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拾漆

 薄氷うすらいは優しい人だった。薄氷にとっては血のつながらない娘である緋和ひわを受け入れ、愛情を注いでくれた。

 「あなたは我が子です」そう言い切ってくれた時は何と心の広い人だろうと緋和は思ったほどだ。しかし、嫉妬心…のようなものが強く緋和が実の母や祖母と会うこと、文字を覚えてからは文のやりとりをすることを禁じた。


 「あなたは私の子。母は、一人で十分です!」


 寂しい夜、泣きながら村の実母に会いたいと懇願した緋和に対して、薄氷が放った言葉だ。緋和に対して申し訳ない感情があるはずの猪助いすけにも頼んでみたが、彼は「母の言う通りにしなさい」と緋和を諭すだけだった。


 亥家に養子に入った時点で実の家族とは縁が切れたものだと教え込まれた。父の形見で持ってきていた弓と山刀は緋和の心の拠り所になったが、隠し持っていたのを薄氷に知られた時は「姫として相応しくない」と処分されそうになった。

 しかし、そこは猪助が機転を効かせて助けてくれた。流石にそれは申し訳ないと思ったらしい。


 狩りの名手の道具には御利益があり、狩りの上達を願って武家の者たちが欲しがるらしい、と薄氷に話し弓と山刀は壊されることからは免れたが緋和の手からは離れてしまった。

 

 何度も夜な夜な泣いた。村に残してきた母や祖母、妹のことを思い、亡き父を思い出し泣いた。その様子を不思議がったのが薄氷で、彼女からすれば二親が揃っていて愛情を不足なく注いでいる何が不満なのだろうと思ったのだろう。


 食事は、飢えることはなかったが決して多いというわけでもなく、亥家は清貧さを美徳とし無駄なものは何もなかった。元々貧しい土地なので贅沢できないとも言うが、村にいた頃よりは亥家の邸での生活は豊かなものだった。


 のちに知ったのだが、猪助は亥家の備蓄を民に分け与え、できる限り全ての民で冬を越そうと努力していた。しかし、結局墓は増えていくばかりであった。春になり、雪が溶け隣接する領地や麗扇京みやこからの交易が再開すると徐々に食料は高値で取引されることは減り、適正な価格へと戻って行った。


 もし、何かが違えば緋和は遊女あそびめになっていたかもしれないし、飢えから妹を食べるという人の道から外れた行いをしたかもしれない。それを思えば、食事があり暖かな寝床がある亥家の暮らしは幸せそのもののはずなのに緋和の心が満たされることはなかった。


 隙間風が吹き込み、雨漏りする狭い家でもあの家が緋和の家だった。


 姫としての教育は窮屈なものだった。村で山野を駆け回っていた緋和としてはじっと邸の中にいることに耐えなければならなかった。もし、緋和が何か姫らしからぬことをすれば薄氷は引き攣ったように泣き「どうしてできないの。どうして!」と叫び、もしくは狂ったように笑いながら緋和を叱責した。


 しかし、普段は優しく緋和を受け入れるのだから恐ろしかった。彼女が教育に熱心なのも、愛情の裏返しなのだと思い込むしかなかった。緋和は彼女に、あなたは私の子ではないわ、と現実を突きつけられるのを恐れていた。


 父の形見と再開したのは、緋和が十三の歳になった時だった。その頃には周りのものたちに緋和の仮名である、ひいらぎが浸透してきていて、誰もが緋和のことを柊の君、もしくは柊姫と呼んだ。


 亥家に仕える武家たちの御前試合が行われることになった。剣、弓、馬術の腕前を競い武家たち同士の交流や亥家への忠誠を確固たるものにするものだった。


 薄氷はそんな行事にはあまり興味がなかった。儀礼的に武人たちに労いの言葉を掛けはしたが、御簾の奥で緋和を人形のように可愛がることの方に熱心だった。


 「素晴らしい腕前でした」


 御簾越しに頭を下げる武人たちに労いの言葉をかける薄氷は、しかし緋和の着物の裾が如何に綺麗に重なりを持って御簾からはみ出すのかを気にしているようだった。高貴な姫が武人に直接対面することはほとんどない。しかし、薄氷は自身の姫君がいかに可愛らしいか、着物の裾で自慢したかったのだろう。


 顔を見えないのに、馬鹿らしいことこの上ないと緋和は思ったが、好きにさせるようにした。そうすれば薄氷はこの上なく上機嫌になった。


 次は、御前試合に出場する中で最年少の青年が弓を披露するらしい。これは、周りからも一目置かれていて、次代の期待の星として猪助も彼を「若草」と称し、目にかけているようだった。


 その若草が的に向かって弓を構えた時、緋和は確かに見た。その青年が持っている弓が亡き父のものとそっくりであることに。否、それは父の物だ。間違いない。緋和が見間違うはずがない。御簾越しであっても、父の弓の手入れを間近で見てきた緋和にはわかった。


 その青年の矢が的の中心に当たり、周りが拍手喝采の中、歓声に彩られる中、緋和は御簾の中から駆け出していた。


 「柊!」


 「姫!」


 薄氷が甲高い叫びで緋和を呼び、女房たちが慌てふためきながら引き止めようとするのを掻い潜って、緋和はその青年のもとに辿り着いていた。


 青年はたっぷりと刺繍が施された着物を着た緋和の姿を見て、それが主君の奥方から愛されている姫であることを察したのだろう。膝をついて、首を垂れる。


 「あなた…その弓は」


 緋和が尋ねる。青年はしばし迷ったようだが、姫の問いに答えないのも無礼だと思い至ったらしい。


 「この弓は狩りの名手から譲り受けた品でございます。私は次男ですので家に伝わるものは兄が譲り受けました」


 間近で見るとやはり青年が持っている弓は父のものだ。丁寧に使われているのだろう。使用感はあれど、大切にされてきたのだと伝わってくる。


 「その、狩りの名手の名は何と」


 「水朔すいさくという名だったと記憶しております」


 青年の言葉を聞いて、緋和はやはり自分の見間違いではなかったと確信を得た。涙が溢れ出してきた。亡くなってしまった父ともう一度再会できたような心地がしたからだ。


 すぐに弓を手元に置きたいと願った。しかし、緋和がまた弓を手に入れたら、薄氷に破壊されてしまうかもしれない。緋和は周りを見渡した。武人たちは御簾の外に出てしまった姫を極力見ないように頭を下げ、女房たちが扇子で顔を隠すようにしながら、御簾の外へと踏み出し、緋和を連れ戻そうとする。

 

 時間はなかった。御前試合を見ていた猪助に向かって緋和は言い放った。


 「この者を私の側に置いてください」

 


 

******




 結果としては、緋和の願いは受け入れられた。猪助は緋和の願いを出来るだけ叶えてやりたかったらしい。護衛としても丁度良いと考えたのだろう。薄氷は何か愛玩動物のようなつもりで緋和が青年をそばに置きたがったのだろうと勘違いし、猫でも与えてやればよかったと後悔しているようだ。


 青年の実家も何も継がせるものがなかった次男に亥家の姫付きの護衛になれる僥倖に喜んで息子を送り出した。


 青年の名前は日照雨そばえといった。彼は何故自分が亥家の姫に気に入られたのか、何故緋和が自分に懐くのかわかっていないようでよく戸惑った。


 「柊姫、何故こうも毎日、俺にくっついて回るんです?姫様としての稽古とか何かあるんでしょう?」


 親鳥のあとを着いていく雛のように緋和は日照雨に付き纏った。すべてはもう一度彼が所有している弓とその弓捌きを見るために。しかし、普段の護衛としての彼は帯刀し、弓を持つことはない。

 彼が弓を使う瞬間を見逃したくはなかった。


 「あなたは私の護衛なのだから、私のささやかなお願いくらい聞き入れるべきよね」


 「何です? 急に」


 嫌な予感がしたのか日照雨は露骨に眉を顰めた。その可動域の広さに彼が本来は表情豊かで快活な人間であることを示している。


 「御前試合で見せた弓、私にもう一度見せてはくれないかしら」


 日照雨は一瞬だけ驚いたような表情をした。


 「あれは、家に代々伝わるような弓ではありませんが、私にとっては僥倖を授けてくれるもので、ここぞという時にしか…」


 しかし、緋和はここは押せばいけそうな雰囲気を感じた。


 「お願い、もう一度あの弓が見たいの!」


 緋和が頼み込むと、日照雨は照れを隠すように、しかし滲み出る照れは隠せず頭を掻きながら、仕方がないなぁ…と漏らす。


 勝った、と緋和は内心、拳を天に突き上げた。暖簾越し以外で護衛と会話しているのを薄氷に見られたら失神されてしまうだろうが、さらに弓を見せてもらうなどとなれば本当に薄氷はあっけなく逝ってしまうかもしれない。


 彼女に心労をかける気は全くないのだが、それでも断ち切られていたはずの父親との繋がりという誘惑には勝てなかった。

 

 日照雨は弓を持ってくると、矢をつがえ庭の隅にある木に向かって矢を放った。鹿の鳴き声のような音を響かせ、矢は木の幹に突き刺さった。その弓捌きの洗練された動きは、一種の芸術のようで武家の出であることを感じさせた。

 しかし、彼の動きはいかに矢を美しく射るかを重要視していて意識の底で亥家の姫君の前であると認識しているのだろう。父のような実践的な素早く仕留める弓はそこにはなかった。


 「日照雨、それは本気?」


 「何がです」


 日照雨は訳がわからないように緋和の言葉の意味を尋ねた。


 「あなたのさっきの弓は貴人に魅せるためのものでしかない。獲物を目の前にしてあんなにゆったり構えるの?」


 日照雨は緋和の言葉に眉を顰め歯を噛み締めた。悔しいというより、そんな指摘をされ亥領民の根底にある狩人の矜持のようなものが刺激されたのだろう。亥領の男は皆、狩人である。


 「せっかく連射できる軽い作りなのにねぇ〜」


 緋和が揶揄うように言うと、日照雨は黙って矢をつがえ空に向かって弓を放った。丁度空を飛んでいた野鳥がぼたりと庭に落ちた。その首を掴み、緋和に差し出して見せる。


 「これで文句ないか?」


 日照雨の瞳には真剣な炎が燃えていた。狩人の矜持を傷付けられた怒りが、そしていつのまにか無意識に貴人に媚びるような弓しかできなかった自分への悔しさがあった。


 「文句ないわ」


 緋和はにやりと笑った。これなら文句なしに……


 「私に、弓を教えて!」


 緋和の言葉に、はぁ!?と日照雨の怒号が響いた。


 「無茶言うな、奥方様に殺されるだろ。それに大体、姫が弓を覚えたって何になるんだ!」


 日照雨は畏まった口調も忘れて必死に反対した。姫が望むのであれば自分はできる限り応えなくてはならないと心の底でわかっていたから。


 「それは、父さんの弓なの」


 緋和は日照雨が持っている弓を指差した。


 「猪助様の弓じゃない。これは水朔という猟師が使っていた弓で──」


 「その水朔が私の父なの」


 緋和の言葉に、日照雨はしばらく黙っていた。そして何かを考え結論を出したのだろう。


 「まあ、何か事情があるとは思ってたよ。いきなりでかい子供が出てきたんだから驚きもする。これ、姫様の親父さんの弓だったんだな」


 日照雨は納得したような、それでいて少し寂しそうな顔をした。緋和が自分の弓の腕に惚れ込んで護衛に指名したのではなかったこと、自分の手にこの弓があるということは緋和の父はもうこの世にはいないのだということ。緋和の心情を推し量り、彼も傷ついた。


 「血は、繋がっていないけどね。私にとって唯一の父さんだった。弓の手入れをよく見ていたから覚えてる。矢の作り方だって見てた。毒の調合だって…!」


 気がついたら、緋和は涙が溢れていた。父との思い出が溢れ出して言葉を発するごとに涙に消えていく。日照雨は上衣として着ていた毛皮を頭から緋和に掛けた。


 「被衣代わりにしときゃ、奥方様も何とか納得するだろ」


 そう言いながらも、日照雨は緋和が泣いているところを見られたくないと察したのだろう。


 「大事な親父さんだったんだな」


 「そうだよ。大好きだった」


 日照雨はまた黙った。そしてしばらくした後に口を開いた。


 「俺が聞いた話では、水朔って人は狩りの達人で熊相手にも怯まなかったらしい。だが、怪我を負って勝てないとわかったら、自分で矢に使うはずの毒を飲んでわざと熊に食われたらしい。自分の命を使って、村や家族に被害が行かないようにしたって」


 それは残酷な話だからと村の人たちが緋和たち家族にだけ伏せていたものなのかもしれない。緋和は涙が止まらなかった。父は最後まで戦ったのだ。優しい人だった。


 緋和の涙は止まらなかった。


 「父さんとの繋がりを無くしたくない。このままお姫様をやっていたら私、どんどん私じゃなくなっていく。父さんを忘れたくない」


 「忘れないだろ。どんなに人間、着るものや外見が変わったって本質が変わらなきゃ同じままだ。……わかったよ、弓教えてやる。ただし、奥方様にばれないように、こっそりとな」


 日照雨は毛皮越しにちょっと不慣れながらも頭を撫でてくれた。

 

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