第44話 スサーナうみへいく 4
魔術師はまず祠の中に向かった。
スサーナが息を詰めてわくわく見守っていると、鉄筆を取り上げて奥の柔石の板にガリガリと何かをサインする。
――な、なんでしょう。何が起こるんでしょう!?
「……目を輝かせている所悪いが、当番表だ。」
――そんな非神秘的な!?
そこは完全にアナログなんですね。スサーナはがっかりした。
がっくり肩を落とすスサーナを一瞥した魔術師は、祠の中央に置かれた石版に指をかざし、動かすと、石版に何らかの図形が白く浮かび上がる。
――あっ神秘!
一転、ぱっと目を輝かせたスサーナを見て、魔術師は少しなにか思い出しそうで思案した挙げ句、袋をがさがさやると寄ってくる猫の仔だという結論に辿り着き、合点したことをスサーナは知る由もない。
祠から出て、法面に穿たれた洞に入る。ちょっと後ろの方でまごまごした子供がおそるおそる一歩中に踏み込んで、止められまいかこちらを一旦伺ったのを察して、魔術師は一つ息をつき、足を止めて待った。
「着いてくるつもりなら距離を開けてはいけない。」
「はっ、はいっ!」
ぴゃーっと駆け寄ってくるのを確認して先に進む。
「先程の術式はここの扉のようなもので、私が出れば閉まる。勝手に閉じ込められでもしたら迷惑だ。」
「き、気をつけます!」
スサーナは『入っても何も出来ない』とはそういうことかと納得する。魔術で扉か何かがあるというなら、普通の人がなにかしようとしたところで突破できまい。
ゆるゆると下る形の通路を歩く。上側はトンネルアーチ状に掘って、それを漆喰で抑えてあるように見えるが、下側は綺麗な石畳になっている。数メートル置きに吊るされている丸いガラスに封入されたチラつかない光。電球を思い出すが、きっと魔術の明かりなのだろう。
直ぐ側に井戸があったり海の側だったりするのに地下水の一滴も溢れていないので、場所全体がなんらかの魔術の影響下にあるのかも知れない。
さらに進むと、その先は卵状の空間になっている。
壁が薄くクリーム状に発光していて、本当に卵の中から光を透かしているようだ。
空間の中央には小さな台座と、その上に水盤があり、水を湛えている。
スサーナは契約式の部屋のことを思い出してちょっとたじろいだ。
首を伸ばして中を覗き込んでいると、魔術師がすっと卵状の部屋の中に入っていく。
「そこにいなさい。……先に戻るぶんにはなんの問題もないから、戻っていてもいい。」
スサーナはありがたく入り口から眺めていることにした。
丸い空間の中央に立った魔術師が高く指を上げて空間に白い軌跡を描いていく。
それに対応するように丸い天頂から光の濃淡でびっしりと図形が浮かび上がり、足元まで一面に埋める。
――魔法陣だ。
円形を多用した模様と記号、スサーナには読めない文字の文章で構成されたそれは、魔法陣か、でなければ天球図の類のように見えた。
こちらでこんなにいかにも魔法!という感じで映像映えするビジュアルの魔法を見たのは初めてではないだろうか。スサーナは静かに感嘆する。
魔術師が目を細める。まるで水に沈めた油滴のように彼からいくつも光の粒子が上がり、それから一瞬遅れて卵状の空間内一面に金粉をぶち撒けたかのように光が満ちて、一瞬強く輝いて、そして消えた。
――よ、よくわからないけどすごいものを見た気がする……
かつてエウメリアに見せられた漂泊民の魔法よりもビジュアル的な抽象度は高いものの、なにかすごいことが起こっている、と言う確信めいた感覚は劣らぬものだった。
あまりに光が強かったせいか、目がチカチカする。スサーナはぎゅーっと目を強くつぶってまた開いた。
確か魔力を込めると言っていた。これで儀式は終わりだろうか? スサーナは問いかけようとしながら魔術師に視線を戻した。
魔術師が大きくよろめいて倒れかかるところだった。
魔力の抜けていく感覚。貧血によく似た脱力感とめまい、耳鳴り。平衡感覚の一時的喪失。
魔術師は白黒に単純化し、焦点と呼べるものが消え失せた視界を厭って目を凝らしかけ、結局無駄に抗うのを諦めることにした。
目を閉じて、水盤の台座に寄り掛かる。水盤の端を掴む。袖が水に浸かってじわりと冷たい。腕の筋肉もぐらぐらと芯を失ったようで、そう長くは支えにならないな、と苦笑する。
結界に魔力を込め直すだけで、根こそぎに近く魔力を持っていかれてしまう。
容量は多い方の彼であってもこの有様だ。
起点地には、魔力切れを起こした際に少しずつ取り込むために魔力を溜めやすい植物を地上に植えてはあるが、経口で取り込んだものを転換して一時しのぎにしようにも、口にした花の魔力など微々たる量。大樽に小匙で水を注ぐようなものだ。なにより魔力が底をついてしまっては吸収速度が追いつくはずもなく、こうなってしまうのは避けられない。
普段ならここまで尽きることはそう無く、残った魔力を回す始動用に摂った魔力を使う、小手先の対応ぐらいでなんとか運用できるのだが。
本土から来た貴族達が余計なことを色々始めてから結界の維持に掛かる魔力が格段に増えた、と報告があったが――
まさかここまでのことだとは思わなかった。ろくに活用もできぬくせに地脈から魔力を汲み出してでもいるのだろう。
そんな事をしたところで、魔術師ならぬ身で出来るのは、せいぜい込めた魔力が切れて動かなくなった術式付与品を動かすぐらいのことだけなのだが。
馬鹿共め。
魔術師は内心忌々しく舌打ちして、水盤を掴んだ右肘ががくっとバランスを失ったのを機に重力に逆らうのをやめることにした。
環境そのものから無尽蔵に魔力を受け取る鳥の民達と違い、身のうちに備えた霊脈から湧き出す魔力を扱う魔術師ではあるが、大きな魔力の流れである地脈の上に倒れ込んでおれば多少は魔力の戻りも早い。
難点は冷えて湿った床が不快なことと、多少打ち身ぐらいにはなるだろうこと。地面にぺったりと寝転がる様がどうにも無様で情けない、ということぐらいだった。
つまり、結局大した問題ではない。
頭だけは打たないように足から崩れて――
「ぷぎゃっ」
……ぷぎゃ?
なにか柔らかいものを下敷きにした気配がした。
魔術師が重い目蓋を短く上げると、小さな子供が体を支えて――支えてでもいるつもりなのだろうか、どちらかと言うと地面と身体の間に挟まっている、というような具合で涙目でぷるぷるしている。背筋に頼って肩と腕で身体を押し上げているような格好。座り込んではいるが上体は起こして大人の上半身を持ち上げているので立派なものだ。
そういえば見ていたのだったな。魔術師はちかちかする視界を再度遮断しつつ、一瞬失念しかけていた連れの子供のことを思い出した。急によろけたものだから驚かせたのだろう。顎だの肩だのがぶつかった様子はなくてよかった。顔に傷でも作っては忍びない。
「だ、大丈夫ですか!? なにかお加減が……」
「いや……少し魔力が足りないだけだ。離しなさい」
「魔力ですか? あっ……もしかして、花を食べるのを邪魔してちょっとしか食べられなかったから? ごめんなさい、えっと、あの、持ってきます、花!」
「不要だ。すこし倒れていれば癒える。貧血のようなものだ。……さあ、そこをどいて、君は先に戻りなさい。」
「で、ですけど!」
頑固な子供だ。魔術師は嘆息する。
再度の離すようにと言う言葉にも肯定はない。肩口あたりのローブが伸びそうな具合に握りしめられている。どうにも彼の上半身を支えた腕を離す気はないらしい。
……ああ、いや、ただ単にこれは体重がかかってしまっているせいで、抜け出るに抜け出せないのか。
子供のか細い、華奢な体躯を思い出して認識を改め、ゆっくりと数度呼吸する。
上半身を起こす。
子供にかけてしまった重心を離して、すぐに前のめりに倒れるつもりで身体を起こしたはずが、存外スムーズに身体を起こせてしまう。
目眩も無視できる範囲だ。
「――」
眉をひそめる。身体が軽い。
クリアな視界に、泣きそうな情けない顔をした黒髪の子供が映っていた。