮かんだ。けれど、家族を見捨てられなかった。
「ありがとう、ひわ。これでイナの薬が買えるよ」
母の顔を見て、柊はこれが正しかったのだと言い聞かせた。
******
「なるほど。そなたの言い分としては母親の金の無心に毎回のように出向いていた、と」
紫苑が冷たく言い放った。
「はい。決して、神鳥を殺したということはありません。昨晩、私は師走宮から出ておりません」
しかし、柊の言葉に清花は納得できないと反論した。
「皆、下賤の生まれの者の言葉を信じますの? 」
清花は顔を真っ赤にして叫んだ。しかし浜木綿が「この場において、発言に貴賤の差はない」と怒り始める清花を宥めようとするが、逆に火に油を注ぐ結果になりそうだった。
しかし、そこに水をかけたのは意外にも胡蝶だった。
「あら? やはり同族嫌悪というものですの? やはり同じく下賤の遊女の子が言うなんて笑えますわ〜」
清花は言葉を失い、唇を噛み締めて胡蝶を睨みつける。
「顔だけは良い姫を作るために顔のいい遊女に作らせた子だっていうことは調べてありますのよ。柊の君の出自を理由に、その発言に価値がないと切り捨てるなら自分の発言の価値も地に落ちましてよ」
扇子で口元を覆いくすくすと胡蝶は笑いを漏らす。何も反論して来ないことが清花の出自の証明といえた。一気に周りがざわめき始める。まさか、清花が遊女の子であることなど誰も思わなかったからだ。
しかし、清花は黙ってやられたまま終わらなかった。
「あら、陰湿なあなたの言葉も信用に値しないわよ」
怒りで震えている清花は何とか笑みを作ってこう続けた。
「本来は寅家一の姫、あなたの姉君が妃候補になるはずだったらしいわね。でも痘痕ができて後宮入りが叶わなくなったとか。可哀想だわ。本当はあなたが顔に熱湯をかけて火傷させたことが原因だそうね」
清花は地獄へ落ちるなら道連れにしてやるとでも言わんばかりの憎悪を込めた笑みで胡蝶を見た。
「誰が、そんな根も葉もない冗談を…!」
胡蝶は焦ったように周りを見たが、自分の女房たちが目線を逸らしたのを見逃さなかったようだ。たしか、自分が家から連れてきた者たちだろう。
「寅家の下女に金を握らせればすぐに喋りましたわよ。案外、お口が緩いのね」
きっと胡蝶と寅家当主が敷いたのであろう箝口令を華麗に躱して情報を暴露していく清花は清々しい顔をしていた。そしてその情報に説得力を持たせたのは協力でもしていたのか薄だった。
「我が酉領のある寺に尼が入ってきたのですけど、その尼は顔に火傷があります。後宮入りが叶わず出家なされた胡蝶の君の姉君、梓の君であると確認が取れていますわ」
薄は目を細めて笑った。
「悍ましいあなたの発言は誰が信じますの? あなたは最初から妃候補の資格がない。私たちと同じ場所に立っていると勘違いされては困るわ」
薄は胡蝶を嘲笑った。しかし、清花の完全なる味方というわけではなく、彼女が遊女の子だと暴露されたときには汚らわしいというように眉を顰めていた。
「なら、禁を破った柊の君と撫子の君と、下賤の者である清花の君、そして最初から不正で妃候補になった胡蝶の君はこの場での発言権が無くなったと考えてよろしいのかしら?」
茶梅がおっとりとした口調で周りに同意を求めるように尋ねる。撫子は口の中がからからに乾いていくのを感じていた。