第66話 異しきもの波間より来たり 7
塔の諸島には魔獣はいない。
それは、魔術師たちが結界を張り巡らせているためだ。
諸島の人間なら幼い子供でもなんとなく知っている事柄。
もちろん、それを知っていてもずっと島々から出ず暮らしていく島人たちにとっては魔獣と言われても悪霊と言われてもピンとこないものがほとんどで、普段は恩恵を感じることは少ないのだが。
「魔獣なんて島にいるはずないんです、だって、魔術師さんたちが守ってくださっているから……。これまで見たこともないし、ここの村だって、ああいうのが普段いるようには見えない……」
目元をこわばらせて話すスサーナの言葉を聞きながら、ヨティスは岩から掻き取った石片を指に挟んで鋭く投げる。
シッと音を立てて石の欠片がヨドミハイの目ではぜ、じりじりと岩を登りかけていた数体の個体が側面から転げ落ちた。
「魔獣がまったくいない場所がある、というのも僕にはいまいち実感がありませんが……。そうは言っても、僕らは実際今追われている。月……魔術師のする事にも抜けがあるということでは? 」
ヨティスはほのかに怪訝そうな顔をする。確かにこの二年、魔獣の話を聞くこともなかったが、魔獣が居る、ということがそんなにショックを覚えることだ、という実感がない。
なにより、実際こうして囲まれている事実がそれで否定できるというものでも――
「それより、なんとか息が整ったら、僕があいつらを撹乱して動きを遅らせながら行くので。スサーナさんはそのすきに先に村まで走って――」
「いえ、えっと、これまではいなかったと思うんです、だって、村のつくりがそんなふうになってないんです、だから」
一匹二匹ならまだそういうこともあるかと違和感はなかった。でも、こんな数のけだもの……魔獣がいる場所の作りには思えない。
スサーナはひゅうっと息を呑みこんだ。
「もし村まで逃げられたとしても、大人にもどうしようもないんじゃないかって」
「……! なるほど、対処できる用意がない、と?」
血の気の引いた青白い頬でヨティスを見上げた少女は、その言葉にうなずいてみせた。
ガルデーニャ島にいる肉食動物は、大きいものでもせいぜい山猫か、穴熊という程度だ。そんな環境では害獣に対処するための武具などもほとんど用意されていない。
だいいちに村を囲む囲いすらないのだ。
「それだけじゃなくって、アレが最近、そう、たとえば、たとえばですよ。……今日、来たんだとしたら。……これまであんなにいなかったと思うんです、けだものが出てるとは村で聞きましたけど、大きな被害が出てるふうじゃなかった。……あれだけの数どこかから来ているなら他にも来ているかもしれないですよね?他にもいて、他にもいっぱいいて、今あそこにいるのは先に私達を見つけたからここにいますけど、先に村の人に気づいた魔獣がいたら? それが村に行ったとしたら――」
「それは――」
明らかに大惨事だ。
それなりにどこでも魔獣に備えている本土の村でも、老人と子供ばかりなど、対処しきれなかったような場所は、時折魔獣に食い滅ぼされることがある。
それが、ろくに囲いもなく、武具の備えもなく、家々の作りも華奢なこの場所なら、ヨドミハイたちにとっては餌の詰まった餌箱と同義だろう。
「だっ、だから、アレを村に連れて行ったらまずいと思うんです。……それで、それ、で。ああいうのが居るって、すぐ知らせなくっちゃいけないとも思います。」
「それは……そうですが。」
ヨティスは眉をしかめる。
自分たちが村に向かう、というのとヨドミハイたちが村に近づく、というのは明らかに同義だ。
そうでない手段を、といえば、朝まで岩の上で粘って強い光を嫌うヨドミハイたちが諦めるのを待つ、それから村に戻る……というのがヨティスの想定した次善の策であるが、彼女の想像したように村も危ない、というならたしかにそうして朝まで待って村に戻ったところで、酸鼻な光景を見る羽目になるかもしれない。
ついでに言えば、一旦大量の獲物の血に酔ったなら、普段どれだけ光を嫌おうと、興奮しきった魔獣がねぐらに戻らずに狩りを続けようとする、というのも有り得る話だ。
だから、『もっと沢山の魔獣が数日内に島に入ってきた、その第一波と出会っている』という想定で行動するなら、すぐに、魔獣たちに追われずに村に戻る、という手段が必要、だということになるのだが。
「でも、どうやって……」
「その、手分けしましょう! レミヒオくんのほうが絶対足が速いですし、長い距離走れますよね? えっと、それで、私もちょっとなら、ギリギリあれに追いつかれないぐらいには走れそうなので、私があいつらをひきつけてですね、ぐるっと走ってまたこの上に登るので、その間に村に走ってもらうってどうでしょう!」
「いやいやいやいや。」
ヨティスは、スサーナがいかにも名案、という様子で……頬を強張らせて、明らかに作った熱血めいた表情で言ってくるのを手を振って否定する。
「流石にそれは駄目ですよ、駄目です。」
「いい考えだと思ったんですけど」
「転びでもしただけで大惨事でしょう!」
強めに否定して、不満そうながら黙ったスサーナを横目にヨティスは目まぐるしく思案する。
――手分けをするしか無いとして、村に行かせるなら彼女のほうだ。安全の度合いでいうとそちらのほうがまだ高い。ただし、村が襲われていなければ。
しかし、魔獣への対処を求められれば、この場所で対処できるのは……術式付与品の武具か。誤作動術式が露見したら面倒だ。野心が強かったり愚かだったりする奴らなら術式付与品を隠蔽することを優先するだろうが、セルカ伯は善人とは言わないが公意識が強い人物だ。きっと公表して武具を使わせる。
ああ、それに、術式付与品の存在が内外に明らかになったら……流石におおっぴらに使ってしまえば明らかになるだろう、事態が大きく動いてしまう。そうなると得もある気はするが、外と足並みをそろえるのに一苦労だ。
やれやれ、ただターゲットの息の根を止めて終わりならばどれだけ楽だろう。ヨティスは思う。
盤面の一手だなんだと面倒な手順が多すぎるのだ。策を立てる奴らは貴族同士がどう動くかということばかりを考えて、不測の事態を想像していないとしか思えない。
ああしかしそんなことより今は目の前の事態だ。確かどっちかが囮になるのが一番マシな手段だろう。そして当然囮になるなら自分しかいない。
マシだが、安全な手段ではない。ちょっとばかり撹乱するだけならともかく、片腕であの数の魔獣に囲まれるのはどう考えても自殺行為だし、少女一人で夜道を走らせるのだって、途中何が起きても自分は担保できない。
ああまったく、何故自分は直接の任務以外で死亡の可能性を上げにかかっているんだろう。
両腕が思うように動けばあの数がいても取れる手段はだいぶ違った。そうしたらこんな思案などはとりあえずしなくて済んだものを、己の間の悪さが恨めしい。
腕が動けば。
腕の刺繍に魔力を通せれば。
刺繍が灼き切れていなければ。
ヨティスは歯噛みして、己の腕に意識を向ける。幾度も糸に魔力を通そうとして、そのたびに霧散する感覚に苛立つ。
補修は一度でいい。それで十分だ。せめてここに誰か同族がいれば――
――ん?
「スサーナさん」
目下の怪物たちを唇を噛んで見下ろしていたスサーナは、なにか思案をしていたらしい少年の声に横を向いた。
彼はまた数欠片の石でじわじわと岩を登っていていたヨドミハイを落とし、それからもたもたと左手の親指と人差指を袖に沈めて、袖のボタンを外した。
「少し、頼みたいことがあるんです。……これ、見えますか?」
左の袖口を噛んで、肘まで袖を引き上げる。
スサーナの目にはそれは紅い入れ墨のように見えた。
「えっと……見える……入れ墨のこと、ですか?腕を巻くみたいに、紅い模様があるのが見えます……けど……」
「見えるんですね。じゃあ、もっとよく見て。……糸みたいに見えませんか?」
ヨティスの視界で、腕に顔を近づけた少女がひとつ瞬く。氏族の娘たちにも珍しい、虹彩と瞳孔の区別が付きづらいほどに黒い瞳。
「あれ? えっ、糸……だ? えっ、えっえっ、なにこれ! 肌に!糸が!」
「うん、上出来だ。」
泡を食って顔を離し、なんだかよっぽど信じがたいものを見たようにうわーっと騒ぐスサーナを見て、ヨティスは満足げにうなずいた。
「い、痛くないんですか!?」
「痛くないですよ。」
「腫れたりとかしません!?」
「入れてすぐは、少し。」
答えながらまたヨドミハイたちを撃ち落とす。
「頼みというのは――」
ヨティスは一通り岩面からヨドミハイを落とし、石を置いて、それから右腕を固定したハンカチを取り外す。それから左腕一本で上着を脱ぎ捨てた。
成熟しきらないすんなりとした上体があらわになる。
一瞬の後、その体の表面にじわりと赤色が浮き出し、獣の姿を形作る。
赤い獣のかたちに彩られた上半身の中で、だらりと垂れた右腕の半ば、獣の腕がふつりと一部途切れている。
「この、右の糸。縫い直してもらえませんか?」
「えっ、えっ?」
スサーナは微妙に事態を把握できず、あっけにとられて固まった。