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 七夕の宴ももうお開きかという頃。露台から下ろす街は灯籠が飾られ、祭の賑やかな喧騒がこちらにまで届くかの勢いだった。


 「撫子なでしこの君、ちょっとだけ抜け出さない?」


 ひいらぎが撫子の耳に囁く。これから、卯月宮に帰って禊を済まし、寝るだけである。夜通し宴が続くのは宮中の別の場所で開かれている男たちの宴だけのようで、姫君たちの後宮での宴は、亥の刻が過ぎた頃には終わるのである。


 「ぬ…抜け出すって何処へ?」


 撫子も小声になって柊に聞き返す。柊は悪戯っぽく笑う。


 「気になるなら、子の刻までに師走宮の裏門まで来て」


 柊はそう言うと、静冬しずふゆら女房を連れてまるで何もなかったかのように帰路につく。撫子も春風に連れられ、卯月宮へと戻った。

 撫子の頭の中には、柊の言葉が残っていた。しかし、夜間の外出など春風はるかぜが許さないだろう。撫子はどう卯月宮を抜け出すか考えた。また、女房の着物を拝借するのは春風に見抜かれて使えない。


 そこで撫子は頭を捻って考えた。


 「春風、少し早いけど月のものが来てしまったみたいなの。浮腫んだ顔を見られたくないから、人払いして。女房から女嬬に至るまで私の房に近づかないでね」


 御帳台の中の布団を被った芋虫のような状態で弱々しく春風を呼んだ。春風は見ているこちらが心配するほど撫子を心配して、「薬湯をお持ちしましょうか?」「お腹を冷やさぬよう布団を足しましょうか?」など世話を焼こうとした。

 流石に夏であるにもかかわらず火鉢を持ってきたのは突き返して、薬湯も苦くて飲みたくないので拒否し、静かにして、一人にして、と言いくるめて春風を房に帰した。


 せっせともう一枚の布団を丸めて人形くらいの大きさを作り布団を被せる。傍目から見れば撫子が布団にくるまって寝ているように見える古典的な技だ。

 

 そっと寝衣から、外に行くための簡素な着物に着替えて被衣を被ってこっそりと宮を出た。一人で着替えるなんてことなかったので不恰好になってしまったが、被衣を被ってしまえば見えないので大丈夫だろう。


 師走宮の裏門に着くとそこには婢女のような格好をした柊が待っていた。褒めていいのかわからないが、柊は絹の衣より、こうした動きやすい庶民のような格好の方が似合う。

 

 「ああ、だめだめ! 被衣なんで被ったら貴族だってばれるじゃない。絹もだめ。これに着替えて」


 柊はこんなことになると予想していたのか風呂敷から麻の衣を取り出し、着替えるのを手伝ってくれた。麻の衣はごわごわしていて撫子はその感覚に慣れなかった。

 

「何処へ行くのですか?」


 撫子は柊に尋ねる。もう、柊ははぐらかさなかった。


 「祭よ」


 そう言って柊は撫子の手を引く。


 「祭? 街でやっているお祭りのことですか?」


 大戯楼の露台から見下ろした街は星空の光に負けず劣らず輝いていて、楽しそうだった。


 「でも、後宮の外には無断で出てはならないって…」


 撫子が心配を口にすると、柊は何とも思っていないように返した。


 「馬鹿正直に許可もらいに行ったって許してはくれないでしょう。なら、こっそり行くしかない」


 柊は後宮の抜け道も、夜警の娘子軍の巡回も知り尽くしているようで慣れた様子だった。柊の手には酸漿灯籠が下げられていて、橙色の灯りが彼女の顔を照らし彫りの深い顔に影をくっきりと落としていた。


 後宮を囲む壁を職人用の梯子を使い難なく、登った柊に引っ張り上げられるような形で撫子は壁を超えた。柊はその細腕からは信じられないほどの力を発揮した。

 しかし、考えてみれば弓を引けるほどの筋肉をつけているのだから当たり前かもしれないと思った。


 蛍が光る道を抜け、撫子たちは街へと降りた。蛍の光など祭りの灯籠の灯りにかき消され、姿が見えなくなってしまった。そのかわり、楽人の宮廷とは違う俗っぽい賑やかな音が耳に飛び込んできた。


 きっと夜になると幻想的に見えるだろうと思っていた吊り下がった色鮮やかな灯籠の数々は眩いばかりだった。


 ざわざわとした雑踏は一つの生き物のようだった。醤油が焦げる匂いと、風鈴の音が涼しげにそして少し寂しげにきりりんと歌っている。

 石畳の大通りが続いている。大通りを中心に店が並び、中からは美味しそうな匂いが漂っていた。夜だというのに人通りは多く、道ゆく人の手には酸漿灯籠が下げられていた。

 

 「行こうか」


 柊が撫子の手を引いて、一歩雑踏の中に踏み出す。撫子は世界が変わってしまったかのような錯覚をした。こんな夢のような世界が現実に広がっていようとは。こんなに楽しいなら、大人しく寝てなんていられない。

 先程まで薄らと感じていた罪悪感は賑やかさに吹っ飛ばされた。


 空中には人に紛れて金魚が水中のようにゆらゆらと泳いでいる。美しい光景だった。自分が金魚鉢の中に迷い込んでしまったかのような。


 「柊の君!金魚が空中に…!」


 撫子は驚いて指差した。それがおのぼりさんらしかったのか周りの者たちが微笑ましそうに撫子たちを見やる。


 「ああ、あれは関所で借りられる導引金魚だと思います。観光名所に案内してくれるものですよ」


 柊は亥領出身のはずが麗扇京みやこに関して詳しかった。卯領に引きこもっていた自分が恥ずかしいやら情けないやらで、撫子は頬を赤らめたがその頰に集まった恥の熱なんて夜風ですぐに冷えていく。


 「亥領にも空飛ぶ金魚はいるのですか?」


 卯領ではそんなものがいるなんて話は聞かなかった。もしかしたらいるのかもしれないが、別邸でずっと過ごしていた撫子には知ることはできない。


 「亥領では気候が合わないみたいで適応できる動物しかいないんです。導引金魚は麗扇京が発祥で、比較的温暖な青東地方には広がっているらしいです」


 柊は撫子の疑問にも馬鹿にすることなく、答えてくれた。


 「あと、柊の君なんて呼び方はどこぞのお貴族様だってばれちゃうよ。柊でいいよ。私も撫子と呼ぶから」


 柊がそう言うと、撫子は目を輝かせた。


 「なんだか、お忍びっぽい!」


 お忍びだからねぇ…と柊は苦笑した。撫子は柊に手を引かれながら、ぼぉっと辺りを眺めていた。肩にぶつかる人の多さに呑まれそうになる。


 「撫子、誰も宮みたいに避けて傅いてくれないんだから。避けて歩かなきゃ」


 撫子が肩がぶつかるたびに顔を顰めたのを見て、柊は注意した。遠くで、ひゅるる、どぉん、という音が聞こえた。


 「雷かしら」


 撫子は不安そうに柊の顔を見た。柊はクスッと笑う。


 「花火だよ。ほら見て」


 柊が上を見上げた。銀砂を巻いたような星空には鮮やかな花火が彩っていた。


 「幻燈祭名物の花火だよ。麗扇京みやこのは一番見応えがあるらしいから見たかったんだ」


 往来であるというのに花火が上がった途端、皆が足を止めてしばし花火に見入った。花火は一瞬に咲く花。桜が散り際が潔いように、パッと咲いては去っていく。花火はすぐに終わり、人々はまた歩き始めた。

 屋台の匂いや音やらは変わらず賑やかだ。


 そのとき、撫子は男と肩がぶつかった。柊が自身の側に引き寄せるのも間に合わず、肩が擦れた。しかし、柊の忠告を聞いていた撫子は確かに避けたはずだった。見間違いでなければ向こうからぶつかって来たように思う。


 撫子とぶつかったのは二人組の男の内の片方で、体が大きく肩幅があった。もう一人は小柄で頬骨が高くひょろりとしている。大柄な方が熊なら小柄な方は猿だった。


 二人はじろりと撫子と柊を舐め回すように見たあと小柄な方は本当に唇を舌で濡らした。大きな男が口を開く。


 「おう、あんたら()()()だ?」

 

 撫子は訳がわからず首を傾げたが、柊は眉間に皺を寄せた。


 「悪いが私たちは商売女じゃない。他を当たってくれ」


 柊の声は鋭かった。撫子は私たちは物売りに見えたのだろうかと疑問に思った。行商人たちのように荷を持っているわけでもなければ、屋台を開いているわけでもない。


 小さな男の目がぎらりと光った。


 「あんたらいいのか? 俺らだって安くて汚ねぇ女を抱きたくない。兄貴はあんたらがぶつかった迷惑料を体で支払うことを許してくれたんだぞ」


 柊の目が汚物を見るような目に変わった。否、柊なら本当の汚物にだってもっと優しい目を向けるかもしれない。堆肥に良いと喜んだかもしれない。


 「祭りで浮かれて歩いてた娘っ子を狙ってたんだな。卑怯者。お前たちに許されたも何もあるか。そっちからぶつかって来たくせに」


 柊は撫子を背に庇うと大柄な方を睨みつけた。


 「誰か一人くらい見てたでしょ! こいつの方からこの子にぶつかった」


 柊は喧嘩か何かを見守る群衆を見回して言った。しかし誰も見た、と名乗りを上げるものはいなかった。


 「いないみたいだなぁ」


 男二人が下卑た笑いを浮かべた。柊と撫子の腕を掴んで物陰に引き摺り込もうとする。


 「離せ、卑怯者!」


 柊は抵抗しながら叫んだが、撫子は恐怖で喉が潰れてしまったかのように掠れた声しか出なかった。柊が男の腕に噛みついた瞬間、二人の男の顔目掛けて、一匹の大きな鳥が突っ込んできた。


 「アッチイケ、アッチイケ」


 鳥はそう鳴きながら、二人の男たちを嘴で突いたり鋭い脚で引っ掻いたりした。そのとき、誰かが男の腕を捻り上げ、柊を解放したあと撫子を掴んでいた小柄な男の腕も軽々捻り上げて、撫子を解放してしまった。その間も鳥は男たちの頭上を旋回しながら攻撃を繰り返している。


 助けてくれた男は長身で、日に焼けた肌をした端正な顔立ちをしていた。優雅さ、気品などとは無縁だが若々しく雄々しくある。脂っ気のない髪を後ろで無造作に束ねている。


 「何しやがるおまえ」


 小柄な男が捻り上げた腕を押さえながらきぃきぃ喚いた。


 「か弱い娘たちに向かって恥ずかしくないのか」


 長身の男は腹の底から響く唸るような低い声を出した。


 「これは俺たちとその女たちとの問題だ。無関係な奴は引っ込んでな。あいたっ」


 旋回していた鳥が何処から取ってきたのか咥えた小石を小柄な男の頭上に落とした。小柄な男の威勢も最後のか細い悲鳴で台無しだ。


 「おかしいな。俺にはお前らからぶつかって行ったように見えるが間違いか。それに、ここで騒ぐのはやめたほうがいいぞ。俺の連れが警邏隊を呼びに行った」


 まずいと思ったのか、大柄な男の顔が歪んだ。しかしもう収まりもつかなくなっていたのだろう。


 「いい加減にしないと、痛い目見るぜ」


 そう言うや否や、大柄な男は長身の男に向かって拳を振り上げた。しかし、その拳が顔面に届く前に素早く長身の男は自身の拳を男の鳩尾に叩き込み、大柄な男が唾液か何かを吐き出したと思えば突き出された拳を受け止め、腕を掴み捻りあげると腕力だけでごきりと鈍い音を立てた。大柄な男の腕はありえない方向に曲がっていた。


 小柄な男が逃げ出そうとしたのを滑空して突き刺さるように飛んだ鳥が退路を塞いだ。そして小柄な男も腕を捻りあげられ折られ、地面に蹲るようにして痛みに喘ぎ、芋虫のようにもぞもぞとのたうち回った。


 「ここじゃ通行人の邪魔になるか」


 長身の男が何気なく呟くと丸太を転がすように二人の男を蹴って道の端に寄せた。


 鳥はいつの間にか消えていた。撫子はこの時になってようやく助けてもらったのだということに気づいた。撫子が礼を言おうとすると、長身の男は「姫様方が簡単に頭を下げられますな」と静止した。撫子は正体がばれたのかと冷や汗をかいた。


 「皆様、お騒がせいたしました」


 男が群衆たちに向かって頭を下げたことでようやく安堵したのか、人々は解散し始めた。くるり、と男は柊の方に向き直った。


 「お前は人の善性を信じすぎる悪癖があるな、猪娘」


 撫子は男から乱暴な言葉が飛び出たことに驚いた。

そして柊の顔を見た。怒りに染まっているか悲しみに染まっているか、と想像していたが、柊はそのどちらでもなく笑顔だった。


 「腕っぷしの強さは変わってないね。日照雨そばえ


 日照雨と呼ばれた男は白い歯を見せてにっかりと笑った。


 「あのまま物陰に連れ込まれたらどうするつもりだったんだ、柊」


 日照雨の声は微かな怒りが含まれていた。


 「股間蹴り上げて逃げるつもりだったよもちろん。それに私は相手の勢いを利用して相手を倒す方法を知ってる」


 柊は淡々と自分の予定を言った。


 「お前一人ならそれでもいいのかも知れないが、そこのお嬢さんもいるだろうが。人質にでも取られたらどうするつもりだったんだ」


 日照雨に言われて柊は押し黙った。頭に血が上って撫子の存在を一瞬忘れたらしい。


 「猪突猛進は時として悪いことに繋がる。忘れるなよ、猪娘」


 そう言って日照雨はわしゃわしゃと乱暴に柊の頭を撫でた。柊の顔には照れが浮かんでいた。二人の間には親しさが感じられる。撫子がもう我慢ならないと二人の関係を聞くと、二人は顔を見合わせて笑った後同郷の幼馴染だと教えてくれた。


 日照雨は代々、亥家に仕える家系の武人であるらしい。


 「それにしても、お前。後宮に上がったと聞いたが、こんなとこふらふらしていいのか」


 「いいわけないでしょ、ばか!」


 柊は強めに日照雨の背を叩いたが、日照雨にとっては蚊に刺された程度にしか感じないらしい。日照雨はにやりと笑い、なら俺たちは同じ穴の狢だなと言った。


 柊がお忍びで街に出てきたように日照雨も、皇太子の側仕えをしている高貴な貴族の少年の日頃の鬱憤を晴しに街へお忍びで下りるのを護衛しているのだという。彼は今、皇家の近衛である『扶桑衆』に身を置いていた。


 「にしても、皇太子殿下にお仕えする女人がまさか街でならず者に穢される危機だったんだぞ。もう少し、自覚をな…」


 日照雨がくどくどと柊に説教を始めようとしたのを柊は遮った。


 「私が皇太子妃になるわけないよ。運が良ければ姫宮様の内の誰かの降嫁話を亥領に持ち帰れるかもしれない」


 そこで初めて、撫子は柊が皇太子妃の座など狙っていないことを知った。少しでも中央の者たちに亥領の現状を伝え、皇家との繋がりを強化するべく内親王の降嫁を自身の家に向かわせたいのだ。そういった思惑で妃選びに臨む人もいるのかと撫子は驚いた。


 「それより、警邏隊が来るの? なら、私たち逃げなきゃなんだけど」


 柊は撫子の手を掴み、足早に歩き出そうとした。


 「いや待て。警邏隊ははったりだ。俺たちだって呼ばれたら困るからな」


 日照雨が苦笑した。そういえば彼が同じ穴の狢であると言った事を思い出した。


 人々が歩き去る道の端に、腕に先程助けてくれた極彩色の羽を持つ鳥を留まらせた、女のように布を顔に巻くようにして目深に被った人物がこちらに手を振っていた。


 「若! ありがとうございます。おかげで知り合いを助けられました。ついでと言っちゃあ何ですが、こいつらも一緒に観光させていいですか? 何しろこっちの猪娘は問題に頭突っ込む才能だけはピカイチで」


 若と呼ばれた人物は申し訳なさそうに、しかし堪えきれず口の端が歪み、肩を振るわせながら笑っていた。それを真似するように鳥の方も、くつくつと笑っている。


 「いいよ」


 透き通った声が風のように撫子に届いた。何処か懐かしいような声だった。

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