第八話『スレンダーマン』Ⅲ
感じる――自らの呼吸音のみが。荒い音が、肺が、視界を揺らしているのだ。
聞こえる――水滴の音が。ふと下を見れば、この両手から滑り落ちる血があった。
そうだ――スレンダーマンの領域は……霧は……触れるだけで傷がつく……。
それを込みして纏っていた術が、戦闘の最中に解けていたのだろう。
揺れる――視界が、揺れる……。
「鏡子さま。本庁に連絡を入れました! ……鏡子さま?」
「――ありがとうございます、一誠。疲れたでしょう、先に戻っていても構いませんよ」
鏡子は一誠の声に振り返り、笑顔を形作った。
震える足に力を込めて、震える瞼を意地で押さえ付ける。
「いやぁ、なんのなんの! おかわりもいけますよ!」
「勇ましいですわね。残念ながら、後処理に一誠の出る幕はありませんわ。神将を連れてお戻りなさい。……ああ、そう、一つ頼みたいことがあります」
鏡子は思い出したように空を見て、
「一誠。そんなに暇なら、編纂についてのレポートをお願いしますわ」
「……レポート!? そ、そんな、書いたことありません!」
「鏡子もありません。では、玄武、六合、一誠をよろしく」
鏡子はひらりと手を振って、背を向けた。
玄武が一誠を引きずっているのだろう。ささやかな抵抗の音も短く、一人が此処を離れる音が聞こえる。
――聞こえなくなった。後ろを振り返る。誰も居ない。そう、誰も……。
もう一度振り返る。隅まで見る。誰も居ない……。
「はあっ。う、うう……」
鏡子は膝を付いて、腹の下から込みあげた吐き気にえずいた。
中身は出ないが、これだけでも脳みその神経がいくらかスッキリする。吐けば食道が痛むので、これくらいでちょうどよかったりする。
視界がチカチカ煌いて、足がガクガク震えている。水を飲みたかったが、ちょうどよく自販機は雑木林の向こう側だ。いつもそうなんだけど。
「可哀想に。キミのような子どもが、何をそんなに頑張っているのか」
――顔を上げた、視界を横切る赤い組紐の向こう。鏡子が広げた結界の中。その中央の岩に、足を組んで座る男がいた。
スレンダーマン――そう、先程に無力化し閉じ込めた男が、涼し気な雰囲気を醸し出して鏡子を眺めている。……顔は見えない。
「……スレンダーマン……」
「いやはや、まさかこちらでもその名が浸透してしまっているとは……。困ったものですねえ」
「……違うと言うのですか?」
「ワタシ、本当はプロフェッサーなんですよね」
綺麗になっているシルクハットを押さえて、スレンダーマンは……いや、男はそう言った。それは、何かを告白するような、もはや大部分が遥か昔に過ぎ去った思いのような、軽い音だった。
「プロフェッサー……?」
「おや、ご存知ない。かくいうワタシも、まだニホンの地に不慣れなものでして。色々お互い教え合っていけば、有益な関係が――」
「無駄に語るでないわ、スレンダーマン」
宙に躍り出たのは、影に顔を隠した六合だ。
春を彩る容姿は、朝日の影に隠れて嫌に温度を落としている。
鏡子を隠すように地に降り立つと、その金色の瞳の硬度を上げて、スレンダーマンを睨みつけている。
「お前はこれより、この日の本の地で管理される妖となる。乞うは許しで結構。売るは媚が良かろう。――精々、我らが陰陽の不興を買うことを避けるのだな」
「……そうしなければ、どうなるのですか?」
「意思を奪い、四肢を穿つ。死に近い一瞬の苦痛を、永久にくれてやろう」
「おお、怖い怖い。忠告に従うとしましょう」
風に運ばれて、数人の足音が鏡子の耳に届く。
鏡子は背筋伸ばして、土ぼこりを祓った。
「鏡子様! 神社本庁より参りました!!」
「朝早くから申し訳ございません。かのスレンダーマンはこのとおり封じましたので、手筈通りの編纂の手続きをお願いいたします」
神社本庁の職員は五人。それぞれに封じられたスレンダーマンを見ているが、この姿からはただの小綺麗な男にしか見えないだろう。
鏡子の穢れに目をやる職員の一人が、「鏡子様。後は我々にお任せください。車をお出しするので、お先にお戻りを」と言うので、六合が「そうじゃな。そうしよう」と言ってしまった。
鏡子に有無を言わせない手つきで六合が押すので、鏡子は男を振り返る。
男は見える口元を笑わせて、
「ワタシはプロフェッサー。本土の知識はこの脳に。教えを乞うのならば、お答えしますよ。オンミョウジ、サン?」
と言った。
鏡子は車の中でスマートフォンを取り出し、プロフェッサーと入力する。
出て来たのは、教授、という単語だ。
音もなくスマートフォンをスリープさせ、鏡子は帰宅の道に揺られながら、目を閉じる。一息をついて、目を開けて。学校の裏手に車をつけてもらって、礼を短く述べる。
すぐに自室に行きたかったが、運転手に言わなければならないことがあった。
「運転、ありがとうございました。連絡はまずは本家にお知らせください、とお伝えください。その後、家の者が鏡子に伝えるはずですから」
「はい、かしこまりました。鏡子様、お疲れさまでした」
「いえいえ。これが、鏡子の役目ですから」
車を見送って、随分重くなった足を引きずる。
六合の姿はすでに消している。もう、一誠の下へ戻れと伝えた。
鏡子の学校での寮は――、一つの屋敷と言っていい。それをクラスメイトで一部屋ずつ分け合っている。
今は朝の授業時間。がらんとしたエントランスに響く足音は管理人の者で、鏡子を見て頭を下げた。
「お疲れ様でございました。先生をお呼びいたしますか」
「いりません」
「はい。お風呂の準備はしております。軽食は冷蔵庫の中にありますから」
「ありがとう」
そう言って、軽い足取りで部屋へ上がっていく。
――足が痛い。頬も痛いし、何もかもが痛い。つらい。
でも、まだ、意地を張る。
自室の扉を開ける。閉める。閉めた、閉めた――――。
ぐらりと倒れた身体。フローリングに倒れ込んで、浅い呼吸を自覚する。
先生を……医者を呼んだほうがよかった。けど、今は、そんな元気……。
そんな余裕……姉さま……――――。
薄らんだ景色で、懐かしいと今でも夢想するあの日がある。
憤る毎日だった。それでも姉は、いつでも微笑んでくれた。
『鏡子。強くありなさい。そうすれば、小さなことは結構どうでもよくなるものですから』
『ねえさま――』
『鏡子。泣いてもいいのです。でも、でもね。見せる相手はきちんと選びなさいね』
流れる涙の記録を現在過去のどちらにしよう。
頬の形も温度も違う今では、流れる涙も変わるのだろう。
それでも――強く在りたい。
あなたのように。わたしも、立っているでしょうか?
スレンダーマン戦終了になります。
次からは従来の不定期更新になります。
いやあ、倒せてよかったぜ……。私もどうやって倒そうかまじ悩んだ……。
いや倒してないんだけど。