拾陸
その年の冬は厳しく、獲物は取れず作物は全滅した。ひわの父は獲物を取るのが村で一番上手かったが、巣篭もりできなかった熊に襲われて死んだ。家に帰って来たのは村の男衆が取り返してくれた弓と山刀だけだった。
父を喰った熊は村の男衆総出で倒してくれたが、人を食った熊は食べられずそのまま葬られた。
今日の朝餉は上澄みのような粥を啜った。山菜も、干し肉も干物も尽きてしまった。僅かながらも穀物も尽きた。
「おばあちゃんも粥、たべて」
ひわは、痩せたまだ赤ん坊の妹を背負いながら上澄みのような粥が入った椀を家の隅でじっと動かない祖母の元に持って行った。
「馬鹿だねぇ。働けない年寄り食わす余裕が何処にある」
祖母は昨年足を悪くして、どこにも出かけなくなった。目も悪くなって手も思うように動かなくなったことから山菜取りや縫い物など女の仕事ができなくなった。
村全体が飢えていたから、男手のいなくなったひわの家を助ける余裕はどこにもなかった。
今にも、父が鹿か何かを仕留めて家に帰ってくる気さえした。しかし、父は帰ってはこなかった。
「わたしゃ、食わん。それより、母さんに食わせておやり」
母の乳が出なくなってからしばらく経っていた。仕方がないから匙で少しずつ水を飲ませていたが、妹は痩せ細って行くばかりだ。
「でも、おばあちゃんは三日も水以外口にしてない」
ひわは心配そうに祖母を見た。
「わたしゃ、死んでもいいんだ。長生きしたから。だが、お前さんらはまだ生きにゃならん。生きてこの冬を越すんだよ」
背負っていた妹がぐずり始めた。母はぼおっと鍋に火を掛けている。湯が沸騰し始めた。
「ひわ、そいつを寄越しな」
母はじっと沸騰しているだけで具材は何も入っていない鍋を見つめ続けた。ひわは嫌な予感がしてぎゅっと妹を抱え直した。
「母さん、何する気?」
「こんなことになるなら熊肉を食うんだった。人喰い熊だからって何も食わずに葬ってしまった」
母はひわの問いには答えなかった。ただ腹が空いて目がぎらぎらと光っていた。
「もう、何も食べるものがない」
ぽつりと、母が呟いた。ひわは、妹を手放さなかった。
「この子は私の妹だ! この子を食べるくらいなら私を女衒に売って!」
ひわはそう叫んでいた。腹が鳴る音に負けずに声を張り上げた。ひわは祖母に妹を託し、父の弓と山刀を持って外に飛び出した。獲物があれば、食べ物があれば、また幸せになれるのだ。弓と山刀は重かった。家の中では、祖母がひわを呼び止める声が聞こえる。
「お前はまだ六つなんだ。狩りなんてできっこない」
「それでも、このまま飢えて死ぬなんて嫌だ!」
ひわがそう叫んだ瞬間、馬の蹄の音がした。馬に乗った誰かが家の前まで来ていたことに気づいた。
「その心意気やよし」
着古してはいたが上等な着物によく手入れされた毛皮を身に纏った男。馬に驚いてひっくり返ったひわを馬から飛び降りて、抱き起こしてくれた。
家の中からは痩せて草臥れた母とうまく足を動かせないながらも妹をしっかり抱えた祖母が出てきた。
「猪助様」
母が歓喜の声を上げた。この男は母の知り合いなのだとわかった。男は痩せた母の肩を掴み「よく生きていた」と抱擁を交わした。それを祖母は苦々しげな表情で眺めていた。
「こんな飢饉だろう。昔、愛したお前が心配で様子を見に来たのだ」
母は若い娘に戻ったかのように猪助と呼んだ男の腕の中で泣きじゃくった。それを祖母は睨みつけていた。
「昔、娘を貴方様の邸に奉公に出した。けど娘は腹が大きくなって帰ってきた」
祖母は怒りに震えていた。ひわにも薄らだが記憶がある。幼い頃、まだ父がいないころには村八分に近い行いがされていた。
「申し訳ないことをしたと思っている。亥領は貧しく、亥家であっても正室を迎えるのが精一杯で、お前を側室として留め置くことができなかったのだ」
猪助は申し訳なさそうにひわを見た。
「側室として留め置けたのなら、この子も亥家の姫として可愛がられたろうに」
ひわは祖母と怒りを共有しているかのように全身が燃え上がりそうなほどの怒りに囚われた。祖母は妹を、ひわは弓をぎゅっと抱きしめた。この男は見当違いな事ばかりをいう。
「猪助様、私は若さゆえの過ちによりこの娘の人生を台無しにしたことに怒っているのでございます。貴方様が代わりの男を当てがうまで我が家にされた行いを考えれば到底許せるものではございません」
妹は祖母の腕の中で泣いていた。ひわは、目の前の男が自分の真の父親なのだということを嫌でもわからされていた。元々、父の本当の子ではないことは知っていたが妹と分け隔てなく愛情を注いでくれた父が聖人に見えてくる。
それに比べて、猪助という男はどうだろうか。ひわが知る限りではこの男は母に、過去に愛し自身の子を宿したが家に帰した女に、何の援助もなかった。
昨年までひわ達は父の狩りでの獲物で、母が摘んだ山菜や僅かに耕した畑の穀物で暮らした。毛皮は金になり、懐を潤した。父は弓の名手だったので村の男たちから尊敬の念を抱かれていた。
熊に襲われ、丁重に葬られた。そこに遺体はなかったとしても。結局、父が熊に土饅頭にされたのは見つかることはなかった。もしかしたら、村の男衆が見つけたかも知れないがひわたちに知らされることはなかった。
「僅かばかりだが、足しにしてくれ。美世子」
猪助は母に銭が入っているであろう皮袋を渡していた。母は感動の涙を流していた。それは自分が忘れられていなかったことの証左に他ならないからだろう。
「申し訳ないことをした、キヌ殿」
猪助は申し訳なさそうに祖母を見たが、決して頭は下げなかった。祖母の怒りは治るはずもない。猪助は他の男、父を当てがったことで村八分を収束させたことで償いを済ませたと考えているようだ。
「今日は、心配して来たのもあるのだが、あるお願いがあって来た」
猪助は誠実さを醸し出そうと努力して本題を切り出した。祖母が図々しいという目で猪助を睨んだが、立場が上の人間なので黙って続きを促した。
「ひわを亥家で養育したい」
一瞬だけ、時が止まったような気がした。妹の泣き声さえ遠のいていく。
「薄氷が、私の妻が死産を経験した。もう子は望めぬと言われている。後継は分家から養子を取ることにしたから問題はないが、問題は薄氷の心なのだ。死んだ赤子は娘だった。薄氷が産着を毎日眺めているのが、憐れで憐れで…」
そこで我慢ならないと祖母が声を上げた。
「貴族様の慰めのためだけに、ひわの人生はあるわけではないよ! 私たちは貧しくとも地に足ついてやってきた。雲上人にはわからぬことよ」
そこに、祖母と対立したのは母だった。猪助の味方につくようだ。
「母さん、目を覚まして! 私たちは今、飢えを前にしている。ここで私らのちっぽけな誇りで全員が飢えることはないわ。それに、猪助様は民思いの良い領主様よ」
「お前の心配なんか、猪助様はしてはいないよ。昔、捨てた女に自分の娘がいたことを思い出して丁度いいと思っただけだ」
積もり積もった解けない雪のように固く、心に根差した怒りを発散するかのように。猪助は生まれながらの貴族で、いくら民に寄り添ったからと言って芯の部分までは民というものをわからないのだ。彼はいつも踏みつける側であり、踏みつけられる側ではない。ただ気まぐれで民を踏みつけなかっただけなのだ。
「ひわ、猪助様に着いていけばご飯が食べられて、暖かい布団で眠れる。ここにいるより、幸せになれる!」
母は祖母と言い合うよりひわを説得する方に変えたようだ。その通りだと猪助は頷く。
「今まで申し訳なかった。ひわがいなくなった後も亥家からこの男手のいなくなった家を支援する。村から迫害されぬよう取り計らおう」
祖母は嗄れた声で懸命に叫んだ。猪助の言葉に噛み付くように。
「ひわの人生は、お貴族様の気まぐれで潰されていいものじゃない。亥家に行ってもひわが幸せになれる保証は何処にもない。飽きたら、捨てられる。お前のようにな!」
祖母の言葉は母を突き刺した。母は耐えられなくなったように泣き出した。
「捨てられてないもん。こうして、猪助様は来てくれたもの」
母は本当に子供のように泣いていた。猪助が祖母の言葉を否定するように口を開いた。
「キヌ殿。誤解がある。私は美世子を捨てたつもりはない。あれは、仕方がなかったのだ。捨てたように見えるかもしれないが、違う。私たちは離れていても心は繋がっていた」
母は猪助の言葉に頬を染めながら泣いている。さっきから母は泣いてばっかりだ。妹より泣いている。猪助には猪助なりの事情があったのかもしれない。しかし、許せるか否かは別である。
「捨てた、に間違いはないよ。他の男を当てがったのだからね」
祖母は吐き捨てるように言った。
「なら、ずっと独り身のままいろと? 私を想いずっと独り身でいさせる方が酷であろう。この家には男手がいなかったし、私は美世子を側室として留めておけなかった」
猪助は辛そうな顔をした。家の圧力が、母と猪助を引き離したのだということはわかる。愛してはいたのだろう。他の男の妻にして守ることにしたその決断の重みが猪助の悲痛な表情から読み取れた。
今も母を愛しているかと問われれば猪助は愛していると答えるだろう。しかし、それと同じくらいかそれ以上に正室である薄氷も愛しているのだろう。
「あの」
それまで黙っていたひわは、口を開いた。言い争っていた大人たちが静まり返りひわの言葉を待つ。ひわはぎゅっと弓を強く抱きしめた。父が勇気をくれる気がした。
「ごはんが食べられて、あたたかい布団で眠れるのならどうか、私ではなく妹を連れて行ってください。亡くなったのは赤ん坊なのでしょう? もう六つのわたしより、妹の方が正室さまもいいはずです。行き場のない乳もあるでしょう」
ひわはそこで息を吐いて、また続けた。
「母さん、おばあちゃん。私は女衒に売ってください。そのお金で食べ物を買ってください。私は女郎屋で飯を食べさせてもらいます」
ひわは自分が涙を浮かべて、泣くのを堪えながら言っているなんて気づかなかった。猪助が間違いを正すような口調でひわを優しく宥めた。
「ひわ、それはできないよ。ひわは私と血が繋がっているがその妹は私と血が繋がっていない。亥家に入れることはできない。そして、女衒に売るくらいなら私から支援すると言っている。ひわが亥家に来てくれるならば、妹も君の家族も皆が幸せになれる。ひわが辛い思いをする必要はない」
猪助の言葉は優しかった。祖母は悔しそうに唇を噛み締めていた。ひわを手放さなければ、腹が満たされぬことを娘と孫が死んでしまうことを痛いほどわかっているのだろう。
「ひわでなくてはならないんだ。それに、乳母が世話するから行き場のない乳というものは無いんだよ」
ひわは猪助の言葉を聞いて、途端に顔も知らない薄氷が可哀想になった。抱く赤子もおらず流れ出る乳の何と虚しいことか。それどころか、たとえ無事に産まれていても自身の手から離され乳母の手に渡る。だからこそ、ある程度育ち、可愛がるだけで良いひわが適任なのかもしれない。
ひわは母の顔を見た。祖母の顔を見た。まだぐずっている妹の顔を見た。今はもういない父の顔を思い浮かべた。父の最後の日の顔が浮かんだ。美味いもの、いっぱい食わせてやるからなと頭を撫で山に入っていった父のあの優しい顔を。
飢えに苦しんでいる家族を見て父は何と言うだろうか。ひわに何を求めるだろうか。心は決まった気がした。
「わたし、亥家に行きます」
ひわがそう言った途端、猪助は「そうか!」と嬉しそうに笑ったが、祖母は「ひわ!」と叱るように名前を呼んだ。しかしそれを母が続けさせなかった。
「これで皆、飢えなくて済む。母さん、ひわのことは諦めて。亥家で幸せになるはずだわ」
「必ず、幸せにする。美世子、この子は私が責任を持って幸せにしよう」
猪助は母の肩を撫でた。ひわは大人たちの会話をどこか遠くのことのように聞いていた。妹の泣き声だけが異様に耳に残った。父の弓を離さなかった。
ひわは猪助が乗ってきた馬に乗せられ、すぐに亥家の邸に向かって家を出た。振り返った家は小さくなっていく。いつまでも、祖母がひわの名を呼ぶ声と妹の泣き声が響いていた。
ひわは父の形見である弓と山刀を持って行くことを許された。馬に揺られながらひわは口を開いた。舌を噛むぞ、という猪助の忠告も耳には入っていたがそれでも今、言わなければならなかった。
「猪助様、これから先私はあなたを父と呼ばなければならない場面があるでしょう。しかし、本当に父と慕うわけではありません。私の父は山で死んだ父だけです」
猪助の顔は見えなかったが、猪助は優しくひわの頭を撫でた。
「どうか、不甲斐ない私を許してくれ。お前を家族と引き離さなくてはならない私を許してくれ」
猪助は雪が積もった痩せた土地を見た。飢饉で民が指の間から零れ落ちていくことを嘆いているようだった。ひわは猪助を情け無い男だと思った。
馬を休憩させている間、猪助はぽつりとこんなことを言った。
「ひわという名は私と美世子が考えた名だよ」
近くにあった棒切れを拾い、猪助は雪の上に文字を書いた。
緋和と。緋和は「わからない」と呟いた。それが文字であることはわかったのだが、緋和は文字の読み書きができなかった。
「緋和、それがお前の真名だ。しかし、いずれ仮名が必要になってくるだろう。『ひ』という音がお前には似合う。日、火、と同じ音だ」
猪助はまた棒で雪に文字を書いた。
柊と。また、緋和は「わからない」と呟いた。
「柊。家族を守ろうとするお前にはぴったりの名だろう」