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第58話 くちなし島へ 7

 レミヒオ(ヨティス)は甲板に上がり、あたりを見回した。

 暗い波の立つ海。夜空をちぎれた雲がどんどんと流れていく。

 帆は既にほぼ降ろされており、甲板をせわしなく船員たちが駆け回っている。


 妙な嵐だ。

 この季節に吹くにはふさわしくない方角と、ふさわしくない強さの風。

 内海に秋の終わりに訪れる、驟雨を伴う強い北風よりも強い、湿り気を伴った西風。

 奇妙に生暖かい風に晒された頬の産毛がぺったりと肌に張り付くようで、レミヒオは我知らず頬を荒く拭った。


 少年は何かを探ろうとしているかのように目を細め、海上を見つめる。


 息を詰める。彫像のように動きを止める。

 髪と着衣が風に吹き乱されて強く頬を叩き、風をはらんでも彼自身は根が生えたようにぴくりとも動かない。

 極度の緊張を示したように僅かに震える長い睫毛だけが彼が生きているものだということを示しているようだった。


 たっぷり30数えるほどの時間そうしてから、彼は小さく身じろぎし、僅かに開いた唇の隙間から低く深い息をついて――


「うわぁ、まるで・・・・(たいふう)の前みたい」


 後ろから響いた声にビクッと小さく飛び上がり、慌てて後ろを振り向いた。


「スサーナさん」

「えっと、甲板は危ないと思いますよ」


 上り階段からちょこんと首をのぞかせた小柄な少女は、揺れる船に振り回されながらひょこひょこと階段を登ってくる。

 ばさばさと吹き散らされる髪とスカートの裾をうっとおしそうに押さえながらととと、とレミヒオに歩み寄って、目前であぶなっかしく止まった。


「同じ言葉を返させてもらいます。スサーナさんこそ、どうしてこんなところに?」


 こんな気候の甲板の上になど出るものではない。それがなんの心得もない小娘ならなおさらのこと。レミヒオは寄ってきたスサーナの肩を軽く押して階段下に戻そうとした。


「レミヒオさんがこっちに来るのを見かけまして。どうしたんですか? レミヒオさんも船酔いです? ちょっと新しい空気を吸うのにはタイミングが悪いかなって、 ……あ、甲板のトイレは使用禁止らしいですよ!」


 レミヒオの動きにつれて階段脇まで戻ったスサーナだったが、階段下におとなしく戻っていこうとはせず、ひょっくりと首を伸ばしてヘッド(トイレ)の方を指さした。レミヒオは苦笑する。


「……レミヒオで構いません。……トイレに用があるわけじゃなくて、ずいぶん揺れるので、風の様子を見に。」

「あっうーん、じゃあ、レミヒオくん、……で、どうでしょう!  こほん。ということはレミヒオくんはえーと、風とかお詳しいんですか?」


 なにがどうでしょう!なのか、とてもいいことを思いついたと言ったふうな顔で提案してくる少女に彼はすこし戸惑い、曖昧にうなずいた後に質問に同意した。


「あっ、ええ、はい。……風は、すこし読めます。それなりに、ですが。」

「そうですか! すごい!」


 何が嬉しいのか、ぱっと表情を明るくして問いかけてくる。


「ええっと、じゃあ、この風が後どのぐらい続きそうか予測とかってつくんでしょうか。 マリアネラ様が潰れちゃっておかわいそうで。そちらもレティシア様と奥様が酔って大変なんですよね?」

「すみません、詳しいことまでは……。ただ、明日の朝までは続かないんじゃないかとは思います。」


 レミヒオは少し考えてから返答する。この言い方には多少欺瞞があったが、わざわざ説明するようなことでもない。


「うええ。朝って言ってもいまからだと長いですよね……」


 眉を落として大げさに脱力しかけた少女が船の揺れにおっと、とたたらを踏むのを抱きとめて捕まえる。

胸で弾んだ彼女の体躯は細く、とても軽い気がした。服に焚きしめた虫除けのローズマリーの香りが鼻に残る。


「わわわ、す、すみません!!」

「うん、気をつけて。」


これだけ軽いとちょっとした揺れや風でも海にとられるんじゃないか、と彼はそっと危惧して、広くなった階段の一段目に下ろして腕から放してやる。


「スサーナさんは甲板には用事はないんですね? 危ないですから下に戻りませんか」

「あっ、はい。そうですね。甲板というよりレミヒオさ……くんに用事がありまして!」

「僕に、ですか?」

「はい、ええとですね。なんていいますか……えー、こう、悪巧みといいますか……協力者を求めているといいますか……」


スサーナは全身でぐるりと回れ右をして、階下の廊下をしばらく注視したようだった。


「本当に本当に秘密で、他言無用なんですけど」


口の前に指を持ってきて、しーっと息を漏らすような声をたてる。

レミヒオは見慣れない仕草になんとなく追随して、しーっと真似をした。

どうやらそれで相手は満足したらしく、ええ、秘密なんです、と一つ頷いてぐっと顔を近づけてくる。

どうやらそれは秘密!ということを示すゼスチュアであったらしい。島の風習だろうか、と思う。


「絶対誰にも仰らないでくださいね」

「ああ。うん。ええ。」


ぴんぴんとひげを立てた仔猫みたいだ、と彼はなんとなく思った。


「えー、えっと、おかしなことを聞くようですけど、レティシア様のことってどう思われてます?」


 軽く腕を捕まえていた相手が妙に深刻そうに勢い込み、反対に自分の袖をぐっと捕まえてくるのにレミヒオは少したじろいだ。


「ご主人様のお嬢様で、僕にもよく目をかけてくださる――」

「あっえっとそういうのではなくて、えーと! 恋愛とか的に!」

「えっ?」


 レミヒオが疑問の声を上げて目を瞬いてみせると、スサーナははっと何かに気づいたように慌て、腕を離して後ずさった。


「あっ別に! 私がどうとかいうことではなくて! 話せば長いことながらですね」


 マリアネラが妙な試みをはじめたことには気づいていたし、どうやらその関係だろうなと言うことは一応想像はついたのだが。

 あわあわとなんだか必死に弁解を始めるのがなんとなく微笑ましく面白い。

 レミヒオはわざわざ訂正せず、そのままにしておくことにした。





 二人が会話している船室への階段のそばにはメインマストへ続くルートがあり、時折水夫たちが通っていく。

 波の揺れは大きいながら先程から操舵はあるていど安定しており、波の打ち上げもほぼない。緊張感を持って行き交っていた水夫たちの間にも少し余裕のある雰囲気が戻り始めた。



(痴話喧嘩か? こんなとこで)


 見習い水夫のペップはほっとした浮かれ気分のまま、階段のところで話している召使いらしい若い船客二人に近づこうとした。


 揺れが酷いときには甲板の鈎に腰ベルトから伸ばした革紐をかけることになっているが、ちょうどよく盗み聞きできる距離に彼らの死角から近づくためには鎖に繋がれた犬みたいに革紐が邪魔だった。

 揺れが酷くさえなければ甲板にぴんと縦横に張り巡らされた命綱ライフラインさえあればなんということはないのだ。第一、熟練の水夫たちは命綱を握るだけで立ち働くものの方が多かった。


 ペップは16になったばかりで、これが三度目の航海。だんだん海上に慣れ、娯楽に飢えていた。

 革紐の輪を鈎から抜き、抜き足差し足で階段の周りを大きく回るように二人の船客に近づいた。


「…… ――でしてその! マリアネラ様が心を痛めていまして、それでレミ……くんが――」


 まだよく聞こえない。

 あまり近づきすぎては警戒されてしまうだろうか。諦めて仕事に戻ろうかとも思ったが、なにやら頬を染めて熱弁している娘は幼い造作ながらはっとするような美しさの萌芽と胸苦しいような愛らしさを備えているように見え、だいぶペップ好みだった。


(だいぶガキだが、後3年……いや、2年でも。アレで金髪なら申し分ねえなあ。なんだい、あんなに熱心に口説かせてんのか? それとも別れ話)


 昼間なにやらお貴族様の道楽で召使いの髪を染めさせただのなんだの小耳に挟んだ。ペップにはよくわからない趣味だと思ったが、なるほど余計好みの容姿にできるということならわからないでもない。ペップがするならばスタンダードな金髪にするところだが。もちろんあの娘なら染めナシの茶色でも濃い赤毛でも悪くないだろう。


(聞こえねぇなあ……色めいた話かね?だろうなあ、こんなところにわざわざ来て話してんだ、下じゃあできねえ話に決まってら)


 話の内容を聞きつけておいて水夫同士の酒の席で話せば、ちょっとした場を沸かせるつまみにもなろうし、空き時間にあの娘に話しかけるタネにもなるかもしれない。


 ペップはそろそろと船べりに手をついて彼らの横から話が聞こえる距離に回り込もうと試みる。

 風の音がうるさく、うっとおしかった。


 だから、彼はすっかり忘れていた。

 自分が低い手すりの船べりにいること。この揺れる船べりで腰紐がどこにも結ばれていないこと。


 白い波濤を蹴立てた大きな三角波が船の左舷で巻き起こった。

 うねりこむような大波は甲板になだれ込むには不十分だったが、船底を海の奥に引き込み、大きく船を動揺させるには十分だった。



 大きな揺れに、スサーナは階段の手すりを掴んでやりすごそうとして、直ぐ側で起こった悲鳴にはっと視線を向けた。


 水夫が一人、揺れに跳ね上げられて――


 ――あの人、落ちる!


 反射的に何も考えずにそちらに走る。肩で押しのけてしまったレミヒオが驚いたような顔をした気がして、申し訳ない、という思考が脳の隅を一瞬走った。


 水夫の指先が船べりに張ったライフラインにかかり、ぐっと綱がたわみ。

 勢いのせいで掴むことができず、そのまま滑って指が外れ、滞空するようにぶわりと船べりの向こうへ――


 スサーナは、命綱が稼いだその僅かな時間に、全身で飛びつくようにしてがむしゃらに水夫の腰紐に手を伸ばし、掴んだ。


「馬鹿!」


 レミヒオの焦ったような強い声が響く。


 ――えっ?

 濡れた甲板に足が滑る。腕が抜けるような衝撃は一瞬で、足の裏の床の感触が消える。

 ――あっ、そうか。体重、勢い。そうか、落ちる。

 無情に体が手すりの上を超える。

 勢いよく自由落下。

 スサーナの目には凍りついたような表情でおおきく口を開けてなにか叫んだままの顔の若い水夫と、どんどん近づいてくる波を立てた鉛色の水が見えた。

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