異常と正常
「生贄にされても…怖くない、です…」
絞り出すようにイヨ子は呟いた。死ぬのは、人の運命だ。自らも人を殺害したり、この世の者でない部類に人が食われるのを目の当たりにしてきた。
「異常だよ」
ラファティが僅かに軽蔑を含んだ口調で言う。
──異常って何だ?
(コイツらは自らを正しいと思っているの?)
「二人こそ、この状況を見ておかしいと思わないんですか?それこそ人の記憶を矯正するなんて、異常じゃあないんですか。…正常って何ですか?分かってそれを」
怒りを顕にするも。
「私は正常こそが正義だと思っている」
機械のようにサリエリが遮った。それを前にしたイヨ子はあまりの無力感に何も言えず、歯を食いしばる。
「──考えます。逃げはしません」
「期限は今日から三日。それだけは忘れないで欲しい」
念を押され命拾いをする。摩訶不思議な喫茶店から飛び出し、帰路につく。
彼女がそんな大それた役割を背負っているとは知らなかった。
喜怒哀楽があり、ズレた価値観はあれど人の自我を持っていた。あれは神ではない。あれは。
(私は…何も知らない。あの人の事)
「あ、イヨ子。帰ってきたの?」
「あ、うん」
「これからお母さん、用事で外に行くからお留守番よろしくね」
母親が玄関先で靴を履いている。同窓会か、父親を車で迎えに行くのか。
「行ってらっしゃい」
当たり障りのない家庭。リビングでは妹がソファに寝そべりテレビを見ている。
「はあ…」
階段をのぼり、二階にある自室へ入る。ベッドに身を任せ、しばらく無心で天井を眺めていた。久しく現実感のある心地が襲ってくる。
当たり障りのない自室。
好きだったオカルト。
好きだった…。
自身の趣味であふれた部屋が他人のモノに思えて、気持ちが悪くなる。この部屋にいた世間知らずな未成年はもういない。
「うぐっ…」
慌てて窓を開け、冷たい空気を吸う。どこかの家から夕飯の匂いがする。気持ち悪い。この景色は。
血しぶき、異形。人間の醜さ。
元に戻れない場所まで来て、いきなり種明かしをされ、日常を突きつけられる。
この甘ったるい幻想の日常にはいられない。
記憶がなくなれば吐き気やあぶら汗も解消されるのだろうか?
もしもパビャ子との記憶が消失したとしても、『火遊び』が好きならば、いずれ日常から外れて問題行動を起こすだろうか?
ならばせめて自分がパビャ子の身代わりに『なきさわめのかみ』に就けないだろうか。




