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壱 

 桜吹雪が視界一面に染まる。ほんのりと色づく薄紅の花弁がはらはらと舞っていた。春の吉日に裳着もぎを控えている撫子なでしこはその日、別邸の近くにある桜の群生地に女房たちには内緒で一人、被衣を被って出かけていた。


 生来病弱で、別邸に押し込まれていた撫子は桜の花など邸に飛んでくる山桜の花弁でしか見たことがない。哀れに思った乳母が桜の枝を一つ持って帰ってきてくれたことがあったが、手折った枝はしばらくもしないうちに萎れてしまい、なんと儚い花なのだろうと思った。


 ならば、地に根付いた大きな桜を見に行けばいい。撫子はそれだけを胸に毎年春を待ち侘びるようになっていた。そして裳着を控えた今年、裳着《成人》を済ませてしまったならきっと撫子は本邸に呼び戻される。ならば桜を見に行けるのは今だけだ。


 女房たちが針仕事に夢中になっているのを見計らって撫子は邸を飛び出した。山に見える薄紅の靄が桜であろう。さくさくと草花を踏み締めて、撫子は桜の群生地にたどり着いた。

 歩くことなど滅多にない撫子は息が上がってしまっていたが、桜の群生を見た途端疲れなど吹き飛んでしまった。


 幻想的な光景だった。桜吹雪が撫子の頰を撫でていく。しかし桜以上に目を奪われたのは花弁の間にちらりちらりと映る、人影であった。薄紫の衣が風に靡く。


 けぶるような睫毛に漆黒の髪は紫の組紐で結ばれていた。桜の花精かと見紛う容姿だが、それが自分とそう歳も変わらぬであろう少年であることに気づいた。


 引き返さなくては、と思いながらも撫子は桜の妖力にでも当てられたのか、それとも目の前の少年の眩いばかりの美貌に吸い込まれたのか目が離せなかった。


 その時、ざぁっと桜が舞い上がる。突風が吹き、被っていた被衣が飛ばされてしまった。


 「あっ」


 撫子が声を漏らす。髪が風で桜の花弁と共に舞う。少年の白い腕がしっかりと撫子の被衣を掴んだ。髪を見られるという恥ずかしさに撫子は俯いて地面を見ていた。早く逃げるようにこの場を立ち去りたいのに、足が縫い止められたように動かない。


 撫子の頭にあるべき質量が戻った。視界が被衣に覆われて薄暗い。少年が被衣を被せてくれたのだとわかるまで時間は掛からなかった。


 「何も見ていないから、安心なさい」


 凛とした、少年の声だった。ふわりと衣に焚き染められた香の香りが鼻に届く。それほどまでに近い距離にいることに撫子は赤面した。被衣が顔を隠してくれていてどれだけよかったか。


 足音が離れていく。少年がこの場を去ったというのに撫子の頰は火照ったまま、しばらくその場から動けなかった。


 その後、どうやって邸にまで帰ったのか撫子はよく覚えていない。すぐ戻るつもりだったのに勝手に外に出たことは邸中を大混乱に陥らせ、帰ってきた途端、女房に怒られた。


 「家の一の姫ともあろうお方が衵姿あこめすがたなどという薄着で外を出歩くなど! しかも一人で! 春風はるかぜは恥ずかしい思いでございます、姫さま。被衣を被っていっただけ及第点といたしましょう」


 女房である春風は一通りお説教を終えるとため息を吐いて、「御髪おぐしに花弁がついておりますよ」と剥がれかけた螺鈿細工の箱から古い櫛を取り出した。撫子の母の形見である。


 慣れた手つきで春風は撫子の髪を梳る。撫子の髪が絹のような光沢を保ってられるのは春風のおかげであった。


 撫子の母であるすずなは撫子が生まれて間も無く亡くなった。父である長波ながなみが迎えた後妻である凰鈴おうりんは長男、撫子にとっては弟に当たる蘇芳すおうを産み、本邸で暮らしている。まだ父が母を想っていると知っている凰鈴は邸から母の面影を全て消してしまった。

 着物などは全て焼き払われた。この螺鈿細工の箱と櫛だけがなんとか凰鈴の魔の手から逃れられた。春風が隠し持っていてくれたのだ。


 病弱であったというのも嘘ではないが別邸に撫子を追いやったのは父なりの優しさであったと撫子は信じている。

 

 「それにしても姫様、顔が赤いですわ。熱でもあるのでしょうか?」


 春風が撫子の額に手を当てる。撫子はまだ自分がのぼせたように顔が赤いことが春風の指摘で気がついた。頭の中を占めるのは先程出会った桜の少年。思い出すだけで顔に火が灯る。


 「なんでもない! なんでもない! それより春風、山の桜のことなのだけれど…」


 撫子はあの美貌の少年のことを頭から振り払うように、話題を変えた。


 「ああ、あの遠くに見える山桜のことですね。確かあの山の麓は有名な温泉が湧いていて、今は皇后様と若宮様が湯治にいらしているらしいですわ」


 花見をしながらの温泉とは優雅ですわぁ、と春風はうっとりしたように呟いた。彼女の手は針仕事などの労働の手だ。別邸には女房の数が少なく、少ない人数で邸を回していかなければならないため彼女の顔にも疲労が浮かんでいる。


 北の御方(凰鈴)が手を回して、わざと別邸の人を解雇して苦労させるように仕向けたのだ。その膨大な仕事量は春風の負担であろう。


 「苦労をかけるわね、春風」


 撫子は申し訳なさそうに声を出した。先程の、勝手に一人で外に出たことを反省したのかと解釈した春風はあきれたように笑った。


 「確かに困らせられましたけれど、病弱だった姫様がお転婆になられるほど元気になって春風は嬉しゅうございますよ。まぁ、もう勝手に出歩くのはやめてくださいな」


 薄紅色の小さな花弁が板の床にはらはらと落ちる。春の陽光を吸った木の床はほのかに暖かい。艶のある床の木は春風が丹念に磨き上げたのだろう。


 撫子は春風に心配をかけてしまったことを申し訳なく思った。生前の母から受けた恩から撫子の女房として仕えてくれている。さっさと他の女房たちのように北の御方付きの女房になれば苦労もこれほどではなかっただろうに。


 床に散らばった桜の花弁から、撫子は嫌でもあの少年のことを思い出した。「何も見ていないから、安心なさい」と真っ赤な嘘をついてまで、撫子を恥から守ってくれた。頭の上に被せられた被衣の質量と、あの特徴的な香の匂いが思い出され、撫子の胸は高鳴った。




******

 



 闇の中をほのかに紙燭の灯が染めている。その灯が揺れる中で鮮やかに十二単の色彩が幻想のように揺らめいていた。

 白粉を塗った肌に紅を差した薄い唇。その姿は天女のように麗しい。僅かな微笑みは春の木漏れ日のようだ。清らかな泉の水のようでもある。

 裳の腰紐を結ぶ腰結を務める福徳の高い親族の女性──白蓮びゃくれん様がゆるりとした手つきで裳の紐を結ぶ。結び終えた紐から手を離して立ち上がると、張り詰めていた空気が一挙に崩れた。


 これで裳着の儀は終わりだ。撫子は立派な大人の女性に数えられるようになった。それを見計らったように後日、父が撫子を呼び出した。


 実に数年ぶりになる親子の対面だった。烏帽子を被り若草色の狩衣を着た父、長波は最後の記憶より当然だが老けていた。


 「撫子や。お前も、もう大人の女性。しかし求婚の文は全く届かない」


 それはそうだろう。北の御方がご丁寧に全て握り潰しているのだから。彼女は撫子が少しでもいい家に嫁ぐのが許せないらしい。それに裳着(成人)をしてからまだ一ヵ月も経っていなかった。桜は葉桜へと姿を変えていた。


 「娘の嫁ぎ先を用意するのも親の務め。そこで私はお前を皇太子殿下の妃候補として皇后様に推薦しようと思うのだが、どうかね?」


 どうかね? と聞いてはいたがこれは撫子の意思を確認するためのものではない。撫子はここで否、と答えることは許されていないのだと肌で感じた。


 「私が、お妃さま?」


 ぽかんと撫子は口を開いた。


 「まだ決まったわけではないよ。あくまで候補だ」


 長波は娘の早とちりを鷹揚に笑う。


 「若宮様が元服なされ、立太子なされたのはお前も知っているね?」


 撫子はこくりと頷く。しかしそれは遠い麗扇京(みやこ)での出来事だと撫子は考えていた。日嗣の御子の誕生は皇国(すめらぎのくに)としても喜ばしいことだ。


 「皇太子殿下には妃、お側で支える片翼が必要なのだよ」


 そこで皇太子の実母である皇后はやがて国を導く皇太子を支える女人を探し出すことに決めた。皇太子の妃選びである。皇国では十二の柱があるとされる。それは建国を支えた十二人を始祖に持つ十二の家であり、撫子の卯家も国を支える一柱の家であった。

 

 皇太子妃はその十二の家から選出されることが決まっている。十二の家それぞれが家の名を背負った姫を後宮に送り込み、皇太子妃の座を競わせる。これは妃選びの皮を被った、家同士の代理戦争と言えた。


 「皇后様が皇太子の後宮を開き、妃選びをなさるという。お前には卯家の姫として後宮へ行ってもらいたい。なぁに、お妃に選ばれれば僥倖。たとえ選ばれずとも妃候補になった姫は引く手数多だ」


 撫子には応と答えるしか道はなかった。しかし胸を掻きむしりたくなるほどの痛みが襲う。桜の幻想と共にあの少年の顔が浮かんで、泣きたい気持ちだった。名も知らぬのに、何故こんな気持ちになるのだろう。


 「わかりました。身に余る光栄ですわ、お父様」


 撫子は微笑みを浮かべて見せた。それからの日々は忙しかった。妃候補として後宮に召し上げられるのは来春。それまで撫子は妃となるに相応しい教育を詰め込まれた。一族全体が浮かれる中、北の御方だけは不服そうだったが卯家の本家の姫は撫子しかいなかったし、夫にどう不満を切り出すべきかも迷っているようだった。


 そうしている内に春はあっという間に来た。撫子はこの一年であつらえた着物と宝飾品、そして数名の女房たちを連れ網代車で麗扇京へと旅立っていった。


 「これ、姫様! 窓から顔を出すものではございません」


 十二単に領巾を絡めた姿の撫子は初めての旅に浮かれていた。同乗する春風に嗜められるほどには心が弾んでいた。


 「だって、私初めて邸の周りより遠くへ行くのよ。しかも麗扇京よ。浮かれるな、という方が無理な話だわ」


  今でも桜とともに思い出される少年の顔。ちくりと針を刺すような痛み。しかし、撫子の他に妃候補は十一人もいるのだ。自分が選ばれるはずかない。


 「まぁ、見て春風。昨夜の雨で桜は散ってしまったけど露が輝く若葉がとても綺麗」


 湿気を含んだ風が牛車の小窓から流れ込んでくる。雨を含んだ苔の匂いがした。卯家は皇国すめらぎのくにの東、青東せいとう地方に所領を持つ貴族だ。中央にある麗扇京までは途中で牛を交換して進み続けたとしても牛車で三日はかかる位置にある。

 もちろん、この旅では宿場町で牛を休ませながら進む。


 「姫様、よろしいですか。麗扇京に着くまでにお勉強のお浚いをいたしましょう」


 春風は真剣な顔で撫子を見る。春風は撫子を本当の娘のように思っているからこそ厳しくするのだとわかっていた。


 「まずは皇国の地理からですわ」


 撫子は花が綻ぶように笑った。馬鹿にしないで、とのんびりした口調で答えた。


 「この一年、しっかり勉強したんだもの。それくらいわかるわ。中央に麗扇京みやこがあるでしょう」


 「では玄北げんほく地方を治める北の三家は?」


 「()家、ちゅう家、がい家の三つだわ」


 撫子は指を折りながら数えた。


 「では、朱南しゅなん地方の南の三家」


 「家、家、家」


 「白西はくせい地方、西の三家」


 「しん家、ゆう家、じゅつ家」


 「では姫様、我が卯家の所領もある青東地方の東の三家は?」


 「我が卯家と、いん家、たつ家」

 

 よくできました、と春風は満足そうに微笑んだ。そして春の装いに相応しい桜色や若葉色、浅葱色、菜の花色の着物を重ねた撫子を見て、うっとりとした。目が離せないほど美しい。前から、それこそ女童の頃からその可憐な美しさの片鱗は見せていた。

 北の御方もその美しさに嫉妬していたのだろう。母、菘の面影を残す撫子に長波が夢中にならないようにいじめたのだろう。


 春風は母にも似た感慨深い気持ちで撫子を眺める。すぐに風邪をひいていたあの幼子がもう裳着を終え、日嗣の御子の妃候補として後宮に上がろうとしている。

 思えばこの天女のような美しさも、この世で最も高貴なお方に捧げられるためだとしたら納得だ。


 「春風は、姫様をこの世で一番幸せな女人にするために今までお育てしてきたのですね」


 春風の目には涙が溜まっていた。


 「急にどうしたの、春風」


 撫子は急に涙ぐみ始めた春風に驚いた。


 「私は姫様が入内できればと思っております。皇太子妃、未来の皇后は夫から愛され、万民から愛されるこの世で一番幸せな女人ですわ」


 あまり乗り気ではない撫子に反して、春風はすっかり気合いを入れてしまったようだ。皇太子妃、未来の皇后になればもう北の御方に怯える暮らしをしなくてもいい。春風は撫子をもっと良い環境に連れ出したいと常々思っていたのだろう。


 撫子は春風の言葉に胸が痛むのを感じた。どれだけ夫に好かれようとも、万民に好かれようともあの桜の幻想と共に記憶の中で儚く息をし続ける少年の顔が忘れられないのだ。

 被衣を被せてくれた優しい手つきが、撫子の心を掴んで離さない。あの白くも若柳のようにしなやかな腕に抱きしめられたいと考えてしまう。

 ああ、あの時飛ばされた被衣になりたいと撫子は願った。あの人に触れられたい。そこまで考えて、なんとはしたない思考に陥っているのだと考えるのをやめた。


 今から撫子は皇太子の女になりに行くのだ。もちろん選ばれず家に返されることもあるだろう。しかし、妃選びの期間、一年間は皇太子以外の誰のものにもなれない。


 牛車は今日泊まる街まで近づいていた。

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