巣立つ紅い蝶:前編
その日、患者は過去の清算を行う。
否、本人の意思に関係なく
しなければならない。
何故なら証が無くなるからだ。
その人を苦しめていた烙印が
他者から哀れみの目を注がれていた烙印が
消滅して、何処にでもいる一人の個人になる。
患者でもない。ヴァネッサ・フルールでもない。
新しい一人の誰かとして歩み出さねばならない。
「良し! よし……ヨシ」
一人部屋の中、
ヴァネッサは気合を入れていた。
過去に何度も受けた特権治療。
しかし決して慣れはしない。
「アー! 毎回毎回この服に着替えるよ嫌だナー! 普段着で受けられないカナー!」
不安を誤魔化す様に独り言の声量を上げる。
だが彼女の言っていることは本心だ。
手術の日は薄青色の病衣を着用する。
それは同じルールだ。
飾りっ気のないシンプルな服。
普段の彼女の服装から考えれば、
遊び心に欠けた服装だ。
「バカ言ってないで、さっさと準備しやがれこの野郎」
「姐さん……いやん、乙女のお着替え中よ?」
部屋に入ってきたガラプ。
彼女の特権治療はまだ先だが、
経験はしている。治療部位は両腕だ。
「……不安か?」
「不安? アハハ! もう何度も受けたんだし不安なんて! アハハ あはは、はは……ウン、正直慣れない。自分で言っといてだよね。何度も受けてるのに」
彼女達の感情は独特だ。
彼女達は手術を恐れているのではない。
何故なら、どの様な手法で手術が行われるか知らないからだ。身体を切り刻まれるのが手術だと知れば、今以上に、別の不安がのしかかってくる。
「怖い。特権治療を受ける度、目が覚めたら『あの場所で目を覚ます』んじゃないかなって。全部夢で、本当のアタシはあそこで……ほぐっ!!?」
口に突っ込まれたホイップサンド。
大き過ぎる 形が歪 フルーツの切り方が雑
作り手の料理の不慣れさが伝わってくる一品。
「どうだ、俺様特製のお太り様サンドのお味は?」
「っっ!! ……ッ何、急に?!」
「甘いだろ? 息苦しかったろ? そんでもってッ!」
ヴァネッサのオデコにデコピンする。
オークのデコピンは後ろに仰反る威力がある。
不意を受けたヴァネッサは、
後ろのベッドにゴロンと転がる。
「痛った!!?」
「痛かったな?」
「痛いよ!!」
「そうかそうか。じゃあ質問、目の前にいるのは誰だ?」
「? 姐さんだけど」
トンチンカンな質問に
ヴァネッサの頭の上にハテナマークが浮かぶ。
「ふふん! よ〜し、お前は十分正気だ! オークの女が目の前にいるなんて、そうそう幻覚でも見ないって! 安心しろよ、ヴァネッサ!」
ガラプは満面の笑みでそう答えた。
非常に彼女らしい、豪快なやり口。
彼女の方法に反論の余地はあるかも知れない。
だがそんな理屈以上に、優しさが伝わってくる。
「……ップ! アハハ!!!」
「そうそう、笑え笑え! お前が真剣な顔して悩むなんて、らしくねえよ。いつもみたいに新作の甘味の話とかしとけばいいんだって」
「ハー、ホント。姐さんは馬鹿!」
「誰が馬鹿だ!」
背中の紅い蝶々は最も忌まわしい記憶。
本当ならば最初の特権治療で、
いの一番に消し去りたかった過去だった。
だが治療部位を口にしようとする度、
怖気付いて違う箇所の治療をしてきた。
まるで呪われているかの様に、
当時の光景がフラッシュバックする。
治療を受けた矢先、また刻まれる妄想をしてしまう。
「らしくないらしくない! さっさと治してもらいますか!」
「おーし、その意気だ! さっさと終わらせて、飯を食おう! 特権治療をした日の飯は、豪勢な食事だからな。メイド長が腕によりをかけてくれるぜ」
「あら、それじゃあ普段の私の食事。お気に召さなくて?」
背後からメイド長が忍び寄る。
流石のオークも不意を突かれて、
ビクッと腰を引かせて振り向く。
「ァーメイド長。来ていらっしゃって……」
「冗談よガラプ。それより、ネイヴ先生が先程からお待ちよ。準備はできた?」
「万全!」
───── 玄関ホール ─────
二階へと上がる階段の下。
普段着ているヨレヨレの白衣ではなく、
新品の皺一つない白衣を纏うネイヴ。
そしてその側にはローズもいた
「お待たせ〜ご主人! それにローズチャンも!!」
「元気そうで何よりだヴァネッサ」
「ヴァネッサさん。あの、なんて言ったらいいのか分からないんですけど……」
「えへへ〜」
ヴァネッサはローズを抱き締めた。
「えっ!?」
「嬉しいよアタシ。最近全然話してくんないんだもん」
「ご、ごめんなさい」
「どうしよっかな〜。じゃあこの後、お茶会に出てよ! 久々に三人で駄弁ろっ! メイド長も旦那様も、かぶとんも執事長も呼んで。みんなでお祝い会開こう!!」
「と、言っていますけどネイヴ先生?」
「……たまにはいいだろう。メイド長、二人にも参加するように言っておいてくれ」
「わかりました」
特権治療をする日は気が休まらない。
皆が皆何かに不安を感じ、
最悪に結末を予想してしまうからだ。
特にその怪我が重要なものであればある程、
自然と全員の表情は強張ってしまう。
「覚悟は。いや、聞くまでもないか」
「うん! サクッと私の背中の蝶々、巣立ちさせちゃってよ!」
「巣立ちか。……わかった」
ネイヴは手を差し伸べる。
ヴァネッサはその手を取り、
ゆっくりと階段を登っていった。
途中何度か振り返り手を振る。
二階を右に回った突き当たり。
鉄の扉を開けて、中へと入っていく。




