心の不安は格好の獲物
それは彼女の後方から近づいて来た。故に前方だけに範囲を限定した先ほどのポチの魔物検索にも引っかからなかったのである。たが仮に魔物が前方から近づいて来たとしてもポチは認識はしても報告しなかったであろう。何故ならその魔物のランクはEランクだったからだ。
Eランク・・、これより下のランクはFしかない。即ち会社員で言えば平社員のひとつ上である主任クラスとなる。会社での主任クラスは純戦力として最前線でバリバリ働く主戦力だが、ランキングのあるゲーム世界においてはEランクは雑魚に毛が生えた程度の扱いだ。
だがそれは数字だけで判断されるゲーム内での話だ。窮鼠猫をかむの例えではないが、現実ではAランクの実力を持つ者でも寝込みを襲われれば簡単に死ぬのである。上位ランク者の定番防御能力である常時警戒防御魔法などは漫画の世界だけの話だ。もしくはゲームか。
しかしゲーム内でそんな事が可能なのはプログラミングによってそう設定されているからに過ぎない。所詮はゲームユーザーのちんまい無双感を満たす為のチート設定だ。
そもそも、ゲーム内でキャラクターが常時警戒などという燃費の悪い設定ができるのも、本当の魂を持たない作り物だからだ。機械ゆえの疲れを知らない常時警戒なのである。
だが、人の脳は錯覚という認知機能を持っている。故にまるで自ら意思を持って動いているかのように振舞うゲームキャラクターに自分を重ねる事ができるのだ。なので現実では到底成し得ない無茶な設定もまるで自分の能力のように思い込む。
しかし、それはあくまでゲーム内での話だ。現実では負担が大き過ぎて仮に実現出来てもやがて破綻する。
その事を如実に表している良い例が最近とある国で挫折した迎撃ミサイル基地の配備計画だろう。人は常に緊張を強いられる生活には耐えられない。それ故、自らを守ってくれるはずの『チカラ』すら遠ざけようとしたのだ。だが、これもまた形を変えた自己防衛なのだろう。但しその判断の結果に責任を持たなくてはならない過酷な選択なのであった。
そんなEランクの底辺魔物が彼女に近づいてくる。目的は当然捕食だ。だがこの魔物が狙っているのは彼女の血肉ではなかった。そう、この魔物の種別名は『インキュパテス』。捕食対象物を夢の中に誘い込み、その感情や知識、または記憶を喰らう魔物である。
その魔物の姿は先ほど彼女が倒したスライムと似ている。だが大きさは普通だ。精々60センチくらいだろうか。しかし、その体の色は真っ黒であった。その表面は艶すらないので、その魔物のいるところはぽっかりと穴が開いたかのようである。もしも今が夜ならば明かりをかざしても光すら吸収してしまいその姿を見る事が出来ないかも知れない。
『インキュパテス』・・、闇に乗じて人の感情や知識、または記憶を喰らう魔物。そんな魔物が今、彼女を捕食対象としてゆっくりと近づいていた。
だが、今回は敢えてインキュパテスの性質や能力を偏らせて説明したのでインキュパテスはとても恐ろしい魔物と感じたかも知れないが、このインキュパテスに感情や知識、記憶を食べられても別段当事者が死ぬ事はない。精々何か最近物忘れが激しいなと思う程度らしい。もしくは周りからは怒りぽかった性格が穏やかになったなどと思われるかもしれない。
なので正確を期すなら『喰らう』ではなく『消去』されると言うべきかも知れない。そう、インキュパテスは相手の精神に干渉し、その相手が経験してきた事や感情、知識などを奪うのだ。
ただ、奪うと言っても奪われた相手はその事に気付けない。何故なら奪われてしまった感情や知識は当人にとっては初めから無かった事になるからである。
ただ感情や知識、記憶を奪われる事によって精神は疲労する。そして精神の疲労はやがて肉体の疲労となって当人を徐々に蝕んでゆく。そこで新たな経験や知識で埋め合わせが出来る人は元の生活を続けられるが、インプットの少ない人はその穴を埋められず精神的に破滅してしまうらしい。
だが、そんな状況に陥る人はまずいない。何故ならここは異世界なのだ。皆生きるのに一生懸命なのである。なので常に前に向って前進しているのだ。故にインキュパテスによって消去された感情や知識、記憶も周りとの付き合いによって再度構築しなおされ元に戻るらしい。まぁ、中には立ち止まってしまい動かなくなる人もいなくはないが稀である。そもそもそんな人ではとても生きていけないのが、この魔物が普通に跋扈する世界の常識なのであった。
さて、彼女に近づいてくる魔物の説明は済んだ。魔物のランクがEランクという低いレベルなのもこの世界の頑張って生きている人たちにとっては対処法があり、それ程脅威でないからというのも納得したであろう。
だが、それはあくまでこの世界の人たちに対しての脅威レベルだ。こちらの世界から見たら異世界の住人である彼女がこの魔物の精神攻撃に耐えられるかは未知数なのである。
そしてインキュパテスは彼女に30メートルまで近づいたところで攻撃を開始した。この攻撃は精神的なものなので彼女が今勇者特性として施している物理防御魔法は発動しなかった。まさに魔物は彼女の防御の隙を突いたと言えよう。
「あれ?何か急に眠くなってきちゃった・・。あーっ、やっぱりさっきの爆発が効いたのかな。んーっ、村まで後少しなんだけどなぁ。むーっ、がんば・・。」
インキュパテスの攻撃により彼女は瞬く間に夢の中へと落ちていった。それによりポチは魔物の存在を認識したが、情報検索コマンドでしかないポチにはどうすることも出来ない。そもそも彼女の意識が眠りにつけば彼女に呼び出されたポチも活動を中止する事になるのだ。
まぁ、これも抜け道はあって、事前に彼女からの命令があれば、ポチは彼女が寝ている間も活動できるのだがその事を説明する間もなく彼女は寝てしまった。なのでポチは自分の失敗を知覚したが時は既に遅し。やがてポチもその存在を彼女の前から消した。後には仕留めた獲物を貪るべくインキュパテスだけがしずしずと彼女へ近づいて来たのである。
そして今、彼女は夢の中で3年近く恋焦がれた憧れの王子と会っていた。これもまたインキュパテスの攻撃だ。インキュパテスは相手が一番望んでいる事を探り出しそれを夢の中で再現させる。そうする事で守りが緩んだ精神防御網を突破し相手の感情や知識、記憶を奪うのだ。
そうゆう意味では、インキュパテスの攻撃は相手を一時的とは言え幸せにするとも言えなくはない。だがそれは麻薬のようなものだ。その幻に精神を囚われた者はその幻に依存するようになる。そしてついには夢と現実の区別がつかなくなる。そうなった者の末路は悲惨だ。こちらの世界ではそうなる者は滅多にいなかったがゼロではなかった。
そんな麻薬のような夢に今彼女は魅せられている。
「ああっ、アルバート王子。お会いしとうございましたっ!あの日、あなたのお姿を拝見して以来、どれ程この時が来るのを待ち焦がれたことでしょうっ!」
「ああっ、姫よっ!私の愛しい人よ。私こそこの瞬間を待ちわびていたのだよっ!本当ならば私自らが出向いて迎えに行きたかったのだが、不甲斐ない私を許しておくれ。」
「いえ、とんでもございませんっ!王子の思いは例え世界が違っていても私へと届いておりましたっ!」
夢の中で彼女はアルバート王子との初見を涙ながらに喜んでいた。ただ彼女たちの言葉使いが少し変なのや、服装がまるで中世の舞踏会にでも出るかのように派手なのは彼女の王子様像がそうなっていたからであろう。
そう、所詮夢はそれを見る人の知識と想像の産物でしかない。故にその人が想像できない事は再現できないのだ。だが裏を返せば夢とはその人だけが見る世界だ。つまりその人が望みさえすれば何でも有りなのも夢の持つチカラである。なのでその人の思いが強ければ強いほど、現実では有り得ない事も夢では起こせるのである。
だが、果たして彼女は生まれてこの方、異性と付き合った事もないうぶな夢見る夢子ちゃんであった。故に彼女は夢の中でさえ、本来なら気持ちの高ぶりと共にどちらとも無く自然と誘うであろう次の行為が想像出来ないでいた。
そう、夢の中で彼女と王子は抱きしめあったまま次の行為へと進めていないのだ。そんな状況に彼女の性本能が文句を言い出す。
いや、彼女とてまるでそっち方面の知識がない訳ではない。彼女だって膨大な情報が氾濫している現代を生きる若者なのだ。なので、その手の知識はしっかりとネットで調べたり女友だちと情報交換をしていた。だが実践を伴わない知識だけでは言うは易しで、いざ事に及ぼうとすると具体的にどうすればいいのか彼女は判らなかったのである。且つ、未成年特有の穢れを嫌う彼女の理性が常識というモラルを持ち出して邪魔をした。
いや、理性ではないかも知れない。ただ単に男性側の性衝動を女性である彼女が理解していなかっただけかも知れなかった。故に夢の中で彼女は待った。王子の方から行動を起こしてくれる事を。
だが、これは彼女の夢である。男性の性衝動を理解していない彼女に男性のリードを再現する術はなかった。
いや、知識としてならあったのだ。王子のあれがああなると、ああしてああなるはずだから、そしたらこうして、ああしよう。後はその場の雰囲気にお任せねっ!てな感じである。
だがそれとて断片的なもので多分に乙女フィルターが掛かったものであった。故に夢の中の王子は彼女を抱きしめたままフリーズしてしまった。
そう、受身で男性からのアプローチに身を任せるのが乙女心のスタンダードだとするならば、女性である彼女に夢の中の王子を男性として操作する事など出来る訳がないのだ。
なので、待てど暮らせど王子から次のアプローチがない彼女は本来人間が持っている性本能に則りぶち切れた。
「王子っ!あなたはお人形さんなのっ!こうして七難八苦を乗り越えて、やっと出会えたっていうのに抱きしめあっているだけだなんて、王子っていつの時代の人なのよっ!」
だが、彼女の癇癪に夢の中の王子は反応しない。ただにこりと微笑みかけるだけだ。もっともこれも彼女の願望がそうさせているので王子に罪はない。だが、夢の中の彼女はそんな王子の反応にますますヒートアップする。
「王子っ!聞いているのっ!」
その時、彼女の中で何かが爆散した。それは多分インキュパテスの攻撃魔法だ。そう、インキュパテスの攻撃魔法は彼女のあまりの怒気に耐え切れなかったらしい。
だがそれももっともだろう。普通、自分の夢の中で思い通りに成らないからといって怒り出す人はあまりいない。つまり、インキュパテスは彼女の理不尽な感情に耐性がなかったのだ。故に彼女の怒りを自分に向けられたものと錯覚したインキュパテスは、このままでは危険と判断し魔法を解いて逃げる事にしたのである。
そして彼女は夢から覚める。当然ポチも覚醒し彼女へ忠告した。
『ピッ、あなたの10メートル後方。インキュパテスが逃げます。』
「えっ、インキュパテス?なにそれ?」
『ピッ、多分今まであなたは夢を見ていたはずです。その夢はインキュパテスがあなたの知識や記憶、それに欲望を具現化して見せたものです。時間的にはまだ記憶を奪われてはいないでしょうが一回精神に進入を許したインキュパテスは敵に利用されると厄介です。なので討伐する事を進言します。』
ポチの言葉に彼女は夢の内容を思い出し始める。そしで徐々にその顔が赤面していった。
「がーっ!なんつう夢を見させたのよっ!許すまじっ、インキュパテスっ!乙女の純情を弄ぶとは万死に値するわっ!どこにいるの、インキュパテスっ!ぎったんぎったんにしてやるから覚悟しろっ!」
そう言うと彼女はどこからともなく例のバールを取り出して辺りを見渡す。そして後方にごそごそと逃げていく真っ黒いスライムを発見した。
「貴様かーっ!」
インキュパテスを発見するや否や彼女はバールを上段から振り下ろした。だがそのバールの長さでは投げ付けでもしない限り10メートル先を逃げるインキュパテスには届かない。えーと、届かないはずなんだけど何故かインキュパテスは彼女の振り下ろしたバールの動きに合わせてぐしゃりと潰れてしまった。
いやはや、これが勇者特性を持つの者のチカラなのだろうか。そもそも物理攻撃が効きにくいと言われているスライムを一撃の下に葬るとはまさにチートの極みだ。いや、インキュパテスはスライムに似てはいるが別の種類だから物理攻撃も有効なのだろうか?いや、バールは届いていなかったよな?ん~、チートだ・・。
どちらにしても彼女を夢の中で苛立たせたインキュパテスはもういない。しかし、彼女の中では以後インキュパテスは見つけ次第抹殺すべきものとしてゴキブリの次の位置にリストアップされたのだった。