皇后だった悪女は、皇国に害為したる、悪辣な行為に思いを馳せる
「彌皇后妃殿下、今なら、逃げることもたやすいです」
彌皇后と呼ばれた女性は、その言葉に首を振った。目の前の扉を開ければもう、後戻りはできない。その先には、自分を断罪する舞台が整っていると知っても、それから逃げることはできなかった。
でなければ、あの時に立てた、誓いを破ってしまいそうだったから。
「そのような悲壮な顔をしないでください。」
少し顔を歪めている彌皇后を案じるように、もう一人の女官が声をかけた。
「あら、ごめんなさい、恵良。こんなときどんな顔をすればいいのかわからないの。」
彌皇后が、困ったような笑みを浮かべると、恵良は、それよりもよほど困った表情を浮かべた。
「亜紗は、いまや、国を立て直した押しも押されぬ大人物。と、女帝閣下も、首相様も、太鼓判を押していたじゃないですか。」
「ただね、それはそれよ。皇国には、皇国としての在り方、やり方があるっていうことはよくわかっているわ。ここまで走ってこれたのは、皆の力添えがあったから。私の力なんて微の微よ」
彌皇后は、そう言うと、恵良に品のある笑顔を向けた。
「もし、私が皇后ではなくなって、ただのアーシャになったとしても、恵良、と、梁は、会いに来てくれるかしら?」
話題を振られた二人は黙りながらも微笑んで、手を動かすことにした。短くなった彌皇后の髪を整え、荒れた肌が少しでもきれいに見えるように、ほんのりと化粧を施した。本当に久しぶりに彌皇后にこの国の化粧を施すことができた。流石に皇后としての化粧は施せないものの、内から輝くような亜紗にぴったりの化粧だった。
「では、彌皇后」
「ええ、ありがとう二人とも。もし、何かあったら、常海の宝石商を尋ねて。アーシャの名前を出してもらってもいいわ」
「……お元気で」
「あなたたちもね」
彌皇后は、恵良と梁を、愛おしそうに抱きとめ、そのまま、扉を開いた。扉の外で待っていた近衛と視線が一瞬だけ合うと、近衛は、すっと力強く頷いた。
扉の閉まる音を聞き、恵良と梁は、どちらともなく頷いた。
「で、恵良は、どうするの?」
「私は、2週間くらいしてから、行こうと思っているわ」
「わたしは、一応、卑族扱いなので、亜紗が、無事に追放されたら、さっさとお暇するわ。長たる父親とも話をしておかないといけないし、可能であれば、ブリム大帝国でもう少し学びたいわ」
「本当に、梁は勉強熱心ね。楊水督も元気にしているの?」
「やめてよ。水督なんて言ったら、本人照れるわよ。それに、たぶん明日には、私の父、河賊の楊に逆戻りよ。でも、後悔はしていないと思うわ」
一か月前に、楊水督の解任式が執り行われた。万が一、水督に害を為そうとするものがいる場合でも、与えた位がその足を引っ張らないようにと、亜紗が無理を言って、解任を行った。その他にも、国内で発生するであろう、排他的な運動により、危険が生じる可能性がある者たちを、解任、もしくは、入国禁止処置を取った。
二人は、亜紗の身を案じながら、その部屋の片づけに取り掛かった。
亜紗は、朝堂へ近衛の後に続いて歩いていた。ここを通るのも、これで最後だとわかっていてもなお、感慨深いものがあった。
思えば、天が定めたようなレールを走ることになった、あの日もこんな良く晴れた日だった。
亜紗は、皇国西部に広がる騎馬民族の出身で、彌皇后になったのは、中立的な立場の仕事だけ行う皇后が欲しいと言う蒙皇王の思惑と、権力を強めたいと考えた一部の貴族の取り決めによるものだった。
彌皇后になった後も、夫である蒙皇王よりも、四務すなわち、徐内務、卓外務、武財務、宝軍務と仕事をしている時間の方が長かった。
そんな、亜紗が、皇后に奉じられて、およそ3か月が経過した時だった。
「ブリム大帝国からの使者?」
「は、今日会見を申し込んでおりましたが、貴国より返答がないため、登宮した。蒙皇王にお目通しいただきたいと、申しております」
卓外務の声に、一瞬眉をひそめた、亜紗は、蒙皇王に、お伺いをするために、近衛を呼んだ。亜紗は、皇后という立場ではあるが、あくまで臣下として、扱われていた。それは、容易に皇王を呼ぶこともできないことからも、その微妙な距離感をわずか2か月の間に感じ取っていた。
近衛は、踵を返し扉から出ていった。皇王がいるであろう、後宮の宦官に渡りをつけることになるだろうから、しばらく時間がかかることになる。
「卓外務、ブリム大帝国とはいかなる国か?」
亜紗は、近くにいた文官に世界地図を広げさせる。世界の真ん中には、ジン皇国があり、その周りには、属国や周辺諸国が散らばっていた。
「この地図は、150年ほど前に、わが国で作られた地図です」
「ここには、ブリム大帝国という名前は出てきていないけど」
「彌皇后、この国です」
地図の左端、上に見切れる様な小さな国があった。
「この国が、ブリム大帝国?」
「ええ、そうです。」
卓外務は、ブリム大帝国のことを、わかっている範囲で、彌皇后に説明していく。亜紗は、それを頭の中を整理していった。
「という国です」
「少し理解できたわ。今の話を聞いて、他に知っていることがある者はない?」
「恐れながら」
徐内務が、発言を求めたので、亜紗はそれを許した。
「彌皇后には、まだお伝えしていませんでしたが、ブリム大帝国とは、ここ5年の間に、何度かやり取りを重ねています。ただ、」
「ただ?」
「皇国から見れば、未開の蛮国とされ、あちら側の心象は悪くなっております」
皇国は、2000年近く前に、開祖の手により開かれた国であり、一時は、大陸の大半を支配したこともあった。しかし、それも、昔のこと、周辺諸国との関係悪化、属国の独立に伴い、今は、じわじわと国力が削られつつあった。
「では、徐内務。ブリム大帝国との交渉内容について、お教えください。」
「は、ブリム大帝国の要求はただ一つです。『海峡における航海の安全の確保をするために、リーベの港湾施設整備を貴国に依頼したい』」
「海峡?航海?」
亜紗は、再び地図に目を落した。大陸の南の端、半島となったところに、麗辺という文字が見えた。徐内務の説明を要約すると、そこは、ブリム大帝国のから言わせれば理想的な、交易港としての立地を兼ね備えていて、まさに、海上交通のの要衝と言える場所であると言われていた。
しかし、現在は、小さな漁村があるだけで、特に整備なども行われていないらしい。
そう言う話を聞いている間に、近衛が戻ってきた。蒙皇王は、蛮国のものと会う予定はないと、一蹴したとのことで、彌皇后に委任すると、返答されたとのことだった。
いつものことながら、そんなに忙しいのかと。亜紗は思い、応接室の用意を近衛に命じ、会談の打ち合わせを行い、卓外務とともに、準備が完了した応接室へと向かうのだった。
豪華な調度品にかこまれた応接室、スーツに身を包んだ、男性は、つまらなそうに白磁の皿を灯にかざした。職人の手により作られた薄い皿からは、灯のがわずかに透けて見えるようだった。
「見給え、ブライトン卿、贅を凝らした素晴らしい部屋ではないか」
「アーサー、あまり、そこら辺を触るものではない」
アーサーと呼ばれた男は、肩をすくめると、手に持った、白磁の皿を、飾台に戻した。他にも水墨画に、名匠の書が、壁に飾られている。
「ブライトン卿、もうかれこれ、2時間近く待っているけど、会見の約束はとれたんだよね?」
「先ほど連絡があった。皇王は職務多忙であるが、皇后が会見を行うとのことだ」
「職務多忙ね。2週間前から、会見を依頼しておきながら、この有様とは、もし、女帝陛下が聞いたら、呆れるね。しかも、自身ではなく、権限のない皇后妃殿下が会うとは、ずいぶんと嘗められたものだね」
「そう言うな。場所が変われば、法もやり方も変わる。ヌーサの王朝を滅ぼしたのは、自身だったということを忘れたのか?」
「忘れてなんかないですよ。ブライトン卿」
アーサーはそう言うと、再び自分のために用意された椅子に腰かけた。ちょうどのそのタイミングだった。
「皇后妃殿下がお付きになりました。」
扉が開かれて、まだ、亜紗と、卓外務が入ってきた。
ブライトンとアーサーは立ち上がり、外交的な儀礼を行い、亜紗は、それを彌皇后として受けた。そのまま、彌皇后は、上座に移動し、卓外務は、二人の真向かいに座った。
「我々の、要求は、変わりません。早急に麗辺の整備をそちらの国にお願いしたいと思っております。」
「いえ、あのですね……その件については、何度も申し上げている通りですね」
議論は平行線をたどっていた。だが、どうも卓外務の様子がおかしい。彌皇后はそれに気が付き、ふと視線を、ブライトンとアーサーに向けた。どう見てもお願いするような物言いではないような……そう言う、チリチリとする感触が、頭を焼いた。
例えるのならば、夕暮れに野犬の群れを追い払おうとしたところ、それは、実は血に飢えた狼の群れで、こちらが襲われることになったという、些細な勘違いが、致命傷になりそうなそう言う危険な気配。
「卓外務!」
冷や汗を流しながら、何とか受け答えをしている卓外務は、彌皇后の声に一度落ち着きを取り戻した。またその声は、ブライトンとアーサーにも、一度落ち着く機会を与えることができたらしく、ブライトンとアーサーは、一度机に置かれた水を口に含んだ。
「貴国は、自分の置かれている状況を理解していない」
すこしの間の後、アーサーはそう言い、水の入っていたグラスを、天井の灯に透かして見せた。
「状況を理解?」
「そう。状況を理解だ。貴国の歴史には敬意を表するが、だが、それで世界の中心であると考えている」
反論しようとした卓外務を、彌皇后は、視線で黙らせ、アーサーに続きを言わせた。
「例えば、この部屋の調度品だけでも、麗辺を、町にし、簡素な港湾施設の作成も可能だろう。このグラス一つでも、庶民なら家が買える。」
アーサーは、最後に残った水を呷るように飲み干す。
「我々は、5年間にわたり、貴国を見させてもらった。交渉にあたいする国であると信じていたが……残念だ。歴史だけの国と言うしかあるまい」
「歴史だけのく……に」
「交易品を集るような国とまともに交渉ができるとかんがえた我々が愚かだったということだ。皇后妃殿下、これは、貴国が抱えるべき案件です。」
ブライトンは、懐から、1枚の紙を取り出し、テーブルの上に置いた、卓外務にはそれを手に取る、アーサーが、封を開けるように促す。卓外務は、厳重に包まれたその紙を開き、書かれていたことに、震えていた。
「ま、待ってください。これは、その」
「卓外務」
「皇后妃殿下にも、お伝えください」
彌皇后は、卓外務からその手紙を受け取る。それは、麗辺周辺の海賊を討伐するように武力行使を許可するという、女帝の勅命書だった。
「なぜ、海賊討伐のことで?我が国と協力すれば……」
その声に、一瞬だけ、ブライトンとアーサーは呆れたような表情を浮かべたが、あっという間に、そこに表情は微笑に変わった。
「貴国に、協力を依頼する所以はない。皇宮で、指をくわえて見ていると良い。会見は以上だ」
アーサーとブラントンは、立ち上がると外交上の儀礼を取り、部屋から出ていった。あとに残されたのは、卓外務と彌皇后だった。二人とも、机の上の勅命書を見たまま、話すことも、動くこともできなかった。
「卓外務……」
彌皇后が、すっかり乾いた口を開いた。卓外務は、その冷えた声に、一瞬身じろきをする。
「わたくしめに、何か隠し事があるのですか?」
卓外務は、彌皇后の不信に満ちた顔を見て、そして、
「一度執務室に戻りましょう」
とだけ答えるのがやっとだった。
「なんて馬鹿なことを……」
執務室に戻った彌皇后は、事のあらましを知り、驚愕に打ち震えたしかなかった。
三床四謝一座の礼
前回のブリム大帝国との会見において、親書を携えたブリム大帝国の使者に、蒙皇王は、属国としての礼を取れと迫った。当然に、使者は激怒し会見は打ち切られた。
そして、それは蒙皇王にも、無礼な蛮国に対し礼を躾けるという大義名分を、得た形になった。
蒙皇王の指揮のもと、麗辺周辺に水軍を派遣し、外国船舶を襲う様に指示した。それは、あまりに無差別に過ぎたため、周辺諸国からも苦情が寄せられたものの、蒙皇王は、その意見を無視した。
このことに対する皇国の取るべきことについて、四務からの意見を聞いている時だった。
「彌皇后、陛下がお呼びです」
彌皇后は、近衛に先導してもらい、蒙皇王の執務室に向かい、言葉を聞いた。
「蛮国の兵により、国土、民に害あるときは、皇国の威をかけて蛮国に報いる所存である」
彌皇后は、その言葉を首を垂れて、受け入れるしかなかった。
たぶん今後出てこない言葉
三床四謝一座の礼
土下座→立礼→土下座→立礼→土下座→立礼→立礼→(顔を伏せ腕を前に組んだまま)座礼