拾壱
まず、日照雨は若に申し訳なさそうに頭を下げると柊と撫子を酒屋に連れて行きたいと申し出た。撫子は酒は苦手なので遠慮したかったが、日照雨は違うそうじゃないと首を振った。
若と日照雨は柊と撫子を守るように道を歩き、とある酒屋の前で足を止めた。祭の屋台からは二、三本脇に逸れた道にある古びた酒屋だった。
「ごめんください」
日照雨ががらがらと耳障りの良い引き戸の音を伴って、暖簾を潜った。撫子、柊、若の順番で日照雨に続く。酒屋なんてもの珍しく撫子はきょろきょろと周りを見渡したが、それは若も同じだったのか全く同じ動きをした。
酒屋の中はひんやりと冷えていた。そして薄暗い。勘定台の上に胡座をかいて座るのは、顔中に深く重厚な皺を刻んだ老爺だった。日焼けしたばかりのように赤い顔は酔っているのだろう。
老爺の頰の皮膚は垂れ、鼻は大きく毛穴が目立ち、眠そうな、垂れ下がった瞼の隙間からこちらを見ていた。背は低く、子供のようで撫子の腰くらいまでしかない。背中が曲がってしまっているのだろう。
お猪口に唇を突き出すように口をつけてちびちびと呑んでいる。
「こりゃあ、いい酒だなぁ。雨がしとしと降る味がするでぇ」
そんなことを独言りながら客が入ってきたことにも気づいていないようだった。
「店主、店主! 悪いが濃度の高い火酒をくれんか」
日照雨が耳が遠いのであろう店主に向かって声を大きくした。ただでさえ彼の声は張りがありよく響く低い声なので、撫子は耳がびりびりした。
「酒殿にゃあ、腰ほどの高さの甕が何本も並べられた広い板敷の場所さぁ。仕込み作業が大変ヨォ」
酔って気分がいいのか店主は歌い出した。
「そうか、そうか。大変だな。ところで、火酒を…」
日照雨がそう言って話を戻そうとしたが、店主は止まらない。
「うちにはなんでもあるよぉ。造酒司の下請けよぉ」
「店主、法螺はよくないぞ」
日照雨が顔を顰めた。
「御酒も実は裏で扱ってるよぉ。蒸米・麹・水で仕込み、発酵させて筌で濾し、再び蒸米と麹を入れ、その熟成を待って濾しを繰り返してさぁ、水無月から文月に造られる帝に献上して供御酒や節会酒として使用する重要な酒だよぉ」
聞いてもいないのに店主は酒について説明し始めた。
「店主、御酒は宮中の酒殿で造られるんだ」
日照雨は訂正したが店主はそれを頑なに認めなかった。昔は宮中の酒殿で働いていたらしく、その時の記憶と現在が混じり合っているのだろう。日照雨は痴呆が始まったかな、と呆れていたが、若は面白いから喋らせておこうと言った。
「盛夏には、醴酒だよぉ。甘くてよぉ、麹歩合を高くし、高温で糖化させて造るんだ。御井酒は水を極端に少なくして仕込む、甘味の強い濃厚な酒だ」
御井酒には撫子も聞き覚えがあった。後宮で愛飲されている酒だ。
「三種糟は米・糯米・精梁米という3種類の原料をそれぞれ別々に仕込む濁り酒で甘味を出すために米麹と麦芽を併用し、水の代わりに酒を使い、高温で糖化させるんだ。珍しいだろ、え? え?」
店主は同意を求めるように撫子たちを見たが、撫子はよくわからなかったので曖昧に頷いた。
「擣糟は、ある程度できあがった醪を臼ですり潰し、水を加えて濾した甘い酒で、孰酒は汲み水歩合を全てにして発酵を充分に進めた、辛口の酒だよぉ」
この店には料理酒である虀酒、粉酒なども扱いながら梅や李が浸かった酒などもあった。
「ああ、それで火酒だったなぁ」
店主がそう口にしたことで撫子たちの間に安堵の空気が広がった。ああ、話が通じていたんだ…という安堵が。いつまで店主の酒に関する長話を聞かなければならないのかと柊はいらいらし始めていたし、撫子も不安になり始めていた。店主の話を真剣に、そして面白く聞いていたのは若くらいのもので、日照雨ですら呆れと苛立ちが見えていた。
「外の国から持ち込んだ上等な火酒よぉ。これは高いぜ」
店主がにやにやと笑った。
「買えるぜ、店主。俺は出世したからな。扶桑衆の給金はなかなか高いんだよ」
日照雨が笑いながら銀貨二枚を差し出した。店主はさっとそれを手に取るとその重みを感じるように手のひらで転がし、そして握りしめて懐にしまった。
店主はいそいそと店の奥に消えて、酒壺を抱えて戻ってきた。それを日照雨は受け取る。
「柊、お前あの汚い野郎の腕に噛みついてただろ。この酒で口を濯げ。あとそこのお嬢さんも掴まれた腕の所に酒ぶっかけろ。消毒だ」
撫子の掴まれた腕に酒が降り注いだ。肌に酒が触れた瞬間にぴりぴりとした。柊も腕に酒をかけたが平気そうだ。そして火酒を口に含んだ瞬間、柊の目は輝き、飲み込もうとするのを「馬鹿!」と言いながら日照雨が吐き出させていた。その様子を見て、若は笑っていた。
店主もことの成り行きを見守っていたが我慢できなくなったのか口を開いた。
「火酒はそうそう出すことはない。俺にも飲ませてくれや。金は半分返すからよぉ」
確かに酒壺の火酒は半分ほどに減っていた。揺らせば中でちゃぷちゃぷと酒の音が鳴る。銀貨一枚を差し出した店主の手から日照雨が銀貨を受け取ると、代わりに酒壺を返した。
店主は金魚がいない真水だけを張った金魚鉢にお猪口を沈めて綺麗にすると袖でお猪口を拭った。まっさらにしてから火酒を注ぐ。まず香りを楽しみ、ほんの少し舐めるように含む。舌の上で転がして喉に溶かし、店主はほぉー……と深く満足げな息をついた。
「こいつぁ、たまらん」
思わず口を突いて出たというような響きがあった。撫子もどんな味か気になった。柊が思わず飲み込んでしまいそうになる酒だ。しかし撫子の頭に春風の顔が浮かび、撫子が酔って帰ったら酒気で彼女は気づくだろうと思った。撫子は火酒で消毒した腕を飲水用の水甕から真水を柄杓で掬いよく酒を洗い流した。
店主はもう一口、噛み締めるようにして火酒を味わった。深い寒帯雨林、太刀打ちできない大いなる何かの裾野に水を使い、樹を切り、火を持ち込むことすら許されて造られる火酒には、森に流れる力そのものが溶け込んでいる。
酒屋を後にすると、屋台の料理の匂いがよく鼻に届く。宴で料理を楽しんだはずなのにお腹が空いてきたのだ。
日照雨はそんな撫子と柊の表情を読み取ったのか、若に顔を一瞬向けた。目の動きだけで何か伝わったのか、ゆっくりと若は頷いた。
「腹空きましたね、若。せっかく幻燈祭に来てるのに何も食わずに帰るのは勿体無いですね」
「座れるところで食べたいな」
日照雨と若のやり取りで、撫子は二人が撫子らを気遣ったのだと気づいた。日照雨たちは撫子たちが後宮の姫君たちであることに気づいている。そんな高貴な女人たちが自分から男に向かって腹が減ったなど恥ずかしくて言えるはずがないと気づいたのだろう。
撫子たちは大通りに戻ると、日照雨は祭りを楽しんで走っていた少年を一人呼び止めると駄賃として銅貨を握らせながら「ここらでうまい飯屋を知らないか?」と尋ねた。興奮で頬が紅潮した少年は「知ってる、知ってる。着いてきて」といって撫子たちを先導し始めた。
大通りに面した大きな飯屋だった。雑多で、俗っぽく大衆的である。しかし中からはいい匂いが漂ってきた。案内してくれた少年は案内を終えると駄賃を握り締め砂糖衣に包まれた串刺しの果実を買いに屋台へ駆けていった。
飯屋の暖簾を潜るとむっと煙が立ち込めるみたいに暑くなった。ひんやりとした空気を纏った酒屋とは逆だ。笑い声が飛び交い酒や肉の匂いがする。木材の床は油でぎとぎとしていた。
撫子たちが入ってきたのを見て、恰幅のいい店主が出てきた。
「お客さん、鳥を持ち込むのは…」
そこで撫子は改めて若の肩に極彩色の羽を持つ鳥がとまっていることに気付かされた。先程から静かなのでまったく気づかなかった。
「この鳥は賢いですし、静かにできます。暴れません」
若は静かに、しかし力強く言った。店主は、まぁ…奥の席なら…と鳥の入店を許した。柱の影になっている奥の席は増築したのか半個室のようになっていて人々の目から隠れる。撫子にとってもありがたかった。
店主が注文を取りに来た。
「注文は」
店主の言葉に日照雨が撫子たちの方を見た。
「腥抜きのものを頼む」
日照雨の言葉に、店主はまた珍しい注文を受けたと目を見開いた。
「うちの店は殆ど肉料理だ。菜だって肉汁に浸かってるような店だぜ」
「金は弾むから、な?」
日照雨は金で解決しようとしたが、店主は訝しげに撫子たちを見つめる。
「なんだ、あんたらどこかの貴族──」
「知りたがりは長生きできない。わかるな? 店主」
日照雨の声が一段と低くなった。
「あの、私…お肉食べてみたいです。気にしないでください」
撫子はそれを言うだけで精一杯だった。頭の中に浮かぶ春風の悲しみ、呆れ、失望、といった表情を振り払うのに必死だった。
「そう言う訳にはいきません」
静かに日照雨は首を振った。店主はその飯屋に来る連れとしてはぎこちない会話を先程の警告通りに無視することに決めたらしく、若の肩に乗っている鳥を見やった。
「この鳥には何か餌とかあげた方がよろしいのですかい?」
その店主の問いには若が答えた。
「ならば、綺麗な水と…できれば木の実があれば」
店主は脂で光る頭髪を撫でながら、「つまみの木の実は塩気がついちまってるからな。水だけで」と呟いた。
「腥抜きならなんでもいいんで?」
店主が最後に尋ねた。本当にこれでいいのかと。
「ああ、任せる」
日照雨がそう言うと、店主は厨房に下がって行った。全ての注文を日照雨とそして若で済ませてしまったことに、柊は抗議の視線を送っていた。
「まあ、今は我慢しろ猪娘。亥領に帰ってきたら一緒に鹿鍋でも食おう」
「ぜぇったい、日照雨の奢りだからな!」
柊は飯屋の空気に酔ったのか、それとも火酒が残っていたのか、少し顔を赤らめていた。
「オゴレ、ソバエ」
そこで初めて、鳥が口を開いた。極彩色の羽を持つ、美しい鳥だった。
「鳥様が言うならしょうがない。ここの勘定も俺持ちか。まぁ、ただの焼き菓子に金貨で払おうとする若には任せられないな」
それを聞いて、柊はくすくす笑い出した。若は顔に巻きつけた布でいまいち表情が読み取りにくいが、恥じているのか顔を下に向けた。
「あの、その鳥さんは助けてくれた鳥さんですよね。ありがとうございます」
撫子はその艶のある羽を見つめながら、お礼を言った。
「賢い鳥だよ。私の指示に従うし、人の言葉を真似できる。外の国からやってきた鳥なんだ」
若は鳥のことになると、少し誇らしそうになった。
「そういえば、噂で聞いたぞ柊。お前、七夕の宴で鶏を射ったそうだな」
日照雨がなんだか誇らしそうに柊を見つめた。
「的に射るだけじゃつまらないでしょう。それに、矢は刺さる時より抜く時の方が血が出るから。別に穢れや何かで批判はされないと思ったんだ」
現に皇后様は姪御様の次の次くらいにお気に召してくれたみたいだしね、と笑った。撫子はじゃあ、浜木綿の君の次は誰なの? と尋ねたら柊は笑いながら撫子のことだよ、神鳥様が鳴いたんだよ、と教えた。
神鳥という言葉に合わせるように鳥が「クスクス」と笑うように鳴いた。
「鳥さんの名前は何というの?」
撫子は若に訪ねた。
「……クロ」
「黒?」
きょとん、と撫子は首を傾げた。この鮮やかな羽を持つ鳥に黒い部分は見当たらない。
「腹黒だから、クロ」
若の布で覆われていない口元がにやりと歪んだ。
「シツレイナ、シツレイナ」
まるで会話しているかのようにクロが鳴く。しかし、クロは外の国から輸入された人の言葉を真似するだけの鳥であり、神鳥でもない限り人の言葉を解すことはない。
会話はそれで打ち切りとなった。店主が盆に乗せた四つの器を「お待ちどう」と並べたからだ。置いた時の勢いで中身の汁が少し卓に溢れた。
白濁した汁の中に麺が浮かんでいた。ここの名物料理は麺料理だったらしい。
「本来なら豚骨と香味野菜を寸胴鍋で煮て、背脂と豚肉を入れるんだ。豚肉を取り出して醤油と味醂の味を染み込ませる。煮続け汁を白濁させ、大きな骨は取り出し、残りは砕く。麺を茹でて椀の中に豚を漬けた調味料を入れ、丼に汁、麺の順に入れかき混ぜ、野菜、豚、大蒜を入れる。臭みを取るために生姜、長葱、八角も入れんだが、腥は使うなって言われてるからな。肉や魚を使わず濃厚な白い出汁を再現するため胡麻と玉葱を炒め昆布で出汁を取り豆乳、味噌で汁にコクを出した。どうだ?」
鼻息荒く、店主が睨んだ。腥抜きという注文がどれだけ無茶なことで、それを叶えるためにどれだけ創意工夫を凝らしたのかを語らないと店主は満足しないようだった。
途中から我慢できなくなったのか柊は竹で出来た箸で麺を啜り出していたし、若も「一流は、何事も語らない」と小声で呟くと麺を口にし始めた。クロは平たい器に入れられた真水をちびちびと飲んでいる。
日照雨だけが申し訳なさそうに店主の今や愚痴も混じり始めた話に耳を傾けていた。
撫子も恐る恐る箸を持って麺を数本掴む。店主が言っていた胡麻や味噌などで味にコクを出し、店の看板商品と見た目は相違ないように工夫した汁が絡んだ麺は艶々と光って見えた。
一口、含む。美味かった。春風、ごめんなさいと心の中で呟きながらもう一口食べる。夜中に撫子が街の飯屋で民と混じって麺を啜っているなどと知ったら、春風が卒倒するのは想像に難くなかった。
気づけば汁まで飲み干していた。柊も、撫子より少し前に完食し、それは若も同じだった。店主の長話に申し訳なさから付き合っていた日照雨だけが遅れ、若を待たすわけにはいかないと、物凄い速さで食べていた。
「軍隊名物、早飯早糞だな」
豪快に笑う日照雨の肩を柊は叩いた。
「汚ったな! 食事中にする話じゃないでしょ」
柊はぷりぷりと怒っていた。本当に日照雨が所属する近衛隊、扶桑衆は食事をとる時間も厠の時間も最小限にし、警護するらしい。
飯屋の店主に心ばかり多めに払った日照雨は、衣の内側に柊が縫い付けていた銅貨を貰うことを拒否した。四人は宮殿に向かって、人々の流れに逆らうように歩き始めた。
柊が知る秘密の抜け道近くまでくると、それがお別れの合図だった。
「狭っ苦しい後宮でも元気でな、柊」
日照雨は再会した時のように、柊の頭を撫でようと腕を上げたが、すぐに彼女は手の届かない後宮の女人であると改めて気付いたのか、手は不自然なまま宙で止まり、だらりと下がった。
この時、撫子は日照雨が柊に対して大きな親愛を感じているのだと確信を持った。ならば、師走宮の問題を打ち明け、外から支援してもらうことはできないのだろうか。
後宮という皇后の手中で、皇后に頼ることでしか何かを変えられない現状に風穴を開けられるのではないかと。
「ああ、また亥領で」
柊の別れはさっぱりとしていた。今、撫子が考えたことなど微塵も考えていないようだった。
「今夜はありがとう。楽しかった」
「サヨナラ、サヨナラ」
若とクロがそう言って去っていく。日照雨もそれに付き従うように踵を返した。柊は姿が見えなくなるまで手を振っていた。