拾肆
納涼の会の最後は撫子が掻っ攫う形になってしまった。皆が流水琴の音色に酔いしれ、春風はあれは技量がないとあんな音は出せないのです、と他の宮の女房に力説し、うちの姫様がすごいという自慢を欠かさなかった。鼻高々にしている卯月宮の女房たちの姿に撫子は照れ臭い気持ちになる。
それを気に食わなかったのは浜木綿を一番にしたい桔梗であり、流れてしまった歌合せをもう一度引っ張り出そうとしたが失敗し、何とか次回は薫物合わせの約束を取り付けることで牙を納めた。また、難易度の高いことを…と撫子は次回の誘いを憂鬱に思いつつも流水琴を弾いた後に訪れる心地の良い疲労に身を任せていた。
水無月宮から女房たちを連れて姫たちは帰っていく。その中に柊と彼女の女房である静冬の姿を見つけ、撫子は声をかけた。
「柊の君! あの、ありがとうございました。私に流水琴を披露する機会をくださって」
一瞬、柊は何に感謝されたのかわからないような顔をした。しかし、話を最後まで聞いて納得の色が浮かんだ。
「撫子の君に贈られたものは噂になっていましたから。私も生涯に一度くらい幻の琴と呼ばれる流水琴の音色を聞いてみたかったものですから。それに、正直に言いますとあのまま歌合せになったら私が困ったことになったんです。あまり歌を作るのが上手くなくて…」
撫子は思わず笑顔になった。
「まぁ! 私も同じ。歌は得意ではなくて。そういえば、柊の君には弓が贈られたとか?」
柊は弓の話題になると、遠い目をした。
「ああ…、あれは実戦には向きません。弓に付けられた宝石が邪魔で、矢が思うように飛びません。せっかくなら、実戦向きのいい弓が欲しかったですね。渡り鳥を射って鍋にしたい」
最後は柊の願望が漏れ出ていた。静冬はその様子を呆れたように、そして諦めたように見ていた。もうすでに彼女に柊の破天荒さを諌める気はないようだ。
「確かに、七夕の宴で柊の君が披露された弓は少し形が違っていましたわ」
撫子は儀式などで見る弓と柊が持っていた弓が違ったことを思い出した。
「私の弓は軽くて連射が出来るんです」
柊は弓の話になると誇らしげになった。そして亥領では狩りに毒矢を使うという話をしてくれた。晩秋の山野で鳥兜を採取し、炉の火棚の上で一か月以上乾燥させる。その後に石臼で搗き砕き、水を加えるのだそうだ。鳥兜以外にも様々な毒を調合し、松脂で固めたものを骨と木で作った矢の鏃の窪みに入れるのだそうだ。
嬉々として毒の調合を話す、柊に撫子は少し薄寒いものを感じた。亥領では当たり前なのかもしれないが、人を死に至らしめることもできる毒を彼女が作れることを恐れたのだ。
「柊の君、私に毒は使わないでね?」
「何を言ってるの、撫子の君。急におかしなこと言い出して。獲物に対しての話ですよ?」
春風も顔を青くして口を開いた。
「差し出がましいのは承知で申し上げます。亥家の姫様。毒…などと恐ろしいことはあまり口にしない方がよろしいですわ。毒殺を企んでいると噂されるやもしれませぬ」
柊は驚いたように春風を見つめ返した。
「助言、ありがとう。まさか、あなたが自分の姫様以外に何か言うとは思わなかった」
春風は少し顔を背けた。
「うちの姫様にできた初めてのご友人ですもの。少し、心配しただけですわ」
春風はそれ以上は自分の女房としての立場を弁えて何も言わなかった。静冬が感激したように春風の手を両手で掴み何度も何度も頭を下げていた。それには春風も困惑したようだった。
「次は桔梗の君が主催する薫物合わせで姫たちが集まるかしらね」
撫子は憂鬱ながらも去り行く姫達の輿を見つめた。
「私は、嗅ぎ分けるくらいならできそう」
柊は鼻が昔から効くことを教えてくれた。
「そうなの? 羨ましいわ。薫物合わせの時、こっそり私にも教えてくれない?」
撫子たちはくすくすと笑った。今だけは妃選びのために選ばれたという本来なら敵同士であることも忘れ、家のことも忘れ、ただの友人として笑い合った。
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次の姫たちの親睦会のような薫物合わせは暦上夏の終わり、秋に差し掛かった辺りに開催された。桔梗の宮である霜月宮で開催されたが、その主催である桔梗の裏に浜木綿がいることを誰もが承知していた。
今回も浜木綿側の桔梗が主催ということで、全員に文は出されたものの、花弦は不参加だった。しかしそれ以外の姫は全員参加した。
撫子は何度も薫物合わせの日が来るのが憂鬱で、当日に腹痛にならないかと願ってみたが朝目が覚めたら、健康そのものだった。
撫子が持ってきた香は卯家に伝わる秘伝の製法だと春風が教えてくれた荷葉という。蓮の花の香に似ているものだ。春風の指示に従って鉄臼で材料をすり潰し、夕暮れの湿った空気の中、庭に埋めて熟成させたとっておきだ。
普通の薫物合わせなら、夏の香として風流だっただろうがここは季節関係なく狂い咲きの麗扇京であり、後宮という場所である。持ち合った香を合わせたら四季が完成してしまった。
梅の花に似た香りの梅花、露の香りを移すような菊花、紅葉が散るような落葉、冴え渡る冬のような黒方…などなど様々な各家の秘伝の練り香が集まった。
香りを当て合う、雅な遊びだ。組みを二つに分けて優劣を競うのが歌合せと似たような形が普通だが、桔梗は各々の練り香を回して嗅ぎ、一番を決めようと言い出した。
まずは主催でもある桔梗の香が皆に回し嗅がれた。丁子が強いように感じられたがそれ以外は撫子にはわからなかった。
その次は先日の納涼の会で仲良くでもなったのか、細の練り香が回された。こちらも沈香が強いという以外わからない。
「沈香、丁子、甘松香、甲香、鬱金」
柊は隣に座った撫子にだけ聞こえる声で配合を言ってくれた。柊の鼻が効くという話は本当だったらしい。撫子の練り香の番になり、撫子は恐る恐る荷葉を差し出した。皆が回し嗅ぐ。
「沈香、安息香、白檀、丁子、甘松香、霍香、甲香、鬱金」
ほんの僅かにしか入れていない香りまで柊はぴたりと言い当てた。作った撫子でさえあまりわからなかったものを嗅ぎ分ける柊は野生の獣のようだった。
「沈香、薫陸、簷糖香、白檀、丁子、甘松香、甲香、麝香」
次々と柊は当てていった。そしてついに最後、浜木綿の香の番になった。ここで今まで澱みなく答えていた柊の言葉が詰まった。彼女もわからなかったらしい。
しかし、香自体は茉莉花のような甘い匂いだということがわかったがそれ以外に撫子だけがわかったことがあった。この香りは幼い日、八束がつけていた香りであるということだ。
「皇家やその縁者にしか伝わらぬ、貴香だ」
浜木綿はそう語った。彼女は伯母である濃紫からその製法を受け継いだのだという。しかし、その説明も耳に入らぬほど、撫子は熱に浮かされたような気持ちになっていた。
また、あの香りに出会えた。愛しい人のあの香りに。それだけで嬉しくなり、頰に熱が籠るのを止められない。
やはり、というべきか桔梗が主催なので一番の練り香の栄光に輝いたのは浜木綿のものだったが、撫子も文句はなかった。皇家秘伝の練香の製法を浜木綿が欠片でもいいからこぼしてくれないかと願った。
そうすれば撫子はその香を再現して夜な夜な焚き、まるで八束と同衾しているかのような心地を味わうために使うだろう。気持ち悪いと自分でもわかっていたが撫子はもしそんな願いが叶うなら止められなかった。
柊は自分が浜木綿の香を当てられなかったのを悔しがっているのか、ずっと険しい表情のままだった。
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その日、皇国にとって青天の霹靂といってよいだろうことが起こった。春の盛りを迎え益々発展していくと思われた皇国にとって考えたくないことであった。
最初は、夏の終わりの大雨により麗扇京の麗扇山から流れる川の川下が氾濫し、少しの被害を被った。それは治水の見直しをすれば良いだけのことだった。
しかし雷雨と落雷により、寺が一つ焼けた。それは人々に不吉を感じさせた。でも、それだけなら修繕の寄付金を皇家から出せばよいだけのことだった。
しかし不幸が重なったのか、神鳥は鳴いた。神託を降ろしたのだ。
「麗扇山は火を吹き、火山の脈に沿って泳ぐ竜蛇は荒れ狂い、地を揺らすであろう」
神鳥はそう言ったと記録されている。その神託の噂は後宮中に駆け巡った。誰もが不安な中、調査隊が組まれ麗扇山の調査が行われ、活火山であることが発覚した。
皇后濃紫と皇太子八束はそんな民の不安を解消するため、現在は帝の実姉が斎宮を務める神宮へと参り国の安寧を祈願するため行啓を行うことになった。
皇太子が留守の間も神鳥が予言を授けるかもしれないということで神鳥は皇后の宮である月光宮に預けられることになった。つまり、後宮に神鳥がいるということなのである。
神鳥の責任者は一時的に皇后を除く、現在最高位の女宮である三つ子の内親王の長女である桜の枝に託されたが、現実的にまだ十にも満たない幼子に神鳥を任せられるはずもなく、名目上は桜の枝預かりになったが、実質的な神鳥の管理は濃紫の女房であり実妹である紫苑の御方が皇后直々に任せられた。
そして皇后、皇太子の神宮参りに怒りを露わにしたのは柊だった。撫子の前でしか柊はそんなことは言わなかったが、その怒りは凄まじかった。
「神鳥が噴火と地震を予言しているんだ。それが本当じゃなかったとしても、実際に麗扇山は活火山であるのは本当だった。なら、今するのは祈祷じゃなくて噴火による土砂の範囲を予想して民の避難が先でしょう? 地震が起こったあとの避難所だったり、炊き出しを行う備えをしなくては。なのに、皇后と皇太子は何なの? 自分たちだけ安全な地に逃げたように見える」
柊が予想した土砂の範囲は、宮殿や貴族の居住区は含まれていなかったが、最下層の民たちが暮らす区画は被害に遭うことが確定しているようだった。
地震もくるなら、これ以上の被害が出ると予想しなくてはならない。しかし、肝心の実権を握っている皇后は皇太子と共に、神宮へ向かってしまっている。
柊は悔しそうに拳を握りしめていた。
そして、神鳥の予言から七日目の朝、麗扇山は噴火した。小規模の噴火ではあったが、土砂が最下層の民の居住区画を半分埋めた。そしてその日のうちに地震は起こった。撫子は揺れる卯月宮で春風に抱きしめられながら、揺れを耐えた。強靭な木材を使用している宮廷や貴族の邸は倒壊しなかったが、やはり庶民の家には被害が出たようだった。
その報せを遠方の地で受け取った皇后は麗扇京の民に今年は減税すると発表した。そして復興までの期間、減税したままにし、復興資金は貴族たちの嗜好品の購入にかかる奢侈税を導入し、関税も引き上げると発表した。これには貴族からの不満が噴出したが、皇后はそれを捩じ伏せた。
撫子は揺れを感じながら床に伏せ、春風に抱きしめられるようになりながら揺れに耐えた時間、神鳥の予言は本物であったことを思い知った。
そして、神鳥は噴火と地震があった日の翌日。予言から八日目にして、死んだ。老衰などではなかった。
何者かによって殺されたのだ。