第84話 大虚鳥は滑稽劇を歌い 3
ベルガミン卿ブラスは非常に上機嫌だった。
面倒なことになるかと思っていた、副業のポイントに魔獣が入り込んだ件がさほどの損害もなく済みそうだった、ということ。
同派閥の貴族であるセルカ伯から、皆が羨む招待状が――彼の集めるガラクタにはなんの興味もなかったが、彼の宴席に呼ばれるということ自体が一廉の人物だと言うことを示すようなものだ――届いたということ。
とはいうものの島での小規模な宴ということで、出席客もお粗末なものになるのではないか、と思っていたが、なかなかどうして立派なお歴々が出席しており、これも嬉しい驚きというやつだった。
中には、きっと箔付けのために大枚をはたいてご招待したことだろう、北部の大領地ミランド領を治める公までもが混ざっていたのだから結構なことだ。
彼は抜け目なく上位の貴族たちに近づき、宴席の挨拶をし、ついで自分がセルカ伯の姪と結婚が予定されていること、今度の宴も忙しい身分ながらセルカ伯のためを思って無理に出席したことを語った。もちろん、自分がどれほどこのエステラゴ領次期領主候補のひとりであるクリスティアンに重用されているか、どれほど志が高い人物であるのか、その忙しさを語ることも忘れぬ。
「お飲み物はいかがですかしら」
「貰おう」
異国の扮装をした女から酒の器を受け取る。辛味の強い発泡ワイン。
これでそこそこに身分のある奴らからは自分がどれほど重要性のある人物なのか把握されたことだろう。ベルガミン卿は満足の吐息をついた。
もちろん、いろいろと考えていそうな領外の貴族に――秘密の共有ができそうだと踏んだならば――ビジネスの持ちかけをするのも忘れない。
島へ来たのは正解だった。酒を啜りながら彼は思う。
まさかこんな成功の種が転がっているとは。
父の領内でのちょっとしたロマンスの失敗が後を引き、罪に問われるほどの相手でもなし、慰謝料程度で済んだものの本土に居づらくなり、これ幸いと誘いに乗って代治に名乗りを上げた。
なにか甘い思いを出来ないか、とは思っていたのだ。
そうでなくてはやっていられない。
そんな折、領主代行の親しい取り巻きで、前から懇意にしていた若い貴族の一人が彼を含む遊び仲間たちを魔力切れの術式付与品の買い入れに伴った。そのときにこの小遣い稼ぎを思いついたのだ。
今の生活は上々だった。そして、そう遠くないうちにアル・ラウア伯の娘との婚約がなればもっと人目をはばからずにあの場所に関わる事ができるようになる。そうすれば入ってくる金も今の比ではない。
ブラスはちらりと部屋の半ばでセルカ伯の娘と会話している、そのうち自分のものになるはずの娘を見た。
セルカ伯の姻戚になるうえに素晴らしい領地。あれ自身も素晴らしいおまけだ。婚約さえ定まってしまえばうちうちに披露目をして、その後のことを早めてしまうことだって出来ないわけではない。
真ん中で2つに分け左右で膨らめて結った亜麻色の髪がかかる顔。髪型も顔もまだ幼くあどけないが、ドレスに包まれた肢体は十分まろみを帯び、自分の価値に気づくにもそう遠いことではあるまい。
しかし、まだ充分彼の好みに合致して楽しめそうだ。出来るなら早いほうがいい。
この先に待つさまざまな楽しみを思うだけで笑いが漏れるようだった。酒気も手伝って気分が高揚する。
壁際に作った楽師たちの席から、ぴいんと調弦の音が響く。
歌われだしたのはエキゾチックな旋律に乗せた古い時代の滑稽歌だ。主旋律を歌いだした男の声に甘えるような女の歌声が被る。
……とおい とおい 神話の頃、神々の野辺はとりどりの花に満ち、ミソサザイの姫君が……
「お酒が空いていますけれど、おかわりはいかがですか?」
歌う声よりまだ甘い、花蜜めいた澄んだ声が耳を打った。
振り向けば、そこには黒髪の娘が立っていた。
鋭く薄く研いだ鑿で形作った彫刻を思わせる肉の薄い体躯。掴めば折れそうな腕。
グリスターン風の衣装からのぞく、ミルクを凝らせたような、触れたら冷たそうな、指の形に溶けそうな肌。華奢な首。鎖骨の影。筋肉の在り処も見えぬ、しかし薄くなめらかな腹。
ほう、と凝視した目に、薄布の向こうから無邪気に媚びたような表情で見上げてくる。
「貰おうか。いやあこの間ぶりだね。」
「お元気でしたでしょうか。この間はすみません。お仕事中でしたから……。」
娘は酒を載せた小卓まで駆け寄ると、酒のグラスを一つ両手で抱えて持ってくる。
受け取る際にグラスごと手を包んでやると、恥ずかしげに目をそらした。
「ははは、いや、なに、仕方ないさ。」
「ありがとうございます、お気持ちを損ねてしまったんじゃないかと、私、心配で……」
「はははは、私もそこまで心が狭い男じゃあないとも。」
彼はついと目を伏せた娘の肩に手を添える。思ったとおりひやりと冷たくて、酔いの熱を持った手に快かった。
伏せた目が上がり、布越しに上目遣いに見上げられる。瞬いてちりぢりに逸らされた視線を追うと、恥ずかしげに、肩に添えた手を握って引き離される。
指先に向かって滑るように抜かれた手が爪に触れるあいだほど逡巡して、それからふわりと離れていく。
ああ、ああ、これは素晴らしいぞ!
ブラスは、頬が勝手に上がっていくことを自覚していた。
くけーーーー。
スサーナは奇声を上げそうな気分を必死にこらえていた。
――大丈夫、大丈夫、できてる私!
手順通り。これは手順通りだ。
程よくそれっぽく、かつ合意の言質を取られない程度の物言いをして、程よいところで移動、それが課せられたミッション第一である。
――女児に無差別に声を掛ける系変態ですし、暗いし、なんだか文化基準だと思い切った服みたいですし、結構酔って気が大きくなってるみたいですし、私でもいける!はず!
慣れない媚を売るのもベタベタ触られるイヤ感もさることながら、最大の懸念はなんとなく二方向から感じる剣呑な視線だ。
――マリアネラ様もレティシア様も、レミヒオくんも、途中で我慢できないで出てきちゃったりしないでくださいね!!!
手を握られたり肩を抱かれたりするたびになんというか殺気に近い感覚が視線の隅の二方向から漂う。自分たちで計画したのに本末転倒もいいところだ。
――さすがにチューされたらだいぶイヤですけど、このぐらいならまあ覚悟の範囲。大人ですからね私!! この程度なんてことはない!! さすがにマリアネラ様にはさせられませんけど!
男性に足を見せられない文化圏よりもずっとそっち方面で先進性のあるあたりに住んでいたのだ。いけるいける、そう念じてスサーナは一歩、肩を寄せるようにしながら微笑んだ。
少し興奮を鎮めようと彼が口にした酒は割らない葡萄酒にたっぷりと蜂蜜を入れたものだった。
喉に甘く、わずかに振った香辛料が舌に刺激を残していく。
「――そういえば――」
幼い甘い声が投げかけられる。
「わたし、ベルガミン卿さまとお話をしてみたかったんです」
「んんー、なんだね? ブラスと呼んでくれて構わんよ」
「では、ブラスさま」
娘がとっ、と彼の側に踏み寄ってくる。二の腕に頬が擦り付けられそうなほどに近づけられて、反射的にとらえようとしたその時、あっ、という声とともにしゃがみこんだ。
腕の外側を顔布がふわりとかすめていく。
「ああ、切れてしまった」
子供らしい仕草で、なんの恥じらいも伴わないというふうに娘は履き物の裾を引き上げる。しろい足首が晒され、そこに絡んでいたものを指に絡めてしゅっと引き、持ち上げた。
それは光沢のある幅細の布で、技巧的な蝶結びにしたその横あたりがふつりと切れているようだった。銀色の鈴が一つ通されていて、ちりちりと微かな音をさせている。
拗ねたような上目遣いでこちらを見上げると、頭を揺らして立ち上がり、切れた細帯を細い手首にくるくると巻いた。
否が応にも、それが足首に巻かれているさまを連想してしまう仕草で、でありながら幼くぞんざい。
色めいているのか天真爛漫なのかわからぬ様子だった。
ブラスはごくりと喉を鳴らす。
そんな事も知らぬげに娘は何事もなかったかのように声を上げた。
「ブラスさまが、なにか、素敵なものをお売りになっておられると聞いたんです。」
「ああ、うむ――」
「わたし、今、セルカ伯様に雇っていただいていますけど、別の方にもお仕えすることがあって……その方が、便利なものがほしいと」
密やかな囁きだった。
なるほど、とブラスは思う。
期間ぎめの召使いというのは珍しいものではない。誰かに雇われたまま短い期間別の誰かに短期雇いされるようなものも、褒められたものではないが時折いる。とくに容姿望みで主人の側近くに雇われるようなもののうちにはそうして何重にも主を持ち小遣いを稼ぐようなものもいる。
この娘もそうやって日銭を稼いでいるのだろう。
「それで……奥様が、聞いておいでなさい、と仰って――」
奥様。女主人か――
言葉から生まれたあられもない想像が打ち消される。
娘が上目遣いでこちらを伺った。
幼く物を知らぬげとも、奇妙に艶めかしいとも思われた。
「なるほど、もちろん話すのは構わないとも。ただ――ここで話すのはね。」
「ええ! では、奥にお部屋があるそうなんです。難しいお話をされるときにはそちらを使うようにと、旦那様《セルカ伯》が――」
「ああ、わかるとも。それじゃあ――行こうか」
娘が笑みをこぼす。あどけない満面の笑みだった。
ブラスは我知らずもう一度唾を飲み込み、娘の腕をとった。
スサーナはそっとポケットの中のものを確認する。角材で出来た押し式警報機と、魔術式を書き込んだだけのハンカチ。
大丈夫、うまくやれる。
壁際では楽師たちが滑稽な掛け合いを歌い、うるわしのミソサザイの姫君が大きな熊を騙して大きな川に丸太橋をかけようというパートにさしかかりだしていた。