第七話『スレンダーマン』Ⅱ
イラスト紹介ページにて、『三善一誠』『玄武』『六合』のイラストを追加しております。
是非ご覧ください!
覗き込んだのは長身の男。落ち葉を踏む音さえ立てず、吐息一つさえ立てず、鏡子の背後に忍び寄る。それは、近くに潜んでいるはずの一誠すらも欺いていた。
帽子――シルクハットから覗く目の色が、一点の閃光のように鏡子の脳内を穿つ。
許されているはずの手足が、動かない。
如何にもスーツの出で立ちの男は、見える顔下半分で笑顔を作って、鏡子の頬に手を伸ばした。
「――玄武ッ!!」
その声は一誠の声だ。
呪縛から逃れた鏡子は一呼吸さえせず後ろに飛び退いた。
玄武は木を足場に増した勢いでスーツの男に飛びかかったが、それは朝露の反射のように冷ややかな空気を玄武の身体に纏わせるだけで、実体がない。
驚いた瞳のまま、緩衝材を得られずに木をなぎ倒し制止した玄武と線対称に姿を現した六合も、同じ瞳をしていた。
男はくすくすと笑いながら、帽子のツバを掴んでいる。
「申し訳ない。少し興奮してしまいました。……まさかこんな子どもが、会いに来てくれるとは」
流暢な日本語だ。スレンダーマン――異国の怪異なのだが。
「アペタイザー……。にしては、些か毒が強すぎるな、と思いはしたが……。目を開けてみれば、そもそも食事ではありませんでした」
やれやれ、と首を振るとその男は右手をツバから離し、その右手でパチン、と指を鳴らした。
鏡子が緊張に目を細める。その男は、その指一つの音で、鏡子の呪符全てを無効化し、紙屑に散り散りに破いてみせたのだ。
「食べておくれよ、と言うのならば、遠慮なく。――いただきましょう」
僅かに傾げられた首。笑う口元。隠されるはずもない――殺気!
鏡子の足元を蠢いた土は、次の瞬間には幾重にも生える血の通う蔦の牢となりかけ、鏡子は六合の応戦によりその場を脱した。
しかし走れど走れど土の上に触手が蠢き、鏡子の手を、足を、捕えようと蜷局を巻いている。
粘つく体液は鏡子の感覚を鈍らせ、立ち込める瘴気は鏡子の意識を冒していく。
鏡子は意識のもやを振り払い、なんとか近くの木に手を掛け、六合の助けを用いて木の幹に飛び昇った。僅かではあるが空気が清らかだ。束の間の安堵を得る。
「鏡子、安心してはいられぬ。この木も、どれほど持つか……」
六合が見やる木の根元に触手が絡みつき、じわりじわりと腐らせているように見えた。
「鏡子、離脱を!」
「……出来ません」
「鏡子! 死んでしまう!!」
「――死にませんわ!!」
意地のまま飛び降りようとした鏡子の視界の下で、左手を上げ歩みを進める一誠の姿があった。
一誠はその左手で鏡子に制止の合図を送っているのだ。不思議なことに、一誠に絡み付こうとする触手は一誠の手足いずれかに触れる直前に霧散していく。
「陰陽師の仕事って、こういう殴り込みじゃないんだけどなぁ……。さて、と。この間はどうも。勉強になりましたよ」
「……キミは?」
「覚えてないんだ……」
一誠はいじけたように目を逸らしたが、男からは特に反応は無い。
「まあいいけど。すごく痛かったのに……。まあいいけど。あのさ、あの時僕が無策にお前にぶちぶちやられたと思ってる? なわけないじゃん。僕だって……僕だってお役に立つ為にやってることもあるんだよ!」
どん、と胸を張った一誠に、鏡子はそわそわと六合を見つめた。六合は肩を竦めるだけだ。
「スレンダーマン、お前は――。いや、お前の背後を明かしてやろう。赤裸々ってやつな」
「へえ。それは興味深い。お聞かせいただきたいものですね」
男は深く頷くと、静かに近くにあった岩に腰かけた。
「実体を持たないくせに、触手や、あの大きな姿……になると害を及ぼせる。そしてお前が出る時は瘴気の霧が出て、お前の実の姿はうやむやだ。……つまりお前は夜で、暗雲で、降りしきる雨なんだろう」
鏡子はその言葉を頭の中に落とす。
夜……雲……そして降る、雨――――。
「夜でしかも雨。こういう場合は大抵怖いよな、玄武?」
「なにが言いたい、一誠」
「いや? すごく玄武が輝ける……戦場ってことさ!」
玄武――それは十二神将が一、四神が一、凶の印。
凍て付く白んだ支配領域にて、万物の始まりと終わりを舌鼓むモノ。
「……帰命し奉る。冬を敷く者に、我が二天の一柱に」
その一誠の声色を変えた言葉に、玄武は一歩ずつ座る男に近づいていく。
男もさすがの変化に姿勢を変えるのか、立ち上がった。
「未降伏者を降伏させる者よ。御身の万象の雫を翻し、悪を砕け――成就せよ」
「承知。守護の誓いに従い、武をもって征服しようぞ」
陰陽師に頭を垂れる式神――十二神将は、その神たる力を主によって封じられている。その全てを解放するには鍵が必要であり、その鍵とは主の魂であり言葉であった。
玄武、六合の主である三善一誠は、いまその封印の一かけらを解き、目の前の怪異を殺せ、と命じたのである。
故に踏み潰し砕き征服する。玄武という神は、そういう神だ。
「……へえ、面白いですね。是非ともワタシに見せてください! 玄武サンとやら!」
しかし、男は怯えすら身に存在しないというかのように、喜んでその制圧を身に受けるつもりだ。
いや、制圧ではない――。なぜこうも、嬉しそうなんだ?
「六合、鏡子たちも出ましょう」
「指示を、鏡子」
「ええ――。鏡子達は、封印の儀に執りかかります。嫌な予感がしますわ……」
「……久方ぶりよの。玄武を見て尚、笑う怪異は」
玄武の姿は少年であれど、その真実は獣に近く。纏う空気を半円を描き逆転させ、その雫を凍らせる。怪異の男が支配する領域の霧は温度低下により固体となり、しなやかに動く触手は生命であるが故に活動を鈍らせるしかない。
冬の夜は暗く恐ろしいだろう。そう、お前が得意とするものは全て、此方が得意とするものだ。
太陽を隠し時刻を偽り此処を地獄と指定する。
異国の不作法者よ、お前をここで殺すものと申し付ける。
しかし――――。
「玄武サン、それはワタシも同じです」
地獄で何かを殺すのは、こちらの男とて同じことだ。
寒空の夜で遊ぶのは楽しいかい?
約束の時刻を忘れて友と走り回るのは、楽しいかい?
朝よりも昼よりも、日暮れの仄暗さが、何よりも心地よいかい?
その笑顔が好きだ。その笑い声が好きだ。その大きな目が好きだ。
だって全て、温度を半円を描き逆転させれば――。
地獄を彩る、なんて涎垂れる額縁になるだろう。
「さあ! 尋常に――勝負ッ!!」
玄武が地を蹴って飛びかかる。男は霧散し燕尾を翻し、ダンスのリズムで玄武を誘う。
玄武に襲い来る触手の一手を玄武は掴みちぎり、それを凍らせて投げ返す。男はシルクハットを押さえ、ターンの優雅さに笑みを浮かばせた。
二人の攻防は殴り合いにもつれ込んでも、その双方ともが雲隠れするためにお互い傷を負わない。暖簾に腕を圧し合っては、一歩も進めないことはお互いに承知の上だ。
互いが死を望んでいる。だから手を変える。
玄武は周囲に蛇を放つ。その小さな蛇はすぐに男を取り囲む大蛇となり、登り上がった頭を木の頂上まで登らせて、その腹ばいに踏み潰そうと揺れる。
男は周囲に触手を昇らせる。同じ高さまで上り詰め、蛇と手は絡み合い、花が咲いた。地揺れと共に。
「っ……!」
「鏡子さま!」
六合と共に封の呪を編んでいた鏡子は、地が割れたためにバランスを崩した。揺れが激しい地を駆け、一誠はその身体を支える。
「一誠!! 玄武を下がらせて!! そこまでの解放は認められない!!」
一誠の肩越しに、鏡子は目を見開いた。
そこに、二つの巨大な影があったからだ。
「――っ、は、はい!!」
「鏡子!! 封じるには弱らせなければ!!」
一つの巨大な影、触手を背に伴う。
一つの巨大な影、大蛇を背に伴う――岩亀。玄武の在りし姿だ。
「鏡子が叩きます!! 一誠は封印の引継ぎを!!」
「鏡子さま!? いけません、玄武でもそんなに傷つけられないんですよ!?」
「奥の手ですわ!! スレンダーマンは、玄武と近い性質なんでしょう!?」
揺れる地と土埃と変わる地形。一誠の縛りがわずかに玄武に届かない一時で、二人は声を荒げている。
「そうです!! けど!! まさか――そんな! 無茶です、鏡子さ、鏡子さまーッ!!」
鏡子はもはやその場にいない。靡くスカートを掴めないまま、一誠は悔しさに唇を噛んだ。
鏡子は岩を木を飛び越え、玄武の足元に行き、その背を駆け登る。もはや一つの大地だ。四神の一つ、玄武が遥か昔に取っていた姿と言うが……!
「もはや九字は良い……」
鏡子は駆けあがっていく。胸元に仕込んだ護符を手に、真言の祝いを口に含む。
「怒り怒り、戦う。金色の蛇、来たれ」
囁き護符が煌めく内に口に食む。唾液で湿れば、――勾陳へと繋がる。
離れた地で、振り返る式神がいるだろう。それだけの動作で、鏡子と勾陳は繋がる。
主を用いぬ無理やりの引き出しだ。手痛い反動は飲み込む。今は死だけ避けられればいいから。
岩亀の目元まで来れば、一誠の忠言を聞き入れた玄武が目を向けた。
鏡子は叩く空を指す。そこへ鏡子を打ち上げろ、と。
玄武は獣の姿を解いていく内、抱き入れた腕の中で、鏡子を見つめた。
そして――高く、己の大蛇に鏡子を昇らせて高く、高く打ち上げた。
「……へえ」
巨大化したスレンダーマンと目が合う距離まで上り詰めた鏡子の脳裏をかすめる言葉。鏡子の眼光に迷いはない。自由落下が始まらない寸前の頂点にて、鏡子は夜に似た空の中で、口の中の護符を引き抜いた。
「また後で、話しましょう」
空に開かれた五芒星、そのまま地に染み渡って、それは巨大な土の囲いとなる。
怒号にも似た壁の高鳴りは瞬時にスレンダーマンを囲い、その蓋が無い箱となり、その中に玄武がもたらす雨が降る。
洪水の滝のように降り注ぎ水位が上がる。鏡子は壁の上に飛び上り、中を見た。
「……相克の定めです」
「それは何でしょう?」
「身をもって理解しなさい」
頬に張り付く髪を振り払い、鏡子は後ろ足で飛び降りた。その落下の儘、鏡子が護符から打ち上げた黄金の――龍がある。
それは星の煌きを描き、土の箱を締め上げ、崩した。
黄金の龍の嘶きは雲を突き抜け、雨は土塊をぶちまける穢れを纏い、掘り起こされた大地へ還る。
鏡子が着地するように伸ばした片足に絡み付いた蔦が、鏡子を大葉へと誘導し、滑り台の役割でスムーズに地面へ運んだ。
六合が胸をなでおろしている。
「一誠!」
「はい!」
そうして、鈴を鳴らす。男の支配領域を囲んだ組紐が、赤い結界が、この領域の主を塗り替える。
幾重にも重なる退魔の祝音。一方に弾かれようとも四方八方に囲まれたこの円内、もう中央で潰されるしか未来は無いというものだ。
まあ、いまの男――スレンダーマンなる者は、片膝を付いたまま、人間の大きさのまま、動けない。
「……っはぁ――」
鏡子の息の乱れが深刻だ。……とか、考えていられない。
持て、スピード感。未来が描けないのは、鏡子たちも同じこと。
ああ、めんどくさい。祝詞とか、真言とか、無くても発動出来ればいいのに……。
「はぁっ……う、……。いきます!」
もう目を擦っても、上から降ってくる泥のせいで意味不明だ。
顔がどろどろぐちゃぐちゃだ――。
「天照す導きの地に留まることを許す――直れ!」
声の勢いのまま、鈴の音が大きく響き――止まる。
……止まった? 本当に、止まった?
抵抗の音は無い? この静寂の中、誰もが鈴の音を幻覚を得る。
「……封印、成功です」
一誠の声を合図に、鏡子の視界が大きく揺れた。
結局戦いとはポケモンバトルなのだよ。
アペタイザーは、前菜の意です。
んあ~~陰陽師ってどうやって戦うんだ。わけがわからないよ。