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拾参

 浜木綿はまゆうは贈られた宝剣を眺めていた。翡翠や珊瑚、琥珀、黄玉、紫水晶、孔雀石 碧玉 緑柱石、柘榴石、紅水晶などで飾られ真珠が所々に嵌め込まれている美しい剣だった。儀礼用の本当には切れない刃でできており、肌にその刃を滑らせても血がふつふつと珠になって溢れるような線が引かれることはなかった。


 水晶に映った自身を浜木綿は見る。その瞳には自分でも自信がみなぎっているようだった。浜木綿は冷静に自分を見ることができた。自信だとか自惚れだとかで自分を過大評価したりすることはなかった。

 冷静に自分の過去を振り返ることができる。自分の才能が努力の上に成り立つ後天的なものであることも浜木綿自身が一番知っていた。


 「おお、あれが……噂にたがわぬ美姫であることよ」


 「まさに天女が舞い降りたごとしじゃ。恋文が絶えぬというのも頷ける」


 幼き日に投げかけられた言葉を浜木綿は一字一句違えず覚えている。


 御簾がするすると巻き上げられ、そこから現れた、まだ幼くさえある浜木綿の姿に誰もが見惚れ、恍惚の溜息をつく。黒絹の豊かな髪が流れ落ち、小さな白いかんばせに、赤い唇。濡れ濡れとした瞳を伏せた姿は誰もが魅入られたように頬を染めた。


 暖簾の端からそっと顔を覗かせた浜木綿に親族の男たちが息を飲んだ。化粧の施された絢爛たる姫君のかんばせに、ついと瞳を向けられ、慌てて平伏する。ほんの女童でしかない相手に、大の大人が、砂糖に群がる蟻のような有様だ。


 「──あの幼さでありながら、あの美貌」


 「我が一門に迎え入れよう。あれこそ、我が妻に相応しい。鳳凰の相だ」


 「何を言う、貴殿の手に余ろう。しかし、惜しい事よ。男であれば、家を継ぎ巳家繁栄の礎になり、疎まれて出家すれば、名僧にも成れようものを」


 「自身の妻になど…口を慎むが良い。あの姫君はただ一人、天子に捧げるためにお育てした女子だ」


 幼さの残る、ようやく女童とは言われない年になったというのに、ぞっとするような蠱惑がある。浜木綿は漢詩に和歌、碁・双六まで嗜む才女と名高い。筆を持たせれば美詩を連ね、外の国へ留学した学者が邸に招かれた時には暖簾越しに問答を交わし、言い負かしてしまったこともあった。


 それを伯母である現皇后濃紫(こむらさき)は気に入ってくれた。何かと季節折々の行事には巳家本邸に顔を出し、花見だ、歌合だ、などと、浜木綿と若宮であった八束やつかを引き合わせた。


 濃紫と一対一で言葉を交わしたことは少ない。しかし、浜木綿の胸に刻まれている言葉がある。「女だからという理由で侮られてはならぬ」伯母のその言葉は浜木綿に響いた。


 あまりに賢すぎるので、巳家でも持て余し気味だった浜木綿という存在に実権を握った濃紫は強大な後ろ盾になってくれた。むしろ、浜木綿は八束と数月しか違わず生まれた時に濃紫によって皇太子妃となる運命であると定められていたのだろう。


 八束──彼は、浜木綿と話が合った。さすが、濃紫の息子というべきか、学者を言い負かしてしまう浜木綿の話に着いてこれた。

 彼はよく、真理を突いた。彼の傍にはいつも神鳥がいた。浜木綿のことを全て見透かすような目をしていた。浜木綿はあれを心眼と勝手に呼称することにした。彼の前に立てば虚飾で彩った姫たちは竦んでしまうだろう。

 そんな彼の前に堂々と立てる自分は何の嘘偽りもなく、誠実に彼に向き合うことができた。


 自惚れでも何でもなく、あの心眼の前に立ち彼を見つめ返せる乙女は何人いる? 数は少ないだろう。浜木綿は自分が相応しいだろうと思っていた。事実、他家が差し出した姫たちの殆どが彼の前に立つと萎縮してしまい、彼自身を見なかった。皇太子だとかそういった肩書きに目が眩んで後光が差したかのように彼の輪郭を朧げにしてしまうのだ。


 浜木綿は彼個人を見てやれるのは幼少期から彼を知っている自分しかいないと思っていた。自分は皇后濃紫の操り人形で一生を終える。しかし、その中に全く幸福がないわけではない。同じく傀儡である八束に親しみを覚えている。

 恋愛じゃないけれど、傷の舐め合いかもしれないけれど、私たちはいい夫婦になれるんじゃないか? 浜木綿はそう思っていた。


 あの日、神鳥が鳴くまでは。


 卯家は政治でも目立たず、あまり発言力の無い家だった。当主、長波(ながなみ)は重大な決定をのらりくらりと躱し、矢面に立たず…とここまでなら世渡り上手に見えるかもしれないが、しかし腹を決めなければならないときにも決めきれず、重大な波に乗り遅れて、手柄や利益を悉く逃してきた。

 その波をうまく捕まえるのはいつも巳家だった…というのは置いておこう。

 

 だから、浜木綿は卯家が妃選びに寄越す姫もぱっとしないのだろうと勝手に決めつけていた。皇后の御前に現れた卯家の姫は、着物に絹糸、金糸銀糸を使って梅、桃、杏、連翹、木蓮、躑躅、馬酔木といった春の花が刺繍された春そのものを纏っているかのような豪華な装いで現れた。

 皇太子妃には選ばれぬというのに、着飾ってきて、この妃選びが自分を選ぶための茶番だと知っている浜木綿にとっては滑稽に映った。皆が、滑稽だった。選ばれるはずないものに期待し、着飾って意気込んでいる姿が。


 しかし、神鳥は彼女を選んだ。その時に気づいた。神鳥は、八束の心眼は純粋さを見抜くのではないかと。浜木綿は彼の前に堂々と立てない自分に気づいた。もう純粋に学問を追いかけていた、八束と談笑した自分はいないのだと。


 他家の姫を心の中で笑い、公正ではない妃選びを仕方がないことだと受け入れ、ずるをして青紫を纏う。もう、純粋ではなくなってしまった。


 でも、私は狡いから。と浜木綿は自分に言い聞かせる。どんな手を使ってでも皇太子妃にならなくてはならない。


 卯家の姫、撫子なでしこは純粋に八束を慕っているから、恋をしているから彼を見ることができた。それとは逆に彼に全く興味がないから彼を見ることができたのは亥家の姫、ひいらぎだった。

 

 二人の姫が、浜木綿を脅かすことなどないと信じたい。しかし、神鳥が撫子に鳴いたことだけが気がかりだった。純粋さだけでは皇后になんてなれやしないのに。




******




 夏の盛りを少し過ぎた頃、撫子が住む卯月宮には浜木綿の住む、水無月宮から納涼のために共に氷を食さないかと誘いが来ていた。浜木綿は律儀に全員に文を出したが、さすがに気まずいのか花弦はなつるだけは来なかった。しかし、水無月宮にはそれ以外の姫が一堂に会した。


 撫子の前には削られた氷に甘葛煎をかけたものが出された。皆がその透き通るような氷に感嘆のため息を漏らし、有象無象が浜木綿を讃え出す前に浜木綿は口を開いた。


 「今日の、納涼の会は私が主催ではあるが氷はささめの君が用意してくださった」


 浜木綿の右隣には腰巾着の戌家の桔梗ききょうが。左隣には細がいた。不思議な席順だと思っていたが、氷を細が用意したのなら納得がいく。


 「実家から、麗扇京みやこの夏は暑いだろうといつもは冷えた洞窟に保管してある氷を送ってくださいましたの。独り占めするのもどうかと思いましたし、溶けてしまいますものね。皆様も早めに召し上がって。少しでも涼んでいただけたなら幸いですわ」


 控えめな笑みで細は周りの姫君たちを見渡した。撫子はまさか、この目立たない控えめな姫が今回の納涼の会の真の主催だったとは気づかなかった。自身が主催として呼びかけるよりも、皇后の姪として一目置かれ、発言力がある浜木綿が呼びかける方が人が集まると考えたのだろう。

 妃候補の姫たちは互いに同格であり対等である、という建前はあるのだが、実際は浜木綿の影響力は強かった。細が氷があるから皆で食そうと言い出しても、人はあまり集まらなかっただろう。


 浜木綿が呼びかけたことで彼女のおこぼれに預かって甘い汁を吸おうとしている姫君たちは全員参加し、特に断る理由もない浜木綿派でもない撫子や柊、胡蝶なども参加した。花弦は来なかったが、それは仕方がないだろう。

 花弦は自身の矜持から、真っ向から浜木綿に対立するような形になってしまったのだし、ここに現れる面の厚さも勇気もなかったようだ。


 皆が、甘葛のかかった氷を口に運ぶ。まぁ、とか、あら、と言った感嘆の溜め息が漏れた。


 「冷たい。冬を閉じ込めてしまったかのような味がしますわ」


 撫子は思わずそう呟いていた。浜木綿が鷹揚に笑う。


 「撫子の君は詩的な表現をなさる。歌を作るのも上手いのでは?」


 浜木綿に褒められたので撫子は照れた。


 「そんな。私なんてまだまだで」


 しかし、桔梗が意地悪く笑った。


 「では、急ではありますが歌合せなどいかがでしょう」


 撫子は罠に掛かった兎のような気持ちになった。撫子は琴を弾くのは抜群に上手いし、得意ではあったが詩歌となるとてんで駄目だった。今まで皇太子からの贈り物の返礼の文は春風はるかぜなど女房に代筆してもらったのを撫子は確認していただけで、詩歌の良し悪しなどわからない。

 妃候補としての教育にはもちろん、詩歌を嗜むことも含まれていた。しかし、撫子の苦手はついに克服することはなかったのである。

 詩歌が駄目なら、琴を、と逃げるように琴の練習に励んだ。その様子を春風が苦い顔をして見守っていたことが思い出される。

 最悪、春風は自分が代筆すれば良いのだと開き直りでもしたのか煩くは言われなかったが、撫子の丸まったみみずのような文字は直らなかったのである。


 桔梗は浜木綿が詩歌を嗜む才人であることを知っていて、撫子と浜木綿を比べて撫子を貶めようとしていることがわかった。


 その時、場違いのような明るい声が響いた。


 「氷、美味しいですよね撫子の君。私も故郷では氷柱を齧ったりしました。先端が甘くて美味しいんです。そう言えば、撫子の君は流水琴を頂いたそうですね。歌より、珍しい琴を披露して貰ったらどうですか? 滅多にお目にかかることはないものですよ」


 柊だった。柊は主催である浜木綿に問いかけるように視線を向ける。柊の言葉にその他の姫も、そして浜木綿も流水琴に興味を惹かれたようで歌合せの話は流れてしまった。

 別室に待機していた女房たちに卯月宮にある流水琴を持ってくるように伝えた。流水琴が来るその間、話の中心にいたのは柊と驚くことに細だった。


 柊は桔梗がまた歌合せの話題に戻さないように、氷の透明度を褒め、細を静かに照れさせた。すると、他領からしてみれば珍しく映る玄北地方の話で場を繋いでくれた。


 「そう言えば朱南地方では、雪は滅多に降らないとか」


 柊が浜木綿に話を振る。


 「雪は滅多に降らない。我が巳領の南端では冬でも外で寝れると言われるほどで」


 話の中心に浜木綿が戻ってきたことに安堵したのか、それまで柊を睨みつけていた桔梗は一旦は溜飲を下げたようだった。


 「そう言えば、貴族の間で浜木綿の君が入宮の儀で纏っていらした美しい領布が憧れの品だとか…」


 茶梅さざんかが巳領の話題が出たついでとばかりに尋ねた。確かにあの領布は美しかった。羽化したばかりの白い蝉の羽のようであり、光により色を変える特殊な織り方はまるで天女の羽衣を纏っているようだった。

 巳領の腕のいい職人と商人が結託して、浜木綿を流行の最先端として推し出し、貴族の婦人や姫を中心に利益を上げているようだった。


 「ええ。あれはいい品でした。皇后陛下にもお褒めいただき──」


 浜木綿が笑顔で語り出す。話は巳領を中心に朱南地方の話になってしまった。その隣で細は気づかれぬように俯いていた。どうやら柊と故郷の話をしていた方が楽しかったらしく、浜木綿やその取り巻きたちによる巳家を上げる話にはどうも上手く着いていけないようだった。

 彼女が場の主役になれたのは、氷を提供したと浜木綿から言われた時と柊と話していた時だけであり、すぐに影に取り込まれたようになってしまった。


 しんしん、と降り積もる雪のような人だと思った。それは細の雪のように白い肌がそう思わせるのだろう。儚い美しさを持った人だった。だからこそ、控えめで浜木綿のような月の光でさえ負けてしまう。


 丁度、流水琴が卯月宮から届いた。調弦を済ませながら、撫子は鳥の囀りのように話を続ける浜木綿たちに耳を傾けていた。今から、この場の主役は撫子になる。流水琴をひとつ、奏でると空は蒸し暑い晴天にも関わらず雨が降り始めたかのような響があった。


 水と雪、似て非なる降り方の二つ。しかし、撫子はこの琴の音を日陰になるしかなかった控えめで哀れな姫、細に贈ろうと琴を奏で続けた。


 いつの間にか、皆が話をやめ、琴の音に耳を傾けていた。氷が溶けるような音なき音が聞こえてくる気さえした。

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