第九話『月が代わった夢があれば』
夢を見ている。それを自覚している。そして薄らんでいく淡い夢。開けるのは目だ。
鏡子の部屋に置かれた水槽で、泳ぐ魚がいる。その奥で歪んだ人影が、鏡子には誰かわかっていた。
「姉さま、御目覚めですか」
「……鈴佳。来ていたのですか」
「はい……。勾陳が呼ばれたので……心配しました」
鏡子は床では無くベッドに寝かされていた。身体は手当が施されていて、薬品の匂いがしている。
鈴佳は鏡子の目覚めに気付くと、ぱたぱたと足音を響かせて傍に走り寄った。
鏡子の傍で腰をベッドに沈めていた勾陳は、鈴佳が来ると姿を消したようだ。
「かのスレンダーマン……封印したようで。勾陳の助けが必要ならば、この鈴佳を連れて行けばよかったのに」
「……そうですわね」
「お一人で行動して、本当に何かがあれば皆が悲しみます。姉さま、本当に、勾陳が呼ばれた時も、急いで姉さまの部屋に来た時に見た光景も、私がどんな気持ちだったか想像できますか?」
「……ごめんなさい」
「姉さま。……一人で頑張らないでください。ね?」
「……ええ――そうですが……鈴佳。鏡子ならば、一人で大丈夫です」
鏡子は起き上がり、まっすぐに鈴佳の目を見て言い放つ。
鈴佳は目を伏せて、その言葉に反論は言い出せなかった。
二人を反射する、水槽の水が揺れている。
二人の言葉を飲み込んで、その魚はぷかぷか息を返してるのに――。
夕方に差し掛かると、神社庁より連絡が入った。
もう一度スレンダーマンを封じた地に来てほしい、とのことだ。
鏡子は新しい制服に袖を通して、可能な限り薬品の匂いを消した。六合に頼めば傷はたちまち消えるけれど、命の危険がある場合に限りたい。なので、見える傷は化粧で隠していく。
「私もご一緒します」
鈴佳のその言葉に頷いて、二人は迎えの車に乗り込んだ。
着くと件の雑木林はお祭り騒ぎで、神社本庁の職員が慌ただしく行ったり来たりを繰り返している。
二人の到着に気付いた一人の職員が、頭を下げて近づいて来た。
「お久しぶりです、鏡子さま」
「古雅部長、お久しぶりですわ」
古雅――神社本庁総務部部長。煙草の匂いを纏わせている疲労が堪った目の下で、鏡子と鈴佳に再び目礼をした。
「すみません、もう一度来てもらって。いやあ、なにせ最後の目録追加が幕末なんで……こっちもどうしたものかと。三善の倅もわかんないって言っちゃうし」
「編纂の記録は神社本庁に残っているはずですよ」
鈴佳がすかさず口を挟んだ。古雅は腕時計を触りながら「まあ」とは言っているが、なんとも歯切れが悪い。
「それが……どうも我々ではどうやっても見えないんですわ」
古雅が呼んだ職員が、日やけた和綴じの本を開いた。鈴佳と古雅は確かに目を細めた。鏡子は、一人頷く。
「わかりました。では、鏡子がやりましょう」
「助かります。何かこっちでやれることはあります?」
「では、この雑木林に迷い子が入らないように、入り口を塞いでください」
「わかりました。職員集合~、今から目録追加の儀を行う! 二人一組になって雑木林を囲め! あとイヤモニ忘れずにつけろよ、何があるかわかんないぞー」
先程の本のページは、二人にとっては何も書かれていない汚れたページだったが、鏡子にとってはご丁寧に方法が書かれていたHow to ページだった。目録編纂がある際は神社本庁に事後を委ねる、との言いつけだったが、これは鏡子しか行えない儀式だと丸わかりだ。
安倍晴明についての情報の一切合切は形で残らない、とは聞いているが、これもカウントされているとは――。
「古雅部長は残って下さるのですね」
「まあ、現場監督ですから」
鏡子は赤い組紐の境界線すれすれまで歩み出た。そして数時間ぶりに相見える男が、僅かに笑った気がする。
そう、見透かされているのだ。鏡子が目録追加の方法について噛み締めている、一つの不都合を。
目録追加、その方法自体はいたってシンプルだ。
対象物をまず身動き取れない状態にして、その四方八方を式神で囲う。
その状態にした上で名を奪い、格を下げ、怪異を劣化させる。
そうすればその怪異は無力化される。
最後の仕上げに、怪異の血と、鏡子の血を混ぜた墨で、目録に追記を施す。
……不都合は、最初の工程。式神で囲うこと、そう、式神の召喚――――。
「四神を……呼ばないと……」
「鏡子や、駄目だ。まだ、鏡子では出来ない」
青龍が顔を出し、小さな声で鏡子を諌めた。鏡子は瞳を逸らす。
「でも、やらないと……! 二人が見ています」
「出来ないことは出来ない! この仮止めだけで十分でしょう。今は上手いことを言って、この場を切り抜ければいい」
「鈴佳には通用しませんわ」
「鈴佳は察してくれます……!」
青龍の美しい顔が強張っている。清い流れ、そして女として表した身体が、鈴の音を伴って揺れている。涼やかな女の姿をしている。如何にも上流で上品で手折れない枝葉の花、という風貌の女が髪に挿している鈴が、一度大きく、右へ左へ、歪に揺れた。
その場は暗雲に移り変わる。――いいや、陰と陽の結界が、お互いの領域を侵されまいと打ち破りたいと、拮抗しているから、力が拮抗し合うから、暴風が空へと突き抜けたのだ。
鈴佳は咄嗟に古雅を庇い、青龍が鏡子の前に立ちはだかり、突如立ち上がった怪異の男を睨みつけている。
「オンミョウジ、サン。何やらお困りのご様子」
「……うるさい」
「ははは、そう邪険にしてくれるな。キミにとって、……未熟なキミにとって、良い隠れ蓑を提供してあげますよ」
「囚われのオマエが、この鏡子と対等に取引をしようと言うのですか? 面白いですわね」
「ワタシとしては良いんですがね、地響きするくらい、暴れても。結果オンミョウジサンは力不足を証明し、もっと周りを頼ることを覚えると言う良い循環が生まれるわけで。……ワタシのこと、本当に倒せますか? ――殺せるかい?」
鏡子は歯を噛み締めた。……出来ないから。
「……何が、望みでしょう」
「聞くのね、鏡子」
青龍が顔を僅かに鏡子に向けている。鏡子は小さく頷いた。それを見て、青龍は渋々鏡子の前を開ける。
「――ワタシに、色々教えてくれませんか? このニホンの文化、歴史、そして……理」
「……何故?」
「単純、ワタシはね、知りたいのだ!! この世の全てを!! 一を! 解を!! 世界が生み出された理由、その、本当の理由を!! 憶測で語られるのではない。ただの神父が勝者の歴史の中で修飾された言葉を吐き出すのではない。生々しく、新鮮な、神の血によって味わう一瞬の輝きの真実を!! ……だから、ワタシは此処に来ました。だから、ワタシは諦められない」
「……おまえが望む解答を、鏡子が答えられるわけが……」
「出来ます。だってオンミョウジサン、……まだ、子どもじゃありませんか」
「……はい?」
「素晴らしい。子どもというだけでもう、すでに、神に近い!! 嗚呼、本当に残念だよ、キミに、キミの、その、脳を食べられないということが、ことが……!! ――負けは認めます。が、ワタシは自らの使命を果たすために、あらゆる選択をするでしょう。それが、この頭脳を用いた、キミへの手解き……。簡単に言いましょう。ワタシを頼りなさい」
鏡子は言葉を返せなかった。男は口元だけ微笑んだ。
「今この場を、ワタシに任せると言いなさい。そうすれば、あのスズカ? とやらにも、キミの未熟さがバレなくて済む。そこの女には、黙れ、と命令することをお忘れずに」
「……本当に、何とかできるの?」
「ええ。ワタシは、自らが出来ることに嘘はつかない――」
男は恭しく頭を下げた。
鏡子は……頷いた。
「スレンダーマン」
「No. プロフェッサー」
「……プロフェッサー。この場を、任せますわ」
「――良いでしょう。我々は、求める者には手を伸ばす、そういう生き物ですからねぇ!」
では、とプロフェッサーは咳払いをした。
「オンミョウジサン、キミが思うこれぞ封印! の台詞を教えてください!」
「……えっ、え? これぞ、封印、ですか?」
鏡子はあからさまにおどおどと青龍を見た。青龍は気まずそうにプロフェッサーを見る。
「……ぷろふぇっさーが求めているのは、この子が好きなアニメや漫画やらの台詞でしょう?」
「ええ、そうですが? 此処はニホンですからね! 景気よく行きましょう!」
「……ごめんなさい。わ、鏡子は……アニメや漫画は、……わからなくて……」
鏡子の消え入りそうな声に、プロフェッサーは笑うのを止めた。少し考える様子の角度を見せると、ぽん、と手を叩く。
「わかりました。では、普通にいこうか。オンミョウジサン、スリーカウントの後に、この場の誤魔化しを解きます。キミは、……そうだな、ただ立っているだけでいい。ワタシが上手いこと封じられたふりをしましょう」
「……はい」
「では――、オンミョウジサン、そこの女に、命令を」
鏡子は頷いて青龍を見た。不安そうな顔に強く、言葉に呪いを込めて、言い放つ。
「青龍。安倍鏡子の魂をもって命ず。この男と鏡子の会話を口外してはならない」
「……ええ、わかりました」
呪いの焔を取り払って、鏡子は息を吸って――吐いた。
そうすれば辺りは爆風を渦巻いて、少しだけ木々が焦げて、何だがヒャッハーした光景に様変わりした。プロフェッサーは自らのスーツをビリビリに裂いて、大の字に逆さまに土の中に突き刺さっている。そして鏡子はこの展開に「なにこれ」と言う言葉を古雅に奪われたまま、ただ尊大な態度で振り返った。
「目録編纂、これにて完了。封じる名は『スレンダーマン』。この鏡子に、敵は無い!」
小説書くのむずすぎて草
単芝……はあ……業だわ……