ときをたびする
サクメイのシリーズになります。
夜札星さんのお話がスタートしました。
おいでませ、お宮においでませ。参道に逆さの牛様が通ります。丑の刻に通ります。
お宮に逆さの牛様がお休みになられるまでは、鏡の中の牛を見てはなりませぬ。
見たら目玉が反り返る。
お宮が、どこの、どのお宮を指すのかは何かは伝えられていない。日本中どこにでも出没する。唯一、生きて帰った者が言うに常行堂と似ていたという。
風の噂によれば…お宮なる建物を見たら命はない。またはこの世から姿を消してしまう。
お宮へやってくる『逆さ牛』を見たら、生きて帰れはしない──
「夜札星様。今月は遅くなり申し訳ございません」
清楚凪 錯迷は白目を剥いて口から血を吐く水牛に恭しく、礼をした。夜札星と呼ばれた薄汚れ痩せこけた牛は無反応であった。
「身を清めさせていただきますね」
ブラシやらをバッグから出すと、丁寧に毛並みを整える。
「ほぎゃあ。ほぎゃあ」
牛はそれだけしか言わない。血を吐くだけだ。
「心地よいですか?清めの池に行くために、新しいブラシをこしらえました。もっと砂をはらえるように」
あれから、長い年月がすぎた。
錯迷は焼き払われた社殿を作り直した。慈悲深き夜札星が住むにふさわしいお堂を建設し、焼き討ちした者どもの血で柱を塗った。苦悩に満ち、また驚愕の瞬間で息絶えた顔を飾り立て、魔除けのヒトガタとして体を灯篭に縛り付けた。
夜札星はそれを拒絶しなかった。仲が良かった子供をお使いにして、良くお堂まで来てくれる。
優しい彼女に尽くすため、毎月、境内を清め、ブラッシングする。
「いたぃ、あ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"…いだぁい」
お使いが潰れた顔面から血を流しながらも何か喋っている。どうでもいい。
「サクメイはパーラムに会いました。夜札星様のお告げ通り、生きておりましたよ」
「ほんぎゃあ」
「あなたのために、あのオンナを殺めます。この身が零落しようとも」
あの日々のように黙々と手伝いをするのは、彼にとって唯一の癒しだった。清めの池と称した有害物質のため池は夜札星が輝きを取り戻すためのものであり、血塗られたお堂は夜札星の食料を確保するための罠。
「サクメイは…毒に蝕まれているのですか?これはおかしい行いなのでしょうか」
──パーラム。どうしてあんな言葉を言ったの。
夜札星はずっと反芻する。
パーラム・イターは至愚へこう言った。
神殺しの女か。かの神が悪神だと判断できるのか?してみなよ。その濁った目玉が本物かどうかね。
それだけは、それだけは駄目よ。パーラム。
トンネルをくぐっていると、どこからか子供が軽やかに歌う声が聞こえた──
おいでませ、お宮においでませ。参道に逆さの牛様が通ります。丑の刻に通ります。
お宮に逆さの牛様がお休みになられるまでは、鏡の中の牛を見てはなりませぬ。
──見たら目玉が反り返る。
「逆さの牛…?」
乎代子は聞き覚えのある言葉に、辺りを見回した。割りと近くで聞こえたはずなのに子供はいない。いるのはパビャ子だけである。
「パーラム…!貴方、会いに来てくれたのね」
次に弱々しい女性の呼びかけがして身を固くする。
「貴方を心配していたのよ。姿をくらまして、あれから…」
「わ、私は──」
パーラムではない。そう言ったら、命はないだろうか。
「知っているの。貴方が村を去ったフリをして、さらに隣にある神へ事態を伝えに言ったのを。だからあんなに早く藩の人が早く来てくれたのよね」
この人は誰なのだろう?
「錯迷は勘違いしているの。だから、教えたくて」
パビャ子がこちらに気づき口を開きそうになる。慌てて塞ぎ、女性の声を待つ。
「こちらへ来て。パーラム、お願いよ」
ぐい、と腕を引かれ、トンネルの──抜け穴のような方へ向かう。パビャ子はハテナを浮かべてこちらを見ていた。
(何かに連れてかれてる)
口パクで、言ってみると納得しているようだ。二人で『どこか』へ導かれる。あれだけ人工的なトンネルが風化した窟に変わり、夜だったはずの外は朝日に照らされ清々しい。
「どこぉぉ?」
穴から出たパビャ子が不満そうに言う。
「お梅ではないね。これ…」
あの山裾にはあちこちに、変に荒廃した国道があったはずだ。しかし今あるのは簡素な流れ造りの社殿と、濃い朝靄が立ち込める山々だった。ここはどこかの山の中腹だろうか。
「ぱ、パーラム…貴方、こんな状態になってしまったの…?」
横から声がして身を固める。色白美人の、異国情緒溢れる装束を着た四十半ばの女性がこちらを眺めて驚いていた。細身の絵に書いたような、色素の薄い瞳と白髪に近い茶系の長髪を結わいた…そばかすのある美人薄命を体現した女性である。あの異質な髪。脳裏に多多邪の宮が浮かび、にわかに警戒する。
「あらら、本当に分裂してしまうなんて…」
「あぁ〜??オネーサンだれえ?」
「パビャ子!やめた方がいい、ヤバい類いだっ」
牙を剥きだしたパビャ子を宥めると、女性は少し笑った。
「私の、神さまとしての名前は深淵之水夜礼花神。で、今は夜札星。本来私たちに名前なんて要らないのだけど、あると便利でしょう?」
夜札星と名乗った女性はこちらに手を差し伸べだ。敵意はないと笑顔を浮かべながら。
「こんにちは。未来のパーラム」
あくまでも乎代子へ対し、パーラムと呼ぶ。中に居るのが分かるのだろうか?
「だからぁパビャ子だよ」
「うふ、可愛らしいパーラムもいて安心したわ。さ、疲れたでしょう。社務所でお休みになって」
夜札星さん登場。
「たびにでたい」から繋がっております。




