蝶々
ローズの部屋の向かいの扉。
そこに一枚の紙が貼られていた。
貼られた位置の低く、
自分宛てだとすぐにわかる。
差出人はメイド長。
そして宛名はやはりローズだった。
「ええっと『本日の朝に限り 職務である目覚ましは必要なし 朝食は作り置きが厨房に用意されています ヴァネッサさんを起こして、二人で食べてください』。なんで急に……」
昨晩の出来事は、
ローズ及びヴァネッサには伝えられていない。
非戦闘員である二人に伝えた所で要らぬ不安を与えるだけ。そんな配慮あっての行為である。
いずれにせよ職務の半分を失った。
暖炉の管理は除外されていない。
ローズは三箇所の暖炉に火を焚べると
厨房へと車椅子を走らせた。
料理の上に被せる銀蓋。
それがテーブルに置かれているのが見えた。
だが手は届かない。
車椅子のローズには高過ぎる。
流石に料理を床に置くわけにもいかない。
これに関してメイド長を責める理由はない。
「誰かに手伝ってもらわないと、届かない……! ッツあ! ふー……痛た、肩がピキって」
暫く奮闘した。
そして諦めたローズは紙に従い
ヴァネッサの部屋の前まで戻ってきた。
「ヴァネッサさん、おはようございます」
言葉の前後にノックを三度叩く。
それを数度繰り返していると
中から目覚めを知らせる呻き声が。
「……ぁレ? ろーずチャン。いつものっふぁあ〜……目覚ましはあ〜?」
寝起き丸出しのしょぼしょぼお目目。
寝癖でハネた髪の毛。
普段以上にふにゃふにゃな口調。
これだけ聞けば非常に愛くるしい。
だが寝巻き姿は愛くるしさとはかけ離れた
非常にグラマラスな格好をしていた。
「(ぴ、ピンクのラグジュアリー……)あ、朝目が覚めたら、こんな紙が貼られていたので。その、個別に」
「ん〜? 貸してみぃ」
低学年男子のようなたじろぎ。
ヴァネッサは少々ふくよかなお腹の持ち主。
だが逆にそれ以外に欠点らしい欠点がない。
全身が太り気味というわけではないからだ。
むしろワンポイント的なだらしなさが、
同性であるはずのローズの心をかき乱しているのかもしれない。
「あー理解了解デェす。くぅ〜〜!! それじゃあ正装に着替えてくるから、ちょ〜っとお待ちを〜ぁおぉ〜……」
「ハイ! わかりまっ……」
ローズは思わず言葉を詰まらせる。
あまりにも突然のことだったから、
脳がその事実を受け入れるのに時間がかかった。
『紅い蝶々』
翅を広げた巨大きくて紅い蝶。
それがヴァネッサの背中に留まっていた。
あくまで比喩的表現だ。
実際は背中に隠せない大火傷。
蝶々と称するにはあまりに酷い傷だ。
だが蝶だと錯覚したのには理由がある。
四枚の翅を広げた紅い蝶。
その形が偶発的にできたとは思えない。
意図的に型取られたと考えるのが妥当だ。
型取りの証拠はまだある。『模様』だ。
本物の蝶の紋様に似せる為だろうか。
後から刃物で模様が刻まれている。
細かい線と太い線が何本もはしっている。
細ペンと太ペンを持ち替えるかのように。
彼女の背中が、あたかもキャンパスにでも見立てているかのような、繊細で卑劣な作品だった。
すぐに彼女がいなくなってよかった。
でなければ、ローズの高まる心音を聞かれていた。
不純な動機で上がっていた心拍数。
それが今度は別の理由で上がっている。
「(見ちゃった。見てしまった!?)」
「(ヴァネッサさんがここにいる理由?)」
「(あの火傷跡普通じゃない)」
「(誰にやられたんだろう)」
「(すごく痛そうだった)」
「(ダメ、深く考えたら……!)」
「(あれが死因?)」
「(他の人は知っているのかな?)」
「(酷いことをされたんだ……)」
「(どうしようどうしようどうしよう!?)」
心の中が慌ただしい。
深く考えないようにしようとすればする程、
ヴァネッサの事が気になって仕方がない。
自分が同じ立場ならどうだ。
そう言い聞かせようとする。
だが心の中のジャーナリスト共は
そんな正当な意見を突っ撥ね疑問を呈す。
「あっ。背中……見られちゃったかな?」
片やヴァネッサ。
自分の不注意を身支度している最中に気付く。
背中に手を回して指で弄る。
既に痛みはない。過去の傷跡に過ぎない。
なのにこうして触れる度
鮮烈に当時の苦みを思い起こさせる。
『純粋なる帆布 汝材として何時』
『純粋なる子羊 汝贄として何処』
『純粋なる奴隷 汝悦として誰彼』
『純粋なる子供 汝作として如何』
『純粋なる少女 汝傑が故に何故』
記憶のフラッシュバック。
押し寄せる負の感情。
しかしヴァネッサの表情に曇りはない。
心は少し削れたが、
動揺して取り乱すような大事には至らない。
「……ヨシ! 準備完了! 今日もヴァネッサ、元気ハツラツで行って参ります!」
自らを奮い起こさせる。
笑顔は決して絶やさない。
服のデコレーションに乱れ無し。
「改めておはようローズチャン」
「おはよう、ございますっ」
視線を合わせようとしない。
声に動揺の色が見える。
ヴァネッサはすぐに察した。
「あー……見ちゃった? ていうか、見せちゃった?」
「……すみません」
「謝らなくていいよ! 私の不注意なんだし。むしろ朝っぱらから、キショクの悪いの見せちゃって、アタシの方がゴメンだよ」
「そんな気色が悪いだなんて! あ、でも綺麗とかそういう意味でも……あ、違くて!! ゴメンなさい! スミマセン……」
本人は真面目に動揺している。
だが当の本人はなんとも思っていない。
だからだろうか、彼女の慌てぶりを見ていると
なんだか自然と笑いが溢れてしまう。
「アハハ! もー真面目すぎるよローズチャン。アタシなら大丈夫だから。それにこの怪我とも、そろそろお別れだし、踏ん切りも着くんだ」
「お別れ? それってどういう……」
「まあたご主人の説明不足? あーでもローズチャンはまだ『一年』過ごしてないから必要ないって思ったのかな? にしてもメイド長が説明しなかったのはなんで???」
「?」
「悩んでも仕方ないかっ。しゃーない。朝食ついでにアタシが説明してあげるよ。この屋敷で【特権治療】を!」
蝶々のモチーフはアゲハ蝶です。
画像検索をすれば、色んな模様が見れます。
どれも絵で再現しようとすると苦労しそう。
そんな難しい模様が
ヴァネッサの背中には刃物で描かれています。




