窓から見えるは雨なのか涙なのか
医者の仕事は治すことなのだろう。
けれど、この異世界では違う。
治す行為に『医者の意識』が付随する。
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「うわあああ!!!」
成人男性が上げる叫び声。
その声が別の人の耳に届く事はない。
降りやまぬ雨が、憐れな男の声を吞み込む。
玄関先で転んで服は泥塗れ。
高級毛皮で作られたコート、金を編み込んだ貴族服。
醜悪で自己顕示欲の強い成金。
だが、泥を被れば惨めさが際立つ。
「どうしましたマネー氏。ワタシの仕事に何かご不満でも」
丈の合っていない白衣の男が次いで現れる。
この街で医者をしている【ネイヴ】という男である。
ネイヴは自らが濡れる事を厭わず、惨めな男に救いの手を差し伸べる。
「不満だと!? ああ、あるともさ! 俺は彼女を『直せ』と依頼したはずだ!」
今までの人生、救いを選択した事が無いのだろう。
選択せずとも、誰かが勝手に自分を救ってくれる。
だから伸ばされた手を払い退けれる。
「だから『治し』ました」
「ッ……! 直していないじゃないか!! 見ろ、その化け物を! もう一度よく、薄汚い灯りの下にいる、薄汚い奴をよーく見ろ!!」
マネーはそれを人として扱わない。
彼の尺度で云えば、彼女は人ではないのだろう。
家の中からキコキコという音が鳴る。
人外の彼女が、こちらへと近付いて来ている。
ネイヴは位置を直した。
無礼な男と人外の彼女との間に立つ。
暗にそれは家の中の彼女に対する彼なりの優しさ。
『来る必要無シ』と行動で示している。
「【彼女を助ける為に どれだけの犠牲を払えるか】
ワタシの質問を覚えていらっしゃるか、マネー氏」
出会った頃の思い出を振り返る。
語る程もない、人生の中では瞬きの時間。
一頻り話し合いが終わったタイミングで切り出した。
話の終わり際というのもあってか、
マネーはその質問を単なる、報酬の話と思い込んだ。
「そ、そうだ。だから俺は大枚を叩いて」
「愛する妻の為に支払う額がこの程度の金貨袋だと?」
手中に収まる程小さな袋を地面に投げ捨てる。
袋は使い古されていて、落下の衝撃で中が溢れる。
金貨の正確の額は省く。
平民の一年の給与。
貴族にとっての一月の給与と認識していればいい。
数十枚だが、確かな価値はある。
しかし泥の上を転がる金貨は、
見ていて虚しさしか覚えない。
「ワタシは額相応の仕事をこなした。それに偽りはない。だがそれでも不服を申し上げるのであれば。……所詮アナタの愛がその程度のちっぽけなものだったというだけ」
この時初めて、感情の揺らぎが垣間見える。
感情の名前は軽蔑。
ネイヴにとって足元に転がっている悉くが、
星の裏側で起こる子供の喧嘩程度の関係性に落ちた。
二人は赤の他人未満の関係へと変わる。
雨の中、『一人』で立つ理由も無い。
ネイヴは振り返る。
季節柄、この時期は雨がとても冷たい。
「こ、この詐欺師がッ!!!」
掴みかかろうとした。
昂った感情を自制できず、怒りのままに。
「風」
ネイヴは体をズラす。
塞いでいた体を退けて射線上を開いた。
病院の中に立つ一人の女性。
飛び抜けた美しさという意味では人外かもしれないが、
彼女は男が揶揄した対象では無い。
女性の声で唱えられたのは風の魔法。
立っていられない、成人男性が浮き立つ強力な風。
マネーは防衛手段を持ち合わせていない。
彼女の魔法は熟達していた。
浮遊体はそのまま馬車の中へと押し込まれた。
「えっ、何事?」
御者は酷く驚いた様子を見せる。
だが彼に事の事情を話す義理はない。
魔法で全てを済ます。
馬車の扉を閉めて、二頭の馬の尻を風で強く叩く。
御者が制する間もなく、馬は全力疾走で街道を駆ける。
姿はすぐに雨の天幕に隠された。
「ありがとう【メイド長】」
「お役に立てて何よりで御座います」
濡れた白衣と彼女の持つタオルとを交換する。
頭を適当に拭き、
ハンガーラックに吊るされた白衣を着直す。
「帰りの馬車の準備を。ワタシは彼女を連れてくる」
「畏まりました」
家、病院内は不衛生極まりない。
とても医者が在中している施設とは思えない。
散乱した本 埃まみれの薬品棚 ひび割れたランプ
鼻に刺る香り 粘着性のある空気感
風が吹く度に窓が嘆く。
名残惜しそうに扉がきーきーと求める。
人外の彼女は見当たらない。
床に残った二本の筋は奥へと戻っている。
受付台の先にある通路。
仕切りには赤黒いカーテンが掛けられている。
通路はより一層暗く、鉄の匂いが染み付いている。
脇には左右対称に部屋が三つずつ。
左奥の部屋、扉が開いていて光が漏れている。
「……失礼するよ【ローズ君】」
一言を添えてから入室する。
ローズという女性は見当たらない。
部屋には車椅子とベッドだけ。
ベッドの上のシーツが不自然に山形だ。
「どうかしましたか」
「……」
「黙っていてもわかりません。どうかしましたか」
「……あの男は、帰ったんですか?」
あの男。
人外と彼女を称したマネーという無礼な輩。
生憎、記憶からは既に抹消されている。
「彼は今日、この病院に訪れていない。アナタは捨てられました」
「そう……です、か」
山が震えている。
ネイヴの心無い一言にでは無い。
人外の彼女はマネーの婚約者だと聞かされた。
それは双方から確認を取った事実である。
身分違いの婚約、一目惚れ、悠々自適の夫婦生活。
宛ら御伽話のような話をマネーからは聞かされた。
だが彼女は人生の節目を話したがらない。
それだけで、夫婦間の温度差に察しがつく。
「はは、駄目ですね。こうなれって望んだのは私なのに。いざこうなってみると、なんだか……どうしていいのか……」
「気の利いた台詞は言えません。ただワタシに出来るのは、手を差し伸ばして、アナタの手を取ることしか」
ネイヴは彼女の左手に触れる。
握りはしない。
ただそっと触れるだけ。
それだけで十分だった。
彼女は麗しい平民の淑女として有名だった。
白い肌と炭のように真っ黒な長い髪。
しなやかな腕、すらっとした脚。
男は魅入り、女は羨む。
それが彼女を知る者の印象だった。
だが今の彼女を既知の友が見て、
ローズだと看破できる人間はいないだろう。
白い肌には焼け痕と、
色の違う皮がツギハギに縫われている。
しなやかな腕、すらっとした脚はない。
かろうじて左腕だけは残っている。
コレが今の彼女の姿。
見るに耐えない醜い姿。
面影すらない別の誰か。
「……お願い、します」
「それでは、失礼します」
まともに動けない彼女を抱える。
縫い目の凸凹が感触で伝わってくる。
ザラザラの肌は触れていて不快だ。
ローズを車椅子へと乗せる。
そして上から合羽を掛ける。
着せるではない、掛けるだ。
「【ネイヴ先生】、馬車の準備が整いました」
合羽を着たメイドが出迎える。
手には傘とまた新しいタオルを持っている。
その両方をネイヴに渡すと、
代わりに車椅子の取っ手を持ち馬車へと運んだ。
「ありがとうメイド長。これで今回の仕事は終わりだ。……さあ家へ帰ろう。新しい家族を紹介しないといけない」
ネイヴは口角を上げる。
馬車は特殊仕様になっている。
馬車自体がとても大きく、入口の横幅が広い。
入口と地面との距離差も短くスロープも備え付け。
中は着席部分には窪みがある。
車椅子ごと患者を乗せられる作りである。
メイド長が馬車を運転する。
異形の彼女を馬車の窪みにハメ、そのすぐ隣に座り、彼女の手を握る。体を固定させるベルトもあるが、それはあまりに無機質に感じる。
ネイヴは仮眠のフリをした。
寝息をそこそこにすれば、日の浅い相手は騙せる。
「(雨都ラグーン。いつか、カッコいい旦那様とこの街で過ごしてみたいと思ってた。幸せいっぱいに、この綺麗な街で……)」
ローズは自分の体に目を向けた。
ラグーンは一年中雨が降り続ける街。
馬車の窓にもしきりに雨が当たり筋が通る。
今彼女が泣いても それが雨か涙かわからない。