立ち上がれる理由
「――――リー。……マリー。マリー! 目を覚ましいてください、マリー!」
「まだ脈はある。焦るな落ち着け! こういうときは冷静に……、呼びかけ続けろ!」
「あんたが落ち着きな! 荷物の中に聖水があるから、早く準備を!」
「お、おう。そうだな!」
深い意識下の深淵で眠るマリーに、張り上げられた声が届く。聞き覚えのあるその声は、風流で余裕のあるいつもの調子とは打って変わって、焦燥とマリーを心配する色に満ちている。
何度も、何度も何度も声は降り注ぐ。マリーが明確な反応を示さずとも、心臓が鼓動を刻み呼吸をしている限りは決して止むことはなかった。
どれくらいの時間が経過しただろう。いつの間には眠ってしまっていたマリーは、気だるい身体と瞼を動かして目を開ける。
ようやく目を開けたマリーが見上げた景色は、清々しいほどの快晴であった。思わず目を覆ってしまう光。目を細めてしまい遅れたが、自らを見守ってくれていた存在に気が付いた。
「ミチーナ……。 ……と、リュージーン?」
「おい待て。どうしてオレは疑問形なん」
「えぇ。ミチーナですよ。ずっと眠ってたけど、体調は大丈夫です?」
リュージーンのしかめっ面を押し退けて、ミチーナが穏やかで柔和な微笑みを浮かべた。有翼の幻馬。純白で清廉なペガサスの麗、ミチーナの微笑みには心底安心した様子が窺える。
「体調は、少し疲れたかな。あと、左腕が……」
「ですね。見るからにボロボロですから、少し手当てさせてもらってますよ」
そう言ったミチーナはリュージーンに視線で指示を出す。リュージーンはミチーナの手厳しい当たりに文句も言わず、荷物の中から掌サイズの小瓶を取り出した。手早く小瓶の栓を開けると、中に満ちた純度の高い水をマリーの左腕にかける。
「うっ……! 染み、る……! がぁ……!」
裂傷に擦過傷、剥き出しの身に水が染み渡る。失ったと思っていた痛覚が頭を上げて、マリーの身体を迸った。マリーは左腕を始点とする激痛に悶え、脚をバタつかせて暴れ出す。
「少し辛抱ですよ。痛いのはよぉく分かりますが、ここは堪えて……」
「あぁ! 痛い……。あぁぁぁぁぁぁ――――!」
マリーの悲痛な叫び声が晴天に轟く。ミチーナは暴れ抵抗するマリーを苦心して抑え付け、申し訳なさそうに眉をひそめた。
痛みに悶えたマリーは冷静さを欠いた。アイリーンとの戦いで張り詰めていた緊張感が解けたことも相まって、痛みに従順に従い苦痛から逃れようと暴れる。辛うじて動く右腕でリュージーンを殴りつけ、抑え付けるミチーナの首筋に噛み付いた。それでも逃れられない激痛に意識が遠退くが、再び身を襲う衝撃により戻される。
「はぁはぁはぁぁぁぁ…………!!」
マリーの悲痛な叫び声が絶えず木霊する。ミチーナとリュージーンは身体の痛みよりも心を痛めながら、マリーに「聖水」と称した水をかけることを止めない。
時間にして僅か1分に満たないできごとであったが、それは嵐のように過ぎ去った鮮烈な時間であった。小瓶の中の聖水が果てたとき、マリーの意識は途切れていた。
「えらく悪い気分。リュージーンは身体は大丈夫ですか?」
「何言ってんだ。これは治療行為だ。恨まれることはあれど後悔することはない。それに、傷で言えばミチーナの傷の方が痛々しく見えるが」
「うちの傷なんてマリーの痛みに比べれば……」
ミチーナは白い首筋に浮かず血痕を舐めとった。微かな痛みよりも、マリーの激痛を慮って沈鬱な顔をする。
「ぅうう……。私は……」
激痛に気を失ったマリーが再び目を覚ます。先ほどまでの絶叫と青冷めた顔色とは打って変わり、血色のいい快調な目覚めであった。
それは最も感じているのはマリー本人だ。マリーは悪い夢でも見ていたのかと瞼を擦り、横たわっていた上半身を起こす。
「ミチーナ。リュージーン。私は夢でも見ていたのかな?」
「いいえ。夢ではありません。ですので、身体の感覚も戻っているでしょう?」
「え? 身体……。あ、腕が……!」
マリーはミチーナの言葉で左腕の感覚を再認識する。骨は砕かれ肉は掻き混ぜられ、僅かに動かすだけで激痛走っていた左腕だったが、今やその感覚は全くない。マリーが動かした左腕には微かな重さは感じるが、指先を自由自在に開閉できるほどまでに超回復している。ジャバウォックに咀嚼されたことが夢だったかとも思うが、細腕に残った無残な傷痕と痣が否定する。
「マリーの綺麗な腕に痕が残ってしまいました。申し訳ないです」
「そんなことより、どうして回復しているの? 魔法でも急にここまではいかないよ!」
「その秘密は「これ」だ」
不思議がるマリーに向けてリュージーンが答えを提示する。リュージーンの手には小瓶が握られており、その中には向こう側まで透けて見えるほどの水が注がれている。
「これは「聖水」。ヒッポカンパスたちの権能で生み出された、治癒力を高める効果を持った水だ。一滴飲めば滋養強壮に、滴を垂らせば万能薬。それを一瓶丸ごと使ったんだ。直ってもらわなければ困る」
「うちらがこの「聖水」を運んできたところに、突然の大爆発がありました。すぐにマリーの魔法だと分かったので駆け付けてみれば死闘の後でした。ひとまずマリーの大怪我を治療すべく聖水を使いましたが、苦しい思いをさせました。
申し訳ありません」
改めて頭を垂れつミチーナをマリーが宥めた。白く美しい頭を優しく撫でて、穏やかな言葉をかける。
「感謝こそすれど、恨むことなんてしないよ。来てくれて本当にありがとう。助かったよミチーナ」
「え? オレは?
……まぁいいか。それよりユゥはどこ行ったんだ? 戦っていた敵の姿も見当たらないが?」
「それは…………」
リュージーンの質問は悪意あるものではない。後から駆け付けた者ならば誰しも抱く疑問であるが、いわゆるマリーの地雷であった。
リュージーンは何かマズいことを口走ったと自覚し、気まずそうに口をどもらせた。
マリーはリュージーンを攻めることなく、穏やかな表情をしていた。そしてマリーの口から、死闘の全てが語られる。
アイリーンとの接敵と攻防。ユゥの死とジャバウォックへの変貌。マリーの絶望とホーキンスの贈り物、「魔女殺し」の魔鎌とユゥスティアの覚醒。そしてアイリーンとの最後の攻防――――。
「それは……、許しておけませんね」
「大丈夫だよミチーナ。もう、終わったから」
マリーの話を聞いて、ミチーナは怜悧な瞳に火を灯し沸々と怒りを燃やしていた。
だが、そんなミチーナをマリーが嗜めた。マリーが最も怒りを滲ませていてもおかしくないのだが、肝心のマリーが一番冷静で大人びた振る舞いをしていた。
マリーから滲み出る安心感に、ミチーナは怒りを潜めた。マリーがそう言うのならば大丈夫だと胸を撫で下ろし、顔を上げる。
「では、うちらはこれからどうします?」
「もちろん進むよ」
マリーは疲労を忘れ軽くなった身体を起こす。その右手に純白の魔鎌「ユゥスティア」を提げ、ミチーナの背に跨った。
「……で、オレは誰に乗ればいい?」
「「歩けば?」」
「嘘だろ!?」
普段と変わらぬペースで、マリーは前へ進む。マリーがアイリーンと違うのは、ともに笑い進む仲間がいる。
仲間の想いを背負うマリーは何度挫けても、何度でも立ち上がる。マリーの手を取って肩を支える仲間とともに、マリーは次の戦場を見据えていた。
マリーとリュージーンを乗せたミチーナが晴天に飛び立つ。目指すのは魔王軍の総大将である魔王が居座る魔王城。その城郭では、魔王が重い腰を持ち上げていた。




