皇后であった頃の悪女は、皇国の威に泥を塗り、自らは放蕩に酔いしれる 上
前編です
それから、わずか1週間後、皇国軍の捕虜と彌皇后、並びに宝軍務を乗せたブリム大帝国の船は、皇都の沖合まで進み、そこで錨を下ろした。
上陸用のボートに乗り換え、桟橋についた彌皇后を出迎えたのは、民草から向けられた非難の視線であった。だが、その視線と行為より、護るように配された、皇国兵とブリム大帝国の軍が、見守る中、彌皇后は、用意された馬車に乗り込み、皇宮へと戻った。
「これが……これが、皇宮?」
馬車から降りた。彌皇后が最初に発した言葉は、このような言葉だったと言われている。皇宮の中は嵐でもあったかのように荒らされて、貴重品や文化品のほとんどが、盗難または破損の憂き目を見ていた。あの日、アーサーとブライトンと会見を行った応接間も、めぼしい美術品は、消えてしまっていた。
そんな折、彌皇后は、自らに課せられた使命を果たすために、皇后としての衣装に自ら着替えた。朝宮へ向かう廊下は、雲一つない青空から、朝日が差し込み、かすかに埃の積もったその埃一つさえも照らし出そうとする、清々しい光に包まれていた。彌皇后は、お伴もなく、ただ一人で、その廊下を進み、自らの手で、朝宮の扉を開いた。
そこに待っていたのは、闘いに参加せず、皇宮でのうのうと過ごしていたくせに、彌皇后を嘲るような笑みを浮かべたジン皇国の貴族と、その表情からは何も読み取れないブリム大帝国の皇太子以下の面々だった。
ジン皇国の貴族は、この敗戦の責任を彌皇后に押し付けることで、自らの身の保証をブリム大帝国のに願い出る腹積もりだったと思われるが、ブリム大帝国の思惑は、彼らの思惑、それを読み切ったかのように大きく違っていた。
まず、総司令官であるアーサー皇太子と、彌皇后は、外交的な辞令の後に、停戦合意書にサインを行った。彌皇后にとっては、蒙皇王や、その権限の委任を受けるべき皇王子がいないため、ジン皇国の最高責任者としてサインをせざる負えなかった。
その後、今後のブリム大帝国とジン皇国の国交に関する覚書が交わされることになった。
その内容は、ジン皇国に大きく不利なもので、
一つ、ジン皇国内でのブリム大帝国内で行うありとあらえる、行為を妨げたり観察しないこと。
一つ、ジン皇国内において、ブリム大帝国が管理する町については、ジン皇国は税の徴収をおこわないこと。並びに領主などの設置を行わないこと。
一つ、ジン皇国が軍事的な物資の調達を行う際には、ブリム大帝国議会の決議が必要になること。
一つ、ジン皇国が行う国交に関する事務は、必ずブリム大帝国女帝の許可が必要になる。
と、まるで、ジン皇国を下流の敗残国として見下す内容になっていた。
「無礼な」と、憤った貴族たちに、アーサー皇太子は、次なる交渉に移ると述べ、麗辺に関する条約案を提示した。
それを見たとき、覚悟をしていた彌皇后はおろか、四務も他の貴族たちも一瞬絶句せざる負えなかった。
麗辺については、ブリム大帝国への永久租借地としてジン皇国は認定し、如何なる領土的な野心も抱かないこと。
上記の文が護られない場合は、宣戦布告無しに皇都攻撃を行う。また、この条約の締結を持って捕虜たちが家族の元に帰れるものとする。
と書かれていた。
それから、交渉はもめにもめた。
ブリム大帝国としては、そのすべてを飲むとは考えてはいないものの、軍事、国交に関する事項は外せず、また、麗辺については、一歩も譲ることのできない案件として強く交渉を行ってきた。
一方のジン皇国側は、ほとんどの上級役人たちが逃げ出し、最高責任者である蒙皇王も国外逃亡した今となっては、ブリム大帝国に抵抗する方法があるはずもなかった。
また、一方的な敗戦の直後で、現在の心もとない戦力と士気の上がらない兵士たちでは、ブリム大帝国へ一矢を報いることすらできず、捕虜となった兵力の解放が必要なのは、火を見るよりも明らかだった。
この間、彌皇后は一言も話すことなく、議論は、3日目に突入しようとしていた。
2日目の夜、議論を重ねる四務の元を、彌皇后は訪れた。そこでは、宝軍務が、一方的に他三務より責められていた。
「まず、陛下を説得するべきだったのだ。このような武力衝突に発展する行動は避けるべきと」
卓外務の声に、徐内務が頷いた。
「是に是に。敗戦を招いた責任を取るべきではありませんか?彌皇后と宝軍務で」
「国庫の状況は火の車です。あなた方はどうするつもりなのですか?」
宝軍務は、言い返せず悔しそうに、俯いていた。その肩に彌皇后が手を置いた。そこに来て、ようやく三務も、彌皇后が、部屋に入ってきたことに気が付いたようだった。
「皇后妃殿下……」
彌皇后は、そのまま、上座に進み、椅子に深く腰掛け、静かに深呼吸をした。
「勝敗は、兵家の常と申します。この度、力足りず負けたことは事実。これは受け止めざる負えません」
「こ、皇后妃殿下の責任を言っているわけでは……」
そう、徐内務が言葉を発したときに、宝軍務が、彌皇后に最大限の敬意を示したことに倣い、他三務も、彌皇后の顔を見た。そこには、決意と言うべきものがあった。
「ジン皇国を護り、民の安寧を願う。そのためならば、私はジン皇国の威信を穢したものとして、皆から誹り、侮られる悪女と歴史に残されることになろうと、この国の未来を願うのならば、これは、成し遂げなければならないことです」
「明日、条約の締結を迫られるでしょう。あなたたちの決断を今までの交渉のすべてを私は信じます。その努力が無にならないよう。せめて、私が矢面に立ちましょう」
まだ、このとき皇后妃殿下は17歳にもなっていなかった。そのような小娘と侮られても仕方のない時に、このような重い決断と、自らの未来を閉ざすような判断も辞さない思いとそれを行う意志の強さに、四務は驚くと同時に、宝軍務に敗戦の責任全てを負わせようとした、自らの不明を悔い、再び四務として、ジン皇国の再興を行おうと、彌皇后に臣下としての礼を取った。
次の日、会見の場に現れたアーサー皇太子とブライトン卿を出迎えたのは、彌皇后であった。今まで、発言がないことで状況に呑まれていると思っていたが、彌皇后は、昨日の昼案を持って、最終の合意とするのはいかがかと、発言してきた。
昨日の昼案は、麗辺における、ブリム大帝国への全権委任、並びに、麗辺に対するジン皇国の徴税権の放棄。
その代わりとして、ジン皇国の内政に関する不干渉を行う。
という、リーベ以外については、ブリム大帝国の行動を縛るものだった。それを聞いたとき、アーサーは、不承不承と、表情を浮かべていた。
「一つ、条件を着けさせてほしい」
アーサーはそう言うと、とんでもないことを言い始めた。
「ジン皇国の内務、外交、財務については、確かに貴国の言い分も当然である。しかし、貴国は、水軍に海賊まがいのことをさせ、我が大帝国を疲弊させようと試みた。
今回の自体を招いたのは貴国自身である。故に、貴国の態度について、述べさせていただく。
今後、軍船の購入、軍備の拡大などにつながる行動を行った場合、麗辺を攻める意図ありとして、容赦なく、貴国の歴史に終止符を打たせてもらう。その時には、彌皇后、並びに国外に逃亡している蒙皇王の命はないものと思ってほしい」
あまりに、こちらを低く見る提案であったが、彌皇后も、それに黙ってはいなかった。
「戦火をのぞむのが、貴国の望む本筋ではないことは十分に理解をしております。しかし、今は、今回の戦闘にて、捕虜となっている者たちを家族の元に還すことこそが、最も重要な決断と考えております。多くの民の上に立っている、ブリム大帝国のアーサー皇子ならば、民を慈しむ心を持ち合わせている。と、わたくしは信じております。」
そう言うと、彌皇后は、アーサー皇子をじっと見つめた。長い時間が過ぎたような、そんな感覚をその場のすべてのものが、感じた。先に、口を開いたのは、アーサー皇子であった。
「彌皇后の慈愛の心には、十分に痛み入る。民に対しては、こちらも配慮を行おう」
「配慮をいただきありがとうございます。」
「だが、一つだけ言わせてもらう。自らの命一つで賄えるほど安いことは、言わぬぞ」
「ええ、それについては、重々にわかっております」
昼までかかった交渉の文書がまとめられ、翌朝に締結された。ジン皇国にとって、大きく不平等な状況でありながら、皇都が戦火に巻き込まれることは、今回は避けられたのであった。